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12月になり、つんした寒い日が増えてきて、今日も朝から大分冷え込んでいた。

和室にあるストーブを焚いて、縁側の窓は開けはなっているのだから、贅沢な使い方だと思う。


僕と彼女はいつも通り、縁側でお酒を飲んでいた。

いつも彼女に出されるのを飲んでいるだけなので、それがなんの銘柄なのかは分からない。

たびたび教えてくれるのだが、いちいち覚えていないのだ。


夜も更けた頃、今日はどう気が向いたのか、彼女が珍しくお風呂場でゆっくりお湯に浸かっている様子だった。

この家には足を伸ばせる風呂場があるのだが、彼女は滅多に風呂に入らない。

入るのは一週間に一回ほどで、例え酒を零そうが、酔っ払って煙草の灰を被ろうが、入ろうとしない。


「おあがり~」


風呂に上がるとすぐに、彼女が縁側に戻ってくる。

お酒を飲みつつ、ふと目線をやり、僕はその光景に驚くことになるのだった。

彼女は頭にタオルを被っているものの全裸の状態だった。

こんなことは初めてで、思わずお酒を噴き出しそうになりながら、目線を背けて大声を出した。


「ちょっと、間瀬さん!服着て下さい!」

「あ?ああ、いくら同居してても男の前では服着た方が良いかにゃ」

「そうですよ、あーもう!」

「この時間になると裸で縁側にいても誰もいないの」

「だからって…いいから、ほら!」


僕は目線を背けたまま、適当に和室にある服を投げ込むと、彼女は不機嫌そうに目を細めた。


「甚平は嫌だ。ひょう柄がいい気分」

「いいから着ろ!」

「なんだよう…」


僕は目を逸らして、心臓をばくばくさせていた。

細い割に脂肪がたるんで割とだらしないスタイルで、胸は普段見ていると分かる通り大きめだった。

記憶にすっかり焼きついてしまったが、思い出しちゃ駄目だと自分に言い聞かせる。

暫く経ってからゆっくり振り返ると、さっき渡した大き目の甚平を着て、とっくに縁側の座椅子でくつろいでいた。

思わず彼女を睨みつける。


「何なんですか?」

「何が?」

「誘惑してるわけじゃ…」

「ないよ、馬鹿野郎。お前がいると裸で風に当たることもできないじゃ」

「間瀬さんは…そういうとこ良くないと思います」


彼女は僕の話は無視してお酒を注ぎ始める。

それでも僕は止まらなかった。

不満というわけじゃないと思うが、理解できない部分やもやもやしていたことを吐き出したら止まらなくなった。


「なんていうか…自由すぎです。僕はね、ストーブ付けてんのに窓開けてるのも許せないんですよ!あと、付き人とか言って僕に20万も払ってるのも理解できません。そりゃあ僕は助かりますけど…。間瀬さんのおかしい所言い出したら切りないですよ。なんで走らないポルシェ大事に飾ってるんですか?なんで使わない家具あんなに買うんですか?それと、この前煙草食べてましたよね?絶対にやめてくださいよ、あんなの!それから、なんで腐ってるって分かってるもの食べるんですか?そうやって自分の体は大切にしないのに、なんで地震とか火事の対策だけは異常にしっかりしてるんですか?スプリンクラーと消火器が全部の部屋にあるとか絶対やりすぎですよ。その慎重さを他に回して下さい!あと飲酒運転だけは本当にやめて下さい。っていうか酒飲みすぎです。煙草も吸いすぎです!そうだ、あと、裸で目の前に現れるなんてもっての他ですよ!それから、この前も…」


気がつくと、彼女が僕の前に立っていた。

真顔でこちらを見上げている彼女の冷たい視線に、僕は思わず口をつぐむ。


彼女がひゅっと息を吸い込んだのが聞こえた直後、顔面に衝撃が走った。

左頬を思いっきり殴られたのだ。

口の中が血の味で一杯になって、その後は良く分からない。

蹴られたのか、足払いされたのか、僕はその場に勢いよく倒された。

鈍い痛みが駆け巡り、衝撃でいっきに非日常に連れて行かれる。

倒れたところで腹に思いっきり蹴りを喰らわされ、一瞬息が出来なくなった。

そして、横に倒れた僕の腹を思いっきり何度も踏みつけ、最期にまた腹に重い蹴りを喰らわす。

嘔吐感が込み上げる痛みでうずくまったまま、何度も咳き込んで、苦痛に耐えていた。


「お前、殺してやろうか?こんなに注意を払ってるのに…いつの間にか現れやがって…」

「何…言って…」


彼女はしゃがみ込んで、倒れ込む僕の髪を掻きあげた。

そっと触れて愛でるような優しい動作なのに、ざわざわと恐怖を感じる。

そして、彼女は短く唸って、囁いた。


「君はフロントガラスにぶつかって死ぬ蝶々みたいだねえ。可愛いねえ。だから嫌い。大嫌いよ」


彼女の目は狂ったような笑顔に歪んでいた。

その笑顔にぞっとし、とにかくこれ以上やられるわけにはいかないと思わせるような危険さを感じる。

痛む体を押して、僕はその一瞬の隙をついて、彼女の両手首を掴み、鈍い音を立てて和室の畳へ押し倒した。

彼女は動揺する様子も見せず、床に押し付けられていた。


「なんで殴ったんですか…」

「君を殺そうと思って」

「…本気で言ってるんですか?」

「今ならできるよ、私」


何故か、不安感が押し寄せる。

羽交い絞めにして、彼女をコントロールしているつもりなのに、彼女すら虚像に見えてくるような、抜け落ちて行く不安。

追い詰められたような不快感を誤魔化すように、低い声で脅す。


「間瀬さん、俺のこと舐めすぎですよ。力では俺に勝てないでしょ?」


乱暴に間瀬さんの手首を握りあげると彼女は少し抵抗する様子を見せた。

それでも、ずっと引きこもっているだけの彼女の腕の力は弱い。

片手で彼女の両手首を頭の上に拘束して、胸倉を掴む。


「怖くないんですか?」

「なんで怖いの?」

「このまま、やり返されるかもしれないんですよ」


彼女はふてぶてしく、微かな声を零して笑った。


「私より優位に立ちたいのは分かるが、それじゃ駄目だ」

「え…?」

「びびってパニクってらっしゃるじゃない。狂ってみなさいな。そしたら少しはお前のペースになる」

「狂うって…」

「例えば…こんな状況なのに性欲に狂ってセックスに走るとかどう?」

「そんなの…」

「出来ないかな?」


追い詰めたつもりが、彼女はやはりいつも通りなのだ。

彼女の言葉がこれ以上聞きたくなくて、いっそ彼女のように狂ってやりたいと思った。

思うがままにしてやろうと思い、気がついたら、その生意気で恐ろしい唇に吸い込まれている。


彼女を両手で抑え込んだまま、強引に唇を押しつけた。

深く押しつけるだけのキスをして、彼女の甚平を引っ張ると、服は簡単にはだける。

セックスをするつもりなのか自分でも分からないし、彼女の事が怖いからこそ、いつも飄々としている彼女をコントロールできるなら何でもしたいと思った。


そんな心の隙をつくかのように、突然、彼女の方から濡れた舌が僕のを舐めた。

その瞬間に、一瞬にして、かっとなっていた意識が我に返ってしまう。

驚いて、手の力を緩めた瞬間、彼女は僕の手から逃れた。

次の瞬間、逃れた両手で僕の首筋に絡みつくように抱きついて、よりキスを深めていく。

離れようとしたら、後頭部をがっしり押さえられた。

僕は声にならない声をあげていたが、彼女はお構いなしだった。


柔らかで、ねっとりとした官能的な舌の動きに、胸の鼓動が一気に跳ねる。

思わず力を抜いてしまったその一瞬を見計らい、横に転がるようにされて、一気に形勢逆転されてしまった。

彼女が上から押し倒すような体勢になった瞬間に、彼女はキスから離れてにやりと笑う。


「ほら、もう私のペースだ」

「な…何するんですか…」

「君が先にやってきたんでしょ?」


そういって、僕の髪をかき上げる彼女は余裕たっぷりに笑っている。

また、彼女に調子を狂わされた。

無性に悔しくなって、また押し倒してやろうと肩に掴みかかったが、彼女はそれを振り払い、手首を床に押し付けて挑発的に囁く。


「ねえ、煮干し君。もう、私に逆らうの辞めるって誓ってくれない?」

「どういうことですか…?」

「そのままの意味だよ。給料上げてやってもいいから、誓ってよ」

「嫌ですよ…」

「誓って」

「絶対に嫌だ」

「誓えよ!」


そう叫んで、彼女は僕の頬を平手で思いっきり打った。

鋭く激しい痛みで、反射的に涙が出るかと思った。

茫然と彼女を見上げると、彼女は嫌悪感を込めた表情でこちらを見下ろしていた。

その目はまるでごみを見るような目つきで、さっきまで張り付いていた嫌味な笑顔は一切なく、それを見ただけで、一気に対抗心も何もかもすっかり引いて行った。


「本当に君は勘に触るわね。不愉快。反吐が出るわ」


聞きなれない口調と、突き刺さる言葉と、痛みのあまり固まって、殴られた頬に手を添えたまま僕は固まるしかなかった。

そんな僕を置いて、彼女は立ち上がり、くるりと縁側の方へ向かっていく。

「煙草だ、煙草」と陽気に呟いているのが聞こえた。

その声色は至っていつも通りだ。


何もかもが嫌になりそうだった。

なにより、僕に向けられたあの嫌悪感にまみれた表情が忘れられない。

彼女に目を向けたまま、僕は半身を起してしばらく茫然としていた。


彼女は煙草に火をつけ、大きく吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出した。

煙と戯れるような彼女の煙草の吸い方もいつも通りだった。

風に乗ってわかばの香りがする。

彼女は酒を注ぎながらやけに優しく声をかける。


「君も飲む?この焼酎はな、プラチナ閻魔っていうんだ。ばかみたいな名前だけどうまいじょ」


僕が何も答えられず、空虚な気持ちに包まれていることにも、彼女はおかまいなしだった。

こちらを向いて、グラスを顔の前で揺らしてみせる。


「若いうちに一度は飲んどけ」


随分と傷ついていたけれど、ここで部屋に戻ったら本当の意味で負けになると悟った。

彼女は何事もなかったかのようにいつもの縁側に座っているのだから。

身体は痛むが、なんとか起き上がって、いつもの定位置、彼女のテーブルを挟んで向かいに座る。


彼女は僕のことが癇に障ると言う。嫌いだと言う。おまけに殴る。

それなのに、どうしてお金を払ってくれて、お酒をふるまってくれて、こんな喧嘩をしてもここに置いてくれるのだろうか。

彼女は何を言っているのだろうか、何を考えていたのだろうか。

過ごした日々を思い出してみても、彼女のことが少しも理解できない。

彼女の本心がどこにあるのか、僕には分からない。


「乾杯」


彼女がそう言ってグラスを向けるが、僕は無視したくてたまらなくて、黙っていた。

すると、彼女は強引に僕のグラスに持っていたそれを当てて、座椅子に深く座りこみ、ごくごくとお酒を飲み始める。


「間瀬さん…なんで…」


分からないことが多すぎて、何も言葉が出てこない。

彼女は高い声で零れるような笑い声を上げると、朗らかな笑顔をこちらに向けた。


「蝶々は滅多にフロントにぶつかったりしないの。君は傑作だわ!」


そう言って、彼女は小さく声を上げて笑っていた。

あいかわらず訳の分からない言葉で、また惑わされる。

何か意味があるようで、戯言にしか聞こえない、そんな言葉で、また一つ心にわだかまりが残る。

そのわだかまりを消したくて、注がれたお酒を飲みこんでいると、彼女はiPodを操作して音楽を鳴らし始めた。

スピーカーから流れるのはなぜか早口の女性の高い声がやかましいアニメソング。

空気を全く読まない陽気な音楽が流れ、僕が違和感を感じていると、彼女が不意に言った。


「秋の羽虫は羽を擦り合わせて音を鳴らしてるんだよう。すごい筋肉だよね」


突然の脈絡ない話題に、僕は「そうなんですか…」としか言えなかった。

そう言えば音楽にもかき消されないほどの虫の声が響き渡っている。

けたたましく音が混ざり合う夜の闇の中で、彼女を理解するのにはまだ時間がかかりそうだと悟るのだった。

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