7
彼女と揉めたあの一件以来、僕はずっと釈然としない気持ちを抱えていた。
それでも彼女がマイペースを貫き通しているので、縁側の雰囲気は相変わらずだった。
正午の時間だが、この家では食事という概念がほとんどないと言っていい。
無駄に買い込んである豆腐か納豆か、ネットスーパーで買ったお菓子を、好きな時間につまむと言うのがこの縁側のルールだった。
彼女は特に小食で、ポテトチップス数枚で一日の食事を済ましてしまう日もある。
基本的にしょっぱいお菓子ばかり食べているので、あれで栄養が取れているとは思えない。
僕もお腹を空かせてはいたが、彼女に合わせて食事の時間が減っていた。
今日の正午も食事をするわけでもなく過ごしている。
僕は珍しく軽く酔っ払い、テーブルに肘をついて片手で頭を抱えていた。
そのすぐそばで、彼女がタブレットで小説を読んでいるのが見える。
文体からして、昭和ぐらいの少し古い小説なのは分かった。
それを視界に入れながら、時々お酒を飲む。
スピーカーからは洋楽のハードロックが大音量で流れている。
不安になるメロディアスなベースとギターの音が酒に酔った頭をぐるぐるとかき混ぜ、激しいドラムとボーカルのシャウトがガンガンと頭に響く。
「小説を読むのにぴったりなのさ」と彼女は言っていたけれど、この集中力を乱す音楽のどこがぴったりなのか僕には分からない。
彼女の聴く音楽は基本的に耳障りなほど音が入り混じって、くるくる巡っているようなメロディが特徴なものが多い。
この間はノイズミュージックとやらを聞いていて、どう聞いてもただのノイズがだらだらと流れているようにしか聞こえず、苦痛な時間だったのを覚えている。
そんな彼女が分からなくて苦しんでいるうちに、彼女に対するこの感情すら分からなくなっていた。
これは恋にも似ていて、それとも違うものに思える。
いつも掴みどころが無くて飄々としている彼女を、理解して共感できたらいいと思っているのか。
でも、それすらどうしたらできるのか分からない。
「これさあ、夏目漱石の本なんだよ」
僕が横目でタブレットを覗いているのに気付き、彼女が教えてくれた。
「面白いんですか?」
「この本は好きだじゃ。『書斎にいる私の眼界は極めて単調で狭い』から始まって、そんな狭い世界で色んな出来事があるぜーって話。この人にとって書斎がそんなに狭い世界ではないんだろうけど」
「この縁側と重ねてます?」
「ここはもっと狭い」
吐き捨てるように彼女はそう言った。
なんだか、勝ち誇っているようにも見えた。
その時、彼女が言う『狭い』という言葉で、僕は一つ閃き、バンとテーブルを叩いた。
「そうだ、そうだよ!」
「何よ」
このアイデアが画期的に思えて、僕は声を弾ませた。
「間瀬さん、旅行しませんか」
「へ?旅行?」
「はい!」
彼女は、あからさまに嫌そうな顔をしていた。
でも僕は彼女と一緒にこの小玉坂から遠い場所に行きたいと思ったのだ。
そうすれば蓄積した一方的なわだかまりが解けるかも知れない。
「どこに?」
「えーっと…東京!東京とか!」
「嫌だ。都会は嫌い」
「こんな狭い縁側にずっと引きこもってたら駄目です!そんなんだから間瀬さんはおかしくなっちゃったんですよ。心を入れ替えましょう。僕がエスコートしますから」
はずみで出たエスコートという言葉に、彼女は僅かに機嫌を良くした。
「へえ…いいね。君、少しはしっかり物を言うようになったねえ。偉いねえ」
「随分上からですね…」
「うん、すごくいいよ。分かった、行こう。今から行こう」
「今からですか!?」
「すぐ出発」
そんなやり取りがあり、本当に今から行くことになってしまった。
丁度、小玉坂浜前からの昼の12時25分のバスがあり、それに乗り込むことに決めた。
財布とケータイぐらいで、着替えすら持っていない状態だった。
彼女はしっかりワインボトルだけ抱えていた。
バスでそれを飲み始めるので、何度も「やめてください」と言うのだが、聞いたふりもしない。
東京までの道のりは長く、バスで街に出たら、電車で新幹線が止まる駅まで一時間乗り継いで、新幹線に乗ったら二時間半で着く。
新幹線の切符は迷わずグランクラスを取る彼女に僕は閉口するしかなかった。
彼女は新幹線ではひっきりなしにビールを頼み、終始文句を言っていた。
「飽きたな。もう疲れたよ。帰りたいなー…」
「まだ仙台ですよ?」
「ええ~…」
彼女はぶつくさ文句を言いながら、何の気も無しに煙草に火をつけ始めた。
「ちょっと、間瀬さん!ここで煙草吸っちゃ駄目です!」
「え?そうだっけ?」
「ど、どうするんですか、これ…どうやって消すの…」
「消した方いい?」
「当たり前ですよ!」
彼女はおもむろに煙草を舌まで持っていくと、唾液で煙草を消してしまった。
「ちょっと!」
「新幹線は不便だよう」
「火傷します!」
「へ?何が?」
「熱くないんですか!?」
「いや、うまくやれば火傷なんてしないや。映画とかで見たことない?舌で煙草消すの」
「僕、映画見ないんで…」
「帰ったら絶対に観た方がいい映画30連発上演会するからな」
「30って…」
「っていうかもう帰りたい」
「いいから、観光するんです!きっと間瀬さんも心が入れ換わると思いますよ」
彼女は大きく溜息をついて、深く座りなおし黙り込んでしまった。
暫くすると眠りについている。
縁側でも時々誰かに捨てられたように眠っているが、新幹線でも見事に捨てられたように寝ている。
それが妙にかわいく見えるし、意味不明なことを口走らずに黙っているだけマシに見える。
黙っていれば顔は良く見えるのだから。
バスと電車と新幹線のつなぎが悪いこともあって、東京に着いたのは夜の7時過ぎだった。
彼女は降りる直前まで寝ていたので、少し眠そうだ。
東京駅の構内で、彼女が言う。
「ところで…どこに行くの?」
そう言われて初めて、どこに行くか決めていないことをに気づく。
駅が広すぎて、どこに行ったらいいのかも正直さっぱり分からない。
しかしエスコートすると言った手前、どこか決めなければと思考錯誤した。
僕は修学旅行以来、あの街から出たことが無いので、都会はさっぱり分からないのが本音だった。
「えと…浅草寺とか?」
「あそこは一生分見たからいい!」
「じゃあ、上野公園…」
「あんなのただの人の多い広場じゃない」
「じゃあ、お台場!」
「君、東京に来たことないでしょ?」
「なんで分かるんですか…」
嘲笑するように彼女が笑い、僕がむっとしていると、彼女はますます小気味良さそうだった。
そして唐突に声を上げる。
「スカイツリーに決定!」
彼女は急にそう言い放ち、歩きだしてしまった。
「待って、スカイツリーはネットで調べたけど、3時間待ちだって…」
「大丈夫よ」
東京の地理も彼女は完全に把握していた。
彼女は昔東京に住んでいたのだから、いくら小玉坂から遠い場所だと言っても、これでは観光にならないかもしれない。
しかし、わだかまりを消す何かのきっかけならあるかも知れないと思った。
スカイツリーに入ると、彼女は迷わずインフォメーションセンターに向かった。
「君はその辺で待ってて」
彼女は暫く受付嬢と話していた。
その様子を見ていると、彼女は挙動不審に見えて、いつもの自信たっぷりな彼女とはかけ離れていた。
そのうちに、ピシッとしたスーツの中年男性が現れる。
すると、たちまちその人と仲良さそうに話し始めた。
つっこみをいれるように彼女がそのスーツの男性を軽くたたくしぐさをするのも見えた。
そして、しばらくすると僕の方にチケットを二枚ひらひら見せながら戻ってくる。
「これで優先で入れるよ。行こ」
「え?間瀬さん、何したんですか?」
「いや、知り合いがいるから」
「だからって…」
「スカイツリーは初めてなんだよね~楽しみ!」
何にせよ、彼女が楽しそうなのが何よりだった。
普段とは違う、活き活きしたような目をしている、かもしれない。
展望台に向かうと、もう夜景と化した東京を見下ろせた。
「高いっすね…」
「感想それだけ?」
「あと、綺麗です」
「他には?」
「うーん…」
「君、つまんないやつだな。ほら、あの道路、車のライトが綺麗に並んで動いていくでしょ?あれを見て、人間の機械的で無感情な規律ってものが垣間見えて少し怖くなったりとかしないの?」
「まあ、そう言われてみれば…」
「私は怖いよ。こんなにびっしりと灯りが一杯あって、その明かり一つ一つに人の生活があって、それがこんな狭い空間に詰め込まれてるなんて…ここにいる観光客だって次々現れては消えていくでしょう?ほんと怖い…だから都会は嫌いだ」
「でも間瀬さん、東京に住んでたんでしょ?」
「東京にいた頃は頭がおかしくなったよ。人間が動く肉の塊にしか見えなくなるぐらいには」
「どういうことですか?」
「もう出よ。ホテル探そう。もう疲れた」
彼女は急に顔が青ざめ、足取りもふらつき始めた。
帰りの下りのエスカレーターではほとんど喋らなくなってしまい、「大丈夫ですか?」と問いかけると、僕にしか聞こえないぐらい小さな声で「人が多すぎる」とかなんとか言っていた。
いつもと違う彼女の様子に僕は恐怖すら感じてしまう。
人混みが苦手な様子だったので、スカイツリーを出て、街を出てひたすら路地から路地へ抜けて、人通りの少ない道へと歩いて行った。
僕自身もここがどこだか分からなかった。
彼女は俯き加減でひっきりなしに煙草を吸っていて、何か不安をぬぐい去りたいような様子だった。
人ごみから逃げて当てもなく歩いていると、不意に彼女が僕の服を引っ張って、小さな声を出した。
「酒が欲しい。あとベッドも」
「じゃあ適当にホテル探しますか?あそこのビジネスホテルとか」
「いや、あっちにしよう」
彼女が指さしたのは看板がやけに明るく光るラブホテルだった。
僕は一気に心拍数が上がったような気がした。
「なんでですか!?」
「一旦フェアにしたいの。君、苦手だろ、こういうの」
「意味分かんないです!僕は行かないですよ!?」
「黙ってついてきなしゃい」
僕らの街には国道沿いに行けばラブホテルが多くあるが、僕自身は一度も入ったことが無い。
しかし彼女は手慣れた様子で無人カウンターで部屋を取り、入っていく。
こういうのには慣れているのだろうか。
部屋に着くと彼女は真っ先に広いベッドに横たわり、「疲れたー!もう歩けない!」と溜息混じりに声を上げながら、ごろごろし始める。
さっきまでの不安そうな様子よりは少しマシになったように見えた。
「煮干し、ビール持ってきて」
「ああ、はい」
冷蔵庫からビールを取り出し、ベッドに寝転ぶ彼女に手渡した瞬間、彼女が僕の手を握った。
「間瀬さん?」
「ここ、ベッド一つしかないけどどうしよう?」
「ど、どうしようって…どうするんですか?」
「つまんないリアクションだにゃー…君はそこのソファーで寝ること」
そう言って、手を離す彼女。
つまらないという言葉とソファーで寝ろと言うぞんざいな扱いに逆らってみたくなって、彼女の傍に腰掛けてみた。
彼女はあまり気にしていない様子で、ビールを一口飲みこむと、小首を傾げた。
「襲ってみる気にならないの?」
「だって…間瀬さんの身体って結構あれですし…」
「浮き輪ついてるしな」
「それです」
「君も30近くになってくると分かるよ。どんどん肉がつくのん」
「お酒ばっか飲んでるからじゃないですか」
「死にはしないからいいのだ」
案外普通に会話をしているので、僕は妙な緊張感も解けてきていた。
僕もビールにありつきながら、このいつもと違う空気に飲まれて、あまり質問したことのないことを切りこんでみた。
「間瀬さんって…経験人数どれぐらいなんですか?」
「10人以上はいるな」
「多っ…」
「おままごとみたいなものよ」
「そうですか…」
僕の口から、ぽろりとこんな言葉が簡単に出てきた。
「じゃあ僕と付き合いませんか」
「断る」
彼女の返事はものすごく速くて、ほとんど食い気味だった。
「ちょっとは考えて下さいよ。それに…おままごとなんでしょ?」
「君とはままごとにならないや。多分殺し合いになるじゃ」
「どういう意味ですか…?」
彼女は起き上がると、「うん、いいね…」とか言いながらベッドから降りてしまった。
そして、とても晴れやかな笑顔でこちらを見る。
「いい感じに白けた。私は帰る。君も帰るか?」
「白けたって…」
「私は君を東京に置いて行こうと思っていたよ。でも私は考えが変わった。君のことは嫌いじゃない。だから最期のチャンスをあげる」
彼女は、笑みは僅かに残しつつも真剣な眼差しをこちらに向け、囁いた。
「私の家には鍵のかかった部屋があるけど、あれ、何の部屋だと思う?」
「え…なんですか、急に…」
「聞きたい?」
じっと見つめるその視線が不安感をざわめき立てる。
聞いてはいけないと直感で思ったが、僕は「聞きたいです」とはっきり言っていた。
ほとんど強がりだった。
すると、彼女は少しの間考えて、暫くすると僕に目を合わせて話し始めた。
「あれ、私の家族の墓場なの」
「墓?」
「墓石とお骨がおさめられてる部屋」
「家の中に墓があるんですか?」
「そういう家もあるよ。そこで私の家族に挨拶をして。それができると約束してくれたら、連れて帰る」
すぐには意味が理解できなかった。
しかし、僕はすぐに決した。
「今ならまだ新幹線があります。行きますか」
「あまり驚かないんだの?」
ここまで一緒に過ごしてきて、ここにきて僕は一つ、対処法を学んだのだ。
「間瀬さんの言うことをいちいち真に受けてたらこっちがおかしくなっちゃいます」
「言うようになったねえ。気分がいいよ。キヨスクでプレモル買い占めよう!飲むぞ!」
「飲みますよ。飲みます。もうお酒ないとやってられないです」
酒がないとやっていられない、そんな感覚が、最近分かってしまった。
帰りの新幹線で、彼女は妙なことを言った。
「君、東京の暮らしには憧れないの?」
「え?」
「感情は変わるものよ」
「いや…意味分かんないんですけど」
「お前まじで出て行けよー…」
そう吐き捨てて、彼女は僕に寄りかかった。
僕は驚いて、彼女を押し戻す。
「くっつかないでください!」
「座椅子代わりになってくれよー…」
「後ろに寄りかかればいいでしょ!?」
そうして、新幹線で二戸駅に着いたのは午後10時を過ぎていた。
街までの交通手段はローカル線しかないが、もう終電はとっくになくなっている。
「こっからどうやって帰ります…?」
「え?タクシーだよ」
「は!?いくらかかると思ってるんですか?こっから街まででも1時間かかるのに!」
「カード使えるタクシー探せ、早く」
「嘘でしょ…」
「これも付き人の仕事だにゃ。ほれ、急げ」
彼女は僕を突き飛ばすと、新幹線に乗っていたせいでしばらく吸えなかった煙草にありついていた。
クレジットカードを使える車両はすぐに見つかり、タクシーで街を経由して家までだと2時間ほどの旅だ。
外は真っ暗で、街灯の明かりが等間隔に並んでいるだけだ。
東京とは全然違う風景だと思う。
タクシーの中で、僕は問いかけてみた。
「東京に行って、どう思いました?」
僕がそんなことを言うと、彼女はうっすらと笑い、答えた。
「君は生きてるなあと思ったよ」
「どういうことですか…」
「残念なことだよ」
「僕に分かるように言って下さい」
「出来たらやってるよう。私は口下手なの」
お互い疲労がたまっていて、それっきり余り会話もせず、お酒もなく、煙草も吸えないまま、心もとなく過ごした。
時々、彼女が運転手と話をしていた。
その時の彼女は人懐っこくユーモアもあって、運転手をたびたび笑わせ、とても口下手には見えなかった。
スカイツリーの受付嬢相手だとあんなに挙動不審で、人ごみも苦手そうだったのに。
彼女のスイッチはどこにあるのだろう。
あの縁側へと帰り、玄関に入ると、彼女はこちらに振り返って声をひそめた。
「私は来るもの拒まないんだ。今まで君をここに置いていた理由はそれ。でも、改めてこの家に迎え入れようと思います」
「改めて…?」
「君は良い付き人だからね」
彼女は二階の鍵のかかった部屋まで連れて行ってくれた。
扉の前まで行くと、ポケットから鍵を取り出す。
どうやら、この部屋の鍵を常に持っているらしい。
鍵を開け扉を開くと、お香の匂いが漂ってきた。
彼女は躊躇わずに電気を付ける。
その光景を見て、僕は思わず「わっ!」と声を上げていた。
そこにあったのは立派な作りの真っ黒な墓だった。
墓の後ろには何故か柱が炭になったようなものがいくつも積み重なっている。
壁中に彼女の家族の写真が貼られていた。
直感的に恐怖を感じるその光景に硬直している僕のことは気にも留めず、彼女はすたすたと墓に近づき、しゃがみ込む。
「お客さんを連れてきたよ。煮干しって言うの」
「間瀬さん…これ…」
彼女は墓の前にある壺を順に指さした。
「お父さんと、お母さんと、お兄ちゃんと、妹の、墓」
「嘘…」
「立派な墓でしょ。この辺の石材店で一番立派な奴だからね」
心臓がバクバクと音をたてていた。
こんなことがあっていいのか分からない。
「怖いの?」
「いえ…」
「家族に紹介してるだけだよ。お参りしてくれ」
絶句している僕を放って、彼女は墓に置いてあった布巾で墓を拭き始める。
いつもガサツな彼女が物を大事そうに扱っている様子を見るのは新鮮だった。
恐る恐る墓に近づくと、彼女は一歩離れて「手を合わせて、二回叩くのよ」と言った。
あまり墓石や骨壷は見ないようにして、目を瞑って俯いたまま手を合わせて、言われた通り二回手を叩いた。
頭の中は混乱していて、何一つ祈ってはいない。
しかし、彼女の前では強がりたくなってしまう気持ちが湧いてくるのだ。
「ありがとね、嬉しいよ。本当に」
「いいんですか…こんなところに墓なんて建てて…」
「家族の為に建てた家に家族がいないなんておかしいでしょ」
「そう…ですかね」
「お酒飲む?」
訳が分からず茫然としたままとりあえず頷くと、彼女は僕の手を引いた。
しんとしたその部屋はぴしゃりとドアが閉まり、彼女がまた鍵をかける。
胸の中は恐怖が渦巻いていたが、縁側に降りていつもの定位置に座ると、少し落ち着いてくるのが不思議だった。
彼女は迷わず縁側のスピーカーからハードロックの音楽を流すと、タブレットで小説の続きを読み始めた。
沈黙が長くなっていく。
僕がどう思っているか、気にしていないのだろうか。
どういうつもりなのか。
どういう神経で家に墓なんて置いておくのだろうか。
なんで僕にあれを見せたのだろうか。
骨壷があったことを思い出してぞっとし、ストレートに思ったことを言ってしまった。
「間瀬さんって…頭おかしいと思います」
「頭おかしくない人は存在しないのだよ」
確かにそうなのかもしれないけれど、彼女の場合は納得ができなかった。
落ち着く為に一口酒を飲み下し、一つ問いかけた。
「どうしてあの部屋のこと…教えてくれたんですか?」
「君はもうこっち側だからね。煮干し君は素直でとても良い子だからもうね…うふふっ…」
彼女の笑い声が薄気味悪く響き、思わず背筋が凍る。
「まあ、なんだ」と彼女は笑いをこらえながら小声で、でもはっきりと言った。
「きっと君はどんどん戻れなくなっていくわ」
彼女のその言葉も、彼女の胸の内も、僕がどうなっていくのかも不透明なままだが、嫌な予感だけが駆け巡っていた。
あの墓のこと、彼女のこの薄暗い笑顔、なんだか胸騒ぎがする。
それを助長するように木枯らしの音が聞こえてきた。
彼女は呑気に「タイヤ交換しなきゃなー」と呟きながら外を眺めた。
それにつられて沢と木が生い茂る真っ暗な景色を眺めてみる。
山を照らすいびつな月がまるで何かを警告するようにゆらゆら光る。
「雪降りそう」
「降りそうですね」
「寒いなり」
「ストーブ付けます?」
「ハイパワーモードにしてね」
何かを変えたくて東京に行って、多分そのおかげで彼女の秘密を一つ知った。
でもまた余計にわだかまりが一つ増えてしまう。
この言葉にできない心のもやをどうすることもできず、気がつけばお酒だけがじりじり減っていた。