虎姫
弦を放した瞬間に耳元で風が生まれ、ヒュンと矢が唸る。
矢は鋭い弧を描いて、離れた的へと吸い込まれていく。
見事に的の中心を射抜き、胡蝶は浅く息を吐く。そして、隣で弓を番える競争相手に視線を遣った。
その視線に気づいたのか、従者であり友人でもある武官浅野楓雅は余裕の笑みを浮かべた。
「お見事。弓は苦手だと吹聴しているのは、嫌味か何かかい?」
集中力が要求される弓術の最中に話しかけてくる方が、よほど嫌味だ。
楓雅ほどの弓の名手は、本国でも数えるほどしかいない。
胡蝶は聞こえない振りをしながら、表情を曲げて不機嫌を表す。すると、楓雅は唇に愉しげな笑声を含んだ。
「それとも、応援している玩具に良いところを見せたいのかな?」
至極面白そうに笑うので、胡蝶はつい反論しようと口を開く。
だが、その瞬間に、楓雅の弓が風を切り、矢が的の中心を捉える。
先に放たれた胡蝶の矢を綺麗に割って、中心に刺さった。その様に満足したのか、楓雅は涼しい笑みを浮かべた。
中庭に作った突貫の弓道場。
頭上を仰ぐと、石壁によって四角く切り取られた空が流れている。
エウルの王族が住んでいたと言うローゼンベルク城は、明るい陽射しに白亜を輝かせ、いつもと変わらぬ佇まいを見せていた。
瑞穂風の新しい邸宅を建てるまでの間、不本意ながら、この城に住まなくてはならない。
城の内部は薄暗くて風通しが悪い部屋ばかりだ。
畳もないので、いちいち、履物がなければ歩けないのも不便だった。
鼻緒や下駄では、あまりに過ごし難いため、胡蝶は足袋を履かなければならない。
それに、瑞穂と違って湿気の少ないこの気候。
瑞穂風の邸宅を建てたところで改善される見込みのない不便さに、胡蝶は参ってしまいそうだった。
食事も濃い口で塩辛く、あまり喉を通らない。
楓雅は、いっそ履物だけではなく、装いもエウル風にしてしまった方が気候に合うのではないかと言うが、それは属州を預かった支配者としての誇りが許さない。
「虎姫は、本当に意地っ張りで可愛いね。エウルの着物も似合うと思うんだけどなあ。首元や肩が結構出てるのも多いんだよね。身体の線だって、瑞穂の着物よりもはっきり見える。いいじゃないか、艶めかしくてそそられるっていうか、うん。とっても、似合うと思うんだよね」
「それを聞いて、尚のこと着たくなくなった」
「ああ、でも、エウル風は着るのを想像すると楽しいけど、脱がせるのが楽しみなのは断然、瑞穂風かな。少しずつ着崩して、一枚ずつ剥ぎ取る楽しみっていうのかな。ということで、そこのところもヨロシクね」
「お前が変態なのは前から知っているから、その妄想を垂れ流すのは、いい加減やめないか? 綺羅に言ってやるぞ」
「どうぞ、どうぞ。きっと、綺羅嬢も俺に賛同してくれるから」
本国に可愛い許嫁がいるくせに、楓雅は胡蝶に対して毎度のように変な妄想を押し付けてくる。
もう慣れてしまったし、今更、変態が改まるとも思えないので、胡蝶も半ば諦めていた。
本来、皇女には女官が従者として付くものだ。
だが、胡蝶は武官としての道を歩んだので、それ相応の従者を付けている。
十年来の付き合いもあって、楓雅は唯一、気の置ける相手と言っても良いだろう。
相変わらずの妄想を披露して悦に浸る楓雅を横に、胡蝶は離れた的に視線をやる。
的に刺さった矢を抜く作業をはじめる獣人の姿。
重い鉄の鎖がついた首輪を鳴らし、ジルは的に刺さった矢に手をかけていた。
長い尾をわずかに揺らし、矢を引き抜こうとするジルの姿を見て、胡蝶はおもむろに弓を持ち上げる。
そして、弦を力いっぱい引いた。
ヒュンッと風音が奏でられる。
美しい曲線を描いて放たれた矢は、まっすぐに標的を目指した。
しかし、本来射抜くはずの的から大きく狙いを外し、傍らに立つジルの鼻先をかすめ、そのまま庭の何処かへ飛んでいってしまった。
「的を外してしまったな、今日も私の負けのようだ」
胡蝶は平然と言い放って、楓雅の前に弓を置いた。そして、矢を拾いに行こうとするジルを呼びつける。
「お見事です、コチョウ様」
流暢な瑞穂公用語で言いながら、駆け寄るジルを胡蝶は冷やかに見据えた。
「それは、的を外した私への当てつけか?」
胡蝶の矢は的を大きく外している。しかも、その矢はジルの目の前を横切ったのだ。
普通は、褒めるものではない。
だが、ジルは唇に笑みを描いたまま、尻尾を左右に揺らしている。
「最初から、狙っていたのでしょう?」
黄昏を彩る藍色の視線がまっすぐに胡蝶へ注がれた。
従順で、無垢で、されど、決して支配することの出来ない視線。
胡蝶は素早く顔を背ける。
そうだ。胡蝶は最初から、わざとジルを狙って撃った。
そして、狙い通りに矢は彼の目の前を横切ったのだ。
それを見抜いていても、ジルは少しも顔色を変えない。不敵に優しい笑みで、子犬のように胡蝶の後をついて歩く。
その態度が余計に腹立たしくて、胡蝶は彼に繋がった首輪の鎖を強引に引いた。
「馬鹿にするのも大概にしろ」
鎖を引くと、ジルは地面に倒れてしまう。
四つん這いになったジルの頭を踏みつけて、胡蝶は乱暴に吐き捨てた。それでも、ジルは少しも変わらない。
最初は、寝頸でも掻きに来るものと思っていた。
しかし、ジルはどんな仕打ちをされても胡蝶に従い、後をついてくるだけだ。
かと言って、完全に謙るわけでもなく、先ほどのように、胡蝶の心を見透かしたような態度を取る。
まるで、つかみどころのない雲だ。
「ジル君、今顔を上げたら、虎姫の袴の中身が見えると思うんだ。いいなあ、羨ましいね」
頭を踏まれるジルに、楓雅が要らぬ妄想を吹き込む。
ちょうどそのときにジルと目が合ってしまったので、胡蝶は慌てて足を下ろして後ろへ退いた。
「おやおや、今更、恥じらっているのかい? いいじゃないか、イヌなんだろ。多少見られても、気にしちゃダメだ。ということで、ジル君は積極的に覗き見て、俺に感想を報告すること」
「変態仲間を増やそうとするな!」
「俺には虎姫の成長を観察するという、立派な使命があるんだよ」
「ただの変態趣味に使命があるかっ!」
うるさい楓雅を追い払うために、胡蝶はつい声を荒げてしまう。
ジルが変な影響を受けたら、どうしてくれる。
後ろに庇うように隠したジルを振り返りながら、胡蝶は恥ずかしさで頬を紅潮させた。
「……見ていたら、殺す」
「はい、見ていませんよ」
ジルは明るく笑いながら、楽しそうに尻尾を左右に振っている。楓雅ではないので、本当に見てはいないだろうが、食えない奴だ。
胡蝶は鼻を鳴らして顔を逸らすと、袖を上げるために巻いていた襷を解く。
「胡蝶殿下、浅野殿。こちらにいましたか」
無駄口を叩いているところへ声がかけられる。
影連秋栄が帝都の礼式に則って、頭を下げていた。
総督として派遣された胡蝶の目付役を任された文官だ。外交官としての実績を買われて配属されている。
一応、楓雅の父も優秀な外交官のはずだが、その才はあまり受け継がれていないようだ。
「どうかしたか」
影連は優雅な動作で頭を上げ、胡蝶の顔色をうかがった。
だが、彼女の後ろで尻尾を振っているジルのことは基本的に嫌悪しているようで、目も合そうとしない。瑞穂の人間にとって、ごく一般的な反応だ。本当は、胡蝶がジルを飼うことも良く思っていないのだろう。
「依頼しておりました、邸宅の建設予定地の候補が挙がりましたので、報告を。どうされますか? よろしければ、明日にでも視察しても良いと存じ上げますが」
「そうか。では、任せる」
二つ返事で答えると、胡蝶はジルの鎖を引いて城の中へ戻ろうとする。
その背を、影連が不満そうな声で呼び止めた。
「殿下、あまり馴れ合わぬよう。それから、武術の稽古も結構ですが、貴女は皇女なのです。必要以上の鍛錬は無用でございましょう」
「イヌに情など移すものか。それに、そこらの姫が嗜む武芸と一緒に扱ってもらっては困る。私は『虎姫』らしいからな」
口煩い指摘に皮肉っぽい微笑で返すと、胡蝶は構わず影連を振り切った。
影連は若くてよく働く優秀な男だが、頭が固い。
胡蝶が武官になると言ったとき、周囲は猛烈に反対した。
確かに、瑞穂では長兄に限らず、優秀な皇族に帝位を与えられることになっており、兄弟たちは、こぞって才能を見せつけようとしている。
だが、皇女に限ってはそうではない。ほとんどが潔く花嫁修業をする。
文官として活躍しようとする者もいるが、それも少数だ。
そんな中、胡蝶は兄たちと同じく、敢えて武官として功績を収めることにこだわった。
十四で初陣して以来、胡蝶はいくつかの戦場を体験した。
中でも、西方で勃発した大々的な反乱では、鎮圧に貢献する重要な役割を担ったと自負している。
だからこそ、今回、属州エウルの総督として手腕を試されることになったのだ。
他の皇女たちと違い、苛烈に武勇を求める胡蝶はいつしか、「虎姫」と呼ばれるようになっていた。
「俺も影連さんの言う通り、普通にお姫様やっててほしいな。虎姫は滅多に油断してくれないから、寝込みを襲えなくて困るんだよ」
影連を振り切って進むと、楓雅が嘆かわしそうに呟いた。
「だから、お前には許嫁がいるだろうが」
「大丈夫だよ。綺羅嬢も、『けしからん、もっとやってくださいまし』って言ってたから」
「お前は許嫁の前で他の女のことを話すのか」
「綺羅嬢は虎姫が大好きだからね。たぶん、俺より好かれてるんじゃないかな? まあ、同じ話題で盛り上がれるのは仲良しの秘訣さ」
「それは、将来夫婦になる間柄として、どうなんだ?」
いったい、何処から突っ込めばいいのかわからない。
楓雅の許嫁には何度か会ったが、確かに風変わりな娘だったと記憶している。
やたら胡蝶に懐いていたし、屋敷に泊ると、布団の中に潜り込んでいることもあった。
胡蝶は妹のように接していたが……恐らく、楓雅の変態脳を通すから、変な意味に聞こえるだけだ。そう信じたい。
「そういえば、虎姫が武官になった理由って一回も聞いたことなかったね」
問われて、胡蝶は思考を巡らせた。
「よくわからない」
自分でも不思議だが、幼い記憶を辿っても、胡蝶が男のような道を進む決心をした出来事が思い当たらない。
「ただ」
ただ一つだけ、無意識に思い続けていたことがある。それがどうしてなのか、何のためなのかは、わからない。
記憶の一部が欠落して、抜け落ちてしまったような気さえする。
それでも、胡蝶は、そう思い続けてきた。
「守りたかったんだ」
胡蝶の言葉の意味を理解出来ず、楓雅が曖昧な表情を浮かべる。
しかし、胡蝶自身にもよくわからないので、説明を求められても困ってしまう。
「守るって、瑞穂は君が頑張らなくても強国だけど?」
「そうだな。忘れてくれ」
誰のために、何のために……そんなこともわからないまま、ただ進んできた人生。
すっかりと抜けてしまった心の空虚を、隙間風が流れるような気がした。