怒りの矛先
畳の上に敷かれた布団と違って、寝台という代物は妙に柔らかい。
エウルに来て唯一気に入った羽毛の枕を抱きしめながら、胡蝶は不貞腐れていた。
「頭を打った上に、慣れないエウル生活の心労が溜まっただけみたいだよ。まったく、冷や冷やさせて……警護する身にもなってよ。いつもの体力なら、あんな相手に不覚を取らないはずだろうに」
「だったら、平気なんだろう。もう仕事や稽古をしても大丈夫だ」
「ダメだ。少し休んでも平気だから、仕事は影連さんに任せなさい。また食欲が減ったんだろう? もっと、いっぱい食べないと」
「こっちの食事は口に合わないんだ」
まるで、子供を宥めるような声で言われ、胡蝶は楓雅を睨みあげた。
しかし、楓雅は何食わぬ顔でニヤニヤ笑い、寝台の脇で足を組んでいる。
「あまり寝ていると身体が鈍る」
「いいじゃない。よし、綺羅嬢に文を書こう。彼女の書く皇室小説、女の子の間で人気らしいよ。良いネタを仕入れて来いって、おねだりされてるんだよね」
「ああ、あの軽く皇室侮辱罪に当たりそうな……って、あれは綺羅が書いていたのか!?」
「その筋では有名な話だよ。まったく、虎姫は疎いんだから」
当たり前のように言われても困る。
本当に、楓雅に関しては何処から突っ込めばいいのかわからない。
胡蝶は呆れた溜息をつきながら、枕に顔を埋めた。
エウルの文化は気に入らないというか、肌に合わないものばかりだが、この枕や寝台の柔らかさは、なかなか気に入っている。
瑞穂帝国は大陸一の大国であり、今や人種の坩堝と言われるほど異国民で溢れている。異国の文化など嫌というほど入ってくるし、宮廷に仕える貴族の間でも大流行していた。
それでも、外国へ行くのは違う感覚があるし、思った以上に瑞穂には瑞穂文化が根付いていると気づかされる。そして、胡蝶は自分が思っていた以上に、エウルに馴染めなかった。
だからなのか、気に入ったものを見つけると、それなりに心がくすぐられる。
童心に返って寝台の上で跳ねてみようかと思った瞬間もあるが、流石に楓雅や影連に見られたら恥ずかしいので、一度もやっていない。
――こらこら、胡蝶。いけませんよ。
そういえば、いつかもこんな気分になって、母に諌められたような気がする。
いつだっただろうか。
宮に華国から贈られた品が届いたとき?
いや、あれはもっと違う寝台だったと思う。
三年前に他界した母の思い出は、よく覚えているつもりだ。
たくさんいる皇子や皇女の中でも、胡蝶はことさら可愛がられていた。
占術師でもあった母は胡蝶に様々なことを教えてくれた。
けれども、ときどき、思い出せないことがある。
母の記憶はどれも優しくて温かいもののはずなのに、一部だけ欠落している気がしてならないのだ。
それがいつのことで、何の記憶だったのかは、ほとんど思い出せない。
ただ、それと同時に大事なものを失った気がしてならなかった――。
「コチョウ様、入ってもよろしいですか?」
胡桃材の扉がコンコンと、乾いた音を立てて叩かれる。ノックというらしい。
こんな入室の仕方をする者は、一人しかいない。
胡蝶は険しい表情で眼を細め、寝台から身体を持ち上げた。
「どうぞ、入っておいで」
胡蝶の代わりに楓雅が入室を許可する。
すると、一拍遅れて、ジルが丁寧に部屋の扉を開けた。
「お遣いを頼んだんだよ。退屈してる虎姫のために、甘いものを調達してくれって。瑞穂から持ってきたのは、保存用の硬い菓子ばかりだろう?」
「余計な真似を」
「勇猛果敢で苛烈な皇女様も甘いものには目がないって、可愛らしいよね。そうだ、今度、媚薬でも調達しようかな。紅く頬を火照らせながら、すがりつく虎姫の姿を想像すると、こっちの胸まで熱くなってくるね。ああ、良い絵だ」
「お前には、絶対に食べ物の用意は頼むものかっ」
変態妄想を垂れ流しながら部屋から出ようとする楓雅。
その背に枕を投げつけて、胡蝶は憤怒の息を漏らした。
「何か盛られていないか心配なら、口移しでもいいよ?」
「だから、お前には許嫁がいるだろっ!」
投げた枕は、あっさりとかわされて扉に激突してしまう。
それを拾い上げて、ジルが胡蝶に手渡した。
「お気に入りなのでしょう?」
いつものように笑う顔を見て、胡蝶は枕をジルからひったくる。
変わらない。全く、いつも通りのジルだった。
――本当に、わからないのですか?
獣人に襲われたときに見せた、あの顔は何だったのだろうか。
酷く哀しげで、寂しげで……あんな表情を浮かべるジルを見るのは、初めてだった。
「フウガ様から頼まれました。あいにく、帝国の菓子は手に入らなかったので、似た形にしてくれと頼んでみました」
そう言いながら、ジルは胡蝶の前に皿を差し出した。
「その傷は?」
ジルの顔をよく見ると、猫に引っ掻かれたような傷がいくつもついている。
胡蝶に指摘されると、ジルは何でもないかのように笑ってみせた。
「菓子屋につけられてしまいました。僕の頼みを聞いて怒ってしまって……でも、根はいい人ですから、ちゃんと作ってくれましたよ。そんなことより、どうぞ」
言いながら、ジルは皿を胡蝶の前に寄せる。胡蝶は何も言わず、渋々、皿の上を見た。
皿の上に乗っていたのは、薄い卵生地に包まれた丸い菓子だった。
上には花の模様にも見える白餡のようなものや、赤い果実が可愛らしく乗っている。
ジルが食用刀で丁寧に中を割ってみせると、色の薄い餡に似たものが見えた。
確かに、瑞穂の饅頭や大福のように見えなくもない。
「チョコレートクリームをクレープ生地で包みました。お口に合うように、甘さは控えてもらいましたよ」
胡蝶が常々、エウルの料理は濃い口で不味いと言っていたのを覚えていたのだろう。
見たことがない菓子だが、非常に可愛らしくて興味がわいてきた。
だが、胡蝶は自分が菓子を眺めすぎていることに気づいて、表情を改める。そして、皿を軽く押してジルへ突き返した。
「欲しくない」
獣人の職人など、信用していない。そう意思表示して、胡蝶はジルから顔を背ける。
「しかし、エウルに来てから、コチョウ様はあまり食事を摂らないと、フウガ様が言っていました。甘いものなら食べると思うから、意地でも食べさせろと」
「お前は、いつから楓雅のイヌになったんだ」
「でも、最近のコチョウ様は少食です。倒れたのも、それが原因だと思いますよ」
ジルの言う通りだ。あんな狼相手に苦戦してしまったのも、元はと言えば、胡蝶の偏食が原因だと薄々気づいていた。
以前は少し頭を打ったくらいで倒れるなんてこともなかったのだ。
ジルに図星をつかれると、ますます腹が立つ。
何故か悔しくなって、張るべきではない意地を張ってしまいたくなった。
「コチョウ様」
「――うるさい、黙れ!」
胡蝶は喚くような声を上げてしまい、自分でも狼狽する。
たかが奴隷のイヌ相手に、感情を露わにするなど有り得ない。
わかってはいるが、胡蝶は自分を抑えきれず、ジルの頭に乗った耳を乱暴につかんでやる。
反動で皿の菓子が寝台の上にこぼれ落ちてしまった。
それでも怒りがおさまらず、胡蝶はジルの首元に見え隠れしていた革紐を引き千切る。
革紐の先についた歪んだ耳飾り。
こんなものを大事にして、ジルは寂しげな表情を浮かべていた。
胡蝶の前で、初めて、表情を曇らせていた。
胡蝶は耳飾りを握りしめ、窓の方を見る。
そして、怒りに任せて、開け放たれた窓の外へと投げ捨てた。
「ああっ……!」
ジルが短い悲鳴のような声をあげて、外へと投げ出された耳飾りを見る。
そして、彼の耳をつかんでいた胡蝶の細腕を信じられない勢いで振り払った。
ジルはそのまま窓へと走り、耳飾りが落ちた庭を覗き込んだ。
そして、胡蝶を振り返る。
言葉もなく胡蝶を見据える藍色の眼。
笑顔でも、寂しさでもなく……ジルから初めて向けられた怒りの感情が胡蝶に突き刺さる。
しかし、尻尾の毛を逆立て、鋭い犬歯を剥き出しにしながらも、彼は何も言わない。
何も言わないまま、胡蝶をずっと見ていた。
ずっと、ジルにこんな顔をさせたかったはずだ。
こんな風に、敵意に表情を歪ませ、罵りたかったはずだ。
従順だが、決して屈しないジルの心を支配してしまいたかった。
それなのに、心の何処かで、違うと言っているような気がした。
こんなに苦しそうで、脆くて、消えてしまいそうな表情を見たかったわけではない。
怒りの視線を向けながらも、何処かで噛み殺しているような、そんな表情をさせたかったわけではない。
違う。胡蝶が求めていたものは……もっと、
「待て――」
我に返ったときには、ジルは胡蝶の部屋を飛び出していた。
耳飾りを探しに行ったのだろうか。胡蝶が思わず呼び止める声さえ、届かなかった。
「何をやっているんだ、私は」
言葉を吐き捨てて拳を握る。自分が望んでやったことではないか。
たかがイヌを怒らせたくらいで、何を後悔しているのだろう。何故、こんな気持ちになるのだろう。
やり場のない感情が何なのか、何処にぶつければ良いのかわからず、胡蝶は寝台を叩く。
敷布の上に転がっていた柔らかな菓子を潰してしまい、胡蝶は自らの掌を見た。
そして、おもむろに、指先についた茶色の餡のようなものを舐める。
甘い。
瑞穂にはない味だが、何処か懐かしい甘さが舌先に解けるように溶けた。
――猪口冷糖と言うそうです。胡蝶の食が進まないようだから、特別に作って頂いたのですよ。甘いものなら、食べるでしょう?
「どうかしてる」
何故だか呼び起される甘い記憶。
いつのことか、何処の出来ごとかも思い出せない母の声が頭に優しく響くようだった。
これは、いつの記憶なのだろう。
胡蝶がエウルに来たのは、総督に任命されて以降が初めてのはずだ。
母と外国へ行った記憶もない。
こんなに甘い食べ物が宮の献上品として贈られた覚えもなかった。
それなのに、どうして、こんなに懐かしく思えるのだろう?
胡蝶は母からもらった肌守りを握って唇を噛んだ。
――約束する。また、ここで会おう。
何か大切なものを失っている気がするのは、何故だろう?
心の空虚から抜け落ちたものは、いったい何なのだろう?
本当は、いったい何に腹が立っているのかさえ、わからなくなっていた。