奴隷犬
――いいですか、胡蝶。
深い記憶の底に眠る淡い声。
それが母の声だということは、なんとなく、覚えている。
しかし、母がどんなことを話しているのか、全く頭に残っていなかった。
――決して、中を見てはなりません。あなたは賢い娘ですから、出来ますね?
ただ、何かを約束したことを覚えている。
そして、その記憶と共に、何かが自分の中から抜け落ちている気がした――。
「殿下、輿の準備が出来ていますよ」
影連に促されて、胡蝶は我に返る。
少し、ぼんやりしていたようだ。昨夜見た夢のせいかもしれない。
胡蝶は懐に入れた肌守りの袋を手に取る。
昔、后である母が持たせてくれたものだ。「必ず肌身離さず持っていないさい。けれども、決して、中を見てはなりません」そう言われたことを覚えている。
だが、何故、そんなことを言われたのか、胡蝶は未だにわからなかった。けれども、母の言いつけは破れない。
「私は馬の方が好みだがな」
「なりません、慣例でございます」
胡蝶は真紅の着物と袴、いつものように刀をさげて、輿の上へと乗る。
瑞穂では移動の際に籠か馬に乗るものだが、隣国華国との国交を強めてからは、そちらの文化も多く流れていた。
そのため、外国への使節や、属州を治める総督の移動には専ら輿が使われている。
理由は権力を誇示出来るから。
そんな慣例を胡蝶は好ましくは思っていなかったが、総督として赴任したからには従わなければならない。
男たちの持ち上げる輿の上で、胡蝶は重い鉄の鎖を鳴らした。
「見せしめだ、来い」
輿の隣を鎖に繋がれたジルに歩かせ、民衆への見せしめにしてやる。
元王族がイヌのように扱われている姿を見て、獣人たちはどう思うだろう。
いや、そんなことは関係ない。
胡蝶は、ただジルの反応が見たいだけだ。民衆の前に晒されて辱められて、ジルがどんな顔をするのか見てみたかった。
「はい、コチョウ様」
しかし、ジルの表情はいつもと何ら変わらない。
期待は薄かったが、胡蝶は落胆して、口を曲げた。
「お前には、誇りがないのか?」
「ありますよ」
「私がお前なら、罵声の一つでも浴びせて刃を振りかざすが。ああ、お前の場合は牙か?」
「でも、僕は僕。コチョウ様は、コチョウ様でいらっしゃいますから……僕だって、譲れないものの一つや二つはあります。それが、コチョウ様とは違うと言うだけの話ですよ」
まるで、胡蝶がつまらないものに固執していると言いたげだ。
本当に、この男はどうすれば屈するのだろう? 胡蝶はあからさまに顔を歪め、輿が動くと同時に鎖を乱暴に引いてやった。
輿が石造りの街を通っても、ジルの態度は変わらない。
道行く人々がジルのことを元王子だと気づいて悲壮の目を向けても、帝国のイヌになり下がったのかと罵られても……ジルは澄ました顔で、胡蝶について歩く。
胡蝶は、そんなジルの態度がますます気に入らず、奥歯を噛む。
こちらの方が絶対的優位に立っているはずだ。
頸を落とそうと思えば、いつでも落とせる。
それなのに、何故だろう。
弄ばれているのは、胡蝶の方だという気がしてならなかった。
そして、ジルの顔を見るたびに、心の中に眠っている何かが疼く。だが、それが何なのかわからず、胡蝶は更に苛立ちを感じてしまった。
胡蝶は懐にさした扇子を取り出し、口元を隠す。
だが、不意につまらなさそうに眼を伏せながら、その扇子を手放した。
扇子は輿の下へ転がり、ジルの足元に落ちる。
「拾え」
冷ややかな声で言って、輿を止めさせる。
だが、ジルの両手は後ろで枷が嵌められていて使えない。黙って胡蝶を見上げていたが、やがて、地面に膝をついた。
「はい、コチョウ様」
手ではなく、口を使って扇子を拾おうと屈みこむ。
その様子を見て、街の獣人たちがいっそう、騒ぎはじめた。
「なんてことを……」
「俺たちを侮辱しているのか」
憎悪の視線が胡蝶に集まり、突き刺さる。
それなのに、当のジルは何食わぬ顔で扇子を咥え、胡蝶を見上げていた。
胡蝶は手にした鎖を力いっぱい揺らし、ジルの身体を傾けさせる。すると、その反動で彼の口から扇子が再び地面に落ちてしまう。
「何をしている、ちゃんと拾え」
そう促すと、やはりジルは従順に、されど、つかみどころのない態度で再び膝をつく。
突如、輿の様子を遠巻きに見ていた街の民衆の中から、男が一人駆け出る。
そして、輿に乗った胡蝶に向けて、銀に輝く短剣を投擲した。
「帝国に屈してたまるか!」
胡蝶はとっさに刀を抜き、投擲された短剣を弾き返す。
刃が甲高い音を立てて欠けるのがわかった。
獣人の男は怯まず、尻尾の毛を逆立てて鋭い犬歯を剥き出しにした。
その瞬間、男の体毛が急激に伸び、身体を覆って着衣を破っていく。直立していた姿勢が前のめりになり、腕も前足に変化した。
「狼か」
変化だ。
獣人特有の生態を前にして、胡蝶は冷静に輿の上から飛び降りる。
周囲を守っていた楓雅が馬上で弓を番え、他の武官たちも刀に手をかけた。
だが、遅い。大きな狼となった男は風のような速さで地を蹴ると、まっすぐに胡蝶へと向かってくる。
楓雅の矢が背中を突くが、興奮しすぎて効いていないようだ。
「く、ッ……!」
剥き出しになった牙を刃で受け止めて、胡蝶は思わず表情を歪めた。
想像以上に力が強い。
鍛えているとは言え、胡蝶の細腕では、押し戻すので精一杯だった。狼が胡蝶から離れなければ、楓雅や他の警護も手を出せない。
「危ない!」
牙を逸らそうとした瞬間、前足の爪が胡蝶の顔に迫る。
刹那、鎖の音と共に身体を横から突き飛ばされる。
狼に気を取られていた胡蝶は呆気なく身体を傾け、地面に倒れてしまった。
「虎姫、大丈夫か!」
狼が胡蝶から離れた瞬間を見計らって、楓雅が矢を放つ。
矢は鋭く風を裂き、狼の肩を見事に射抜いた。今度は狼も呻きを上げ、のた打ち回って倒れる。
「大丈夫ですか、コチョウ様!」
問われて、胡蝶は真っ白になりかけていた意識を取り戻す。
急いで顔を上げると、ジルが心配そうに覗き込んでいた。
遅れて、楓雅が馬から降りる。
「心の臓が止まるかと思ったよ。君を死なせたら、綺羅嬢に口を聞いてもらえなくなる」
「そんなこと知るか」
楓雅の軽口を適当に流しながら、胡蝶は鈍い動作で起き上がる。
どうやら、頭まで打ったようだ。
脳天が揺れるような感覚を味わいながら、胡蝶は周囲を見回した。
楓雅に射抜かれた狼は人の姿に戻り、警護の者たちに取り押さえられている。
ジルを見ると、胸元のシャツが破れており、狼の爪痕がついていた。
「お前が助けたのか?」
「はい」
当然のように言い放つジルを見て、胡蝶は混乱してしまう。
どうして?
胡蝶はジルに酷い仕打ちばかりしている。
彼の屈辱に歪んだ顔を見ようと、イヌのように扱い続けてきた。
胡蝶を憎んで殺すことがあっても、助ける義理など何処にもないではないか。
それも、獣人たちの前で支配者たる胡蝶を守るなど、有り得ない。
「何故だ」
ジルの破れたシャツの間から、革紐に繋がれた何かが見え隠れする。
何気なく目を凝らすと、歪んだ銀の耳飾りのようなものだとわかった。
何か宝玉が嵌まっていたのだろうか。
汚れて曲がった耳飾りの中心には、大きな穴が空いている。
ジルはそれを守るように隠しながら、胡蝶を見た。
その表情はいつもの笑みではなく、何処か寂しげで、愁いを帯びた脆く儚いもの。
「本当に、わからないのですか?」
「なに、が……?」
言っている意味が、よくわからなかった。
胡蝶は考えを巡らせるが、そのうち、頭の中が真っ白になってしまう。
「虎姫!?」
突然襲った目眩に再び身体を傾けながら、胡蝶は記憶の底に眠る闇へと沈む。
けれども、そこには暗い穴が空いているばかりで、何もない。
何も思い出すことが出来なかった。
――良いですか、胡蝶。決して、中を見てはなりません。
――約束する。また、ここで会おう。いつか必ず、会いに来る。
いつかの記憶と共に失くした空虚が心を蝕み、呑み込まれる気がした。