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どれぐらいの時間が経つのか分からないけれど、ずっと前から耳に電子音が聞こえてくる。
その時間にずっと耐えていたが、午前9時を指す頃に耐えられなくて、ガバッと起きてしまった。
縁側から、どこか懐かしいメロディとテンポのいい効果音のようなものが聞こえる。
おそらく何かのゲームの音だと思う。
眠い目をこすり、縁側に向かうと、DSをプレイする彼女がいた。
スピーカーにつないで、スピーカーから音を楽しみながらゲームをしているらしい。
縁側に近づくと、その音の大きさが余計に理解できる。
耳がびりびりと裂けそうな大きな音だった。
彼女の後ろから画面をのぞいてみると、テトリスをやっているようだった。
そういえば、この音楽はテトリスの音楽だったとそこでようやく思い出す。
テトリスをこんな大音量でやる意味があるのかは分からない。
彼女は適当にプレイしているように見えて、綺麗に四角の図形を消していく。
ボタンをカチカチとリズムカルに操作し、素早く、まるでコンピューターのように動かしていた。
「うまい…」
僕が思わずそう呟くと、彼女は鼻を鳴らして笑う。
「小学生の時からずっとやってるもの。やってると落ち着くのさ。やんなかった?小学生の時」
「うーん…」
「10個も年違えばわかんないか」
「あ、いや…やりましたよ、昔。僕そういうの結構得意でした」
「そう!?じゃあ対戦しよう!」
彼女はDSを放り出して縁側の奥に引っ込むと、段ボールを漁り始めた。
そしてDSをもう一台取り出す。
「充電すれば多分大丈夫。やろ!」
「まじすか…」
「大丈夫。ハンデ付けてやるから」
彼女にそうたしなめられると、どうしてか対抗心が湧いた。
「いや、ハンデはいりません」
「なんでよ」
「ハンデなんかつけたら情けないっていうか…」
「あはは!良いこと言った。じゃあハンデはなしね!」
そう言って、無線の対戦プレイをすることになった。
しかし、それが始まった数十秒後ぐらいに僕はがくりと肩を落とすことになる。
「駄目だ…強すぎる…」
「うーん、強気な若人の鼻をへし折るこの爽快感!若い頃には味わえなかった感覚ですなあ…」
「なんですかそれ…」
彼女はいつもこんな調子だ。
いつも音楽が流れている縁側のスピーカー、彼女と真っ赤な座椅子、小さな木目のテーブル、床に置かれた丸い間接照明、バケツのような灰皿、食糧庫から無限に出てくるお酒、しょっぱいお菓子とチョコレート、パソコン、タブレット、4台のスマートフォン、携帯ゲーム機に囲まれて、座布団の上で彼女の相手をするのが日常となっていく。
この家にいる限り縁側にいなければならないと、彼女は何度もきつく僕に言い聞かせる。
彼女のこだわりは脈絡がなく、彼女のいう完璧主義というのはこのこだわりのことを言っているのだと思う。
ちなみにテレビだけはこの家には無いらしい。
なんでテレビがないのか聞いてみると、「なんで?いらないでしょ?」と質問で返されてしまった。
あいかわらず荷物は毎日届き、支店長はすっかり僕と彼女が恋人同士なのだと思っている様子で、僕はもう訂正する気力を無くしてしまった。
届く荷物は食べ物やお酒がほとんどで、時々家具もある。
家具は気に入ったものはすぐ購入し、二階の彼女の部屋に置かれて、古いものはどんどん捨てられて行く。
粗大ごみを引き取ってもらうにもまたお金をかけている様子だ。
家具をころころ変える癖に、二階にいることはほとんどない。
そして、日常は流れて行く。
秋の虫の声が甲高くなってきて、涼しい季節になってくる。
時がいくら流れても、彼女は縁側にいる。
今日は縁側でマニキュアと小さなシールなどを並べて爪を弄っていた。
どうやらネイルをしているようなのだ。
「間瀬さんもネイルしたりするんですね…」
ぼそっと呟くと、彼女は作業する手は止めないまま、小さく鼻で笑った。
「女性であることを楽しむのもいいものよ。君も男性であることを楽しまないとね」
「男性であること…って?」
「てっとり早いのは風俗だな」
「なっ…!」
「照れるなよ」
彼女がまた底意地の悪い笑顔を見せるので、僕は本当に恥ずかしくて仕方が無くなった。
「まあ19歳じゃ仕方ないか」
日常はのんびりと流れ、僕は縁側で酒を飲むのが癖になっていた。
別に酒が飲みたいわけじゃない。
元々僕は、飲み会や宴会のときじゃないと飲まないし、もうすぐ20歳とはいえ未成年なのだ。
「酒飲まなきゃやってらんねえよ」なんていう先輩を見たことはあるけれど、僕にはその気持ちが正直良く分からない。
ぼうっとして細かいことがどうでもよくなって、彼女の戯言にも付き合えるような、酔っ払う感覚も悪くはないけれど、別に特段と魅力があるわけでもない。
ただ、彼女が、僕が酔っていないと不安そうになるのが気がかりだった。
今日の彼女は、ノートパソコンを開いて、ひたすらマウスをカチカチと鳴らしていた。
あまりに真剣な顔をしている。
その真剣な瞳は妙に引力があり、顔の端麗さを際立たせる。
やっぱり容姿だけは綺麗だと思う。
時々無意識のように煙草に火をつけるが、酒もほとんど飲まないで、何かに熱中している。
いつもは何かと言葉を交わしている僕らの間がずっと静寂なのが気になり、僕は集中している様子の彼女に声をかけてしまった。
「何やってるんですか」
彼女は黙ったままマウスを動かし、カチカチとクリックし続けている。
催促するようにグラスをテーブルにトントンと叩いてみた。
すると、それに遅れて返事が返ってくる。
「図面描いてる。たたき台だけど」
「たたき台?」
「図面の図面みたいなものよ。ちょっと頼まれちゃってね」
彼女は昔デザイナーだったと言っていたのを思い出す。
今でもその仕事に携わっているのだと悟った。
この人は無職で働く気のない駄目な人間なのだと思っていたこともあるけれど、こういう一面もあるようだ。
むしろ、今の僕の方が、相当駄目人間なのではないか。
不意に彼女が、「あああー!」と声を上げ、僕の方に倒れ込んできた。
僕の服を掴んで駄々をこね始める。
「あーめんどくさい。めんどくさいよー煮干しくーん」
「甘えないでくださいよ、僕に」
なんとか引きはがすと、彼女はしぶしぶ座椅子に背を預けた。
「一応仕事やってるんですね」
「うーん…何気にねー。残してきた仲間たちはみんな素晴らしいけど発想に乏しいのだ。だから私が時々たたき台だけざっと作るの」
「すごいっすね…」
「そう?私は本当にやりたくない」
彼女は不貞腐れたようにそう吐き捨てた。
そうして、10月30日、いつものように縁側にいた彼女は急に思いついたかのようにあるものを渡してくれた。
彼女の付き人として彼女の傍にいる、それで本当に月給料の20万円を封筒にも入れずそのまま現金で渡されたのだ。
「これ給料ね」
「え…本当に…?」
「だって君、部屋片付けてくれたじゃん。ポルシェもピカピカにしてくれたしさ。買い物にも行ってくれたし、それにいつも一緒に酔っ払ってくれた」
そうやって笑う彼女の笑顔は、今まで見たどの女性よりも魅力的で輝いていた。
思わず釘づけになり、魂まで奪われるような妙な感覚に陥っていく。
「ご苦労さん。来月も頼むじょ。今日はさ、初給料祝いでワイン買ってあるんだ」
見たことのないラベルの赤ワインがあると思ったら、そういうことだったらしい。
僕はこうしていつまで彼女の付き人として過ごしていくのか、先ことを考えると怖くなるし、同時に高揚する気持ちもある。
この縁側にいれば、もっと色々な彼女の姿を見れるかもしれない。
彼女の全てを、知れるかもしれない。
初給料を貰った2日か3日後のことだった。
この日は小玉坂を台風が襲っていた。
彼女に言われるがまま、家中の雨戸を閉めた。
彼女は家の災害には細心の注意を払っているようだ。
しっかりした雨戸がついているし、この家は震度8にも耐えられるように作ってあると彼女が言っていた。
しかも全部屋にスプリンクラーと消火器があり、僕としてはさすがにやりすぎではないかと思う。
台風の大嵐が吹き荒れるこの日、雨戸を閉めて四畳半の部屋で寝ていたが、雨の音がやたらうるさくて目が覚めてしまった。
雨戸を閉めてしまえばどんなに嵐でも家の中はしんと静まり返るはずのに、やけに暴風雨の音が響く。
音を辿っていくと、縁側に辿り着いた。
縁側の雨戸も閉めたはずなのに、全開に開いている。
そして、縁側の間接照明に照らされて一人の人影が見えた。
庭で、裸足のまま雨に打たれている彼女がいた。
彼女はぼうっと空を見上げていて、最初は幽霊かと思うほど不気味だったが、意を決して声をかけた。
「何してるんですか」
彼女はゆっくりとこっちを振り向き、笑っている。
「滝修行、手軽バージョン」
そう言ってピースサインを小さく出してくる。
僕は呆れて、大きな溜息をついた。
縁側の傍にある濡れたサンダルを履いて外に出て、彼女の手を引く。
「風邪引きますよ、もう寝ましょう」
「お前邪魔すんなよ。今すっごい悟り開いてたのに」
「なんですかそれ…悟りなんか開けるんですか?」
「開けるよ。簡単だよ。君もやるかい?」
「やりません、僕は寝ます」
彼女の手を無理矢理引いて、縁側まで連れて行った。
彼女はなんだか憔悴しているように見えた。
ちゃんと風呂に入ってすぐに寝るようにきつく言って、雨戸を閉めて部屋に戻った。
少し髪や服が濡れてしまったが、眠気が勝っていたのでもう寝てしまうつもりだった。
しかし、うとうとしかけた頃に、また打ちつける雨の音が聞こえてきた。
無視しようかとも思ったが、気になって仕方がなくなり、僕は苛々しながらまた縁側に向かった。
案の定、そこでは彼女が雨戸を開けてまた『滝修行、手軽バージョン』とやらをやっている。
僕はもう一つ大きな溜息をついて、また庭に降りた。
「まだやってんすか!もう終わりです!ほら!」
「なんだよう…」
腕を引っ張っていくと、彼女は心底不機嫌そうな顔をしていて、それでいて憔悴しているような様子だった。
そういえば、最近の彼女はいつもそんな様子だ。
11月に入り寒さが増してきて、この間はぱらぱらと初雪が降った。
そんな中でも、彼女ははんてん一枚羽織って窓を全開にしてお酒を飲んでいる。
街で買い物をして帰ってきた僕を待っていたのは、様子のおかしい彼女だった。
「プリングルスの期間限定のやつありましたよー。いっぱい買ってきました」と声をかけながら縁側に行くと、彼女がはしゃいでいる。
「あ、煮干し!聞いてよ!スリッパで突っ込む方法をスティーブジョブズが発見したんだ。トップニュースだよう」
「何言ってるんですか?」
「さっきここでニュースが流れてさ!」
彼女はそう言って、庭を指さした。
僕は頭にはてなマークを浮かべながら、いつもの定位置、テーブルを挟んで彼女の向かいに座る。
「なんですって?」
「ジョブズ」
「は?」
「スティーブジョブズの大発見!」
「あの人死んだでしょ」
「私にも壺が見えるから中に入りたいんだけど、そもそもスリッパは壺なのかっていうねー」
「ツボ?なんのツボですか?」
「っていうか壺に入るのかな?」
「間瀬さん…大丈夫ですか?」
意味不明なことを並べ立てる彼女と目が合う。
その瞬間、彼女は笑いだした。
「あははは!煮干し、変な顔!」
「間瀬さん、なんかおかしいですよ」
「おかしい、うんおかしいの、おかしいよ、だってそんなわけないんだもの!あははは!あ、いけない、お酒飲まないと…」
いつも以上に脈絡のない彼女の様子に思い当たるものがあることに気付いた。
声をひそめて、一つ質問を投げかけてみる。
「もしかして…間瀬さん…ドラッグやってるんじゃ…」
「ドラッグなんて大それたこと言うなよ。私が吸ってる奴は合法なんですよーだ」
「やってるんですね?」
真剣に問い詰めているのに、彼女は据わっている目に笑みを浮かべていて、まともに相手にしてくれない。
「お前、帰れよ~。お前の顔見たくない。なんだよその変な顔!」
僕は身を乗り出して、彼女の両肩を掴み、ぐらぐらと揺らした。
「駄目です!目えさましてください!」
「まあまあ、待ちなしゃい。もうそろそろ切れるや。我慢してよ」
「どうしたら終わるんですか!?早くどうにか…」
「だからもう抜けかけてんだってー…」
「俺…ほんとに嫌なんです!間瀬さんがそういうことやってんのが!早く目ぇ覚まして下さい!」
焦る気持ちが止まらないまま、僕は彼女の胸倉を掴んで、思いっきり床に叩きつけていた。
フローリングと彼女の背中がぶつかり大きな打撃音を響かせる。
その音で、僕は我に返った。
つい、暴力を振るってしまったことにひやりとする。
彼女は声にならない嗚咽を零して、打った背中を庇いながら小さな声を出した。
「いてて…君の、そういうところはちょっと好きだよ」
「何が…」
「嬉しかった?」
「…嬉しくありません」
「ふん。言わなきゃ良かったわ」
彼女は倒れたままで膝を抱えて不機嫌そうにしながらうずくまってしまった。
黙り込んだ彼女はそのまま寝てしまう。
彼女が寝ている間に、テーブルの上にあった派手な色のパッケージの袋に入ったハーブらしきものを見つけて、慌てて縁側から庭へばら撒いて捨てた。
次に起きた時の彼女はハーブを吸った後の記憶があやふやだと言う。
彼女はいつも奇行を繰り返していた。
相手なんかしていられないので、適当にいなすしかない。
彼女の行動には縁側で酒を飲む意外に規則性なんて欠片もない。
この前は、午前3時ごろトイレに起きて部屋を出ると彼女がまだ縁側でお酒を飲んでいるのが見えた。
驚いて、思わず声をかけた。
「寝ないんですか?」
「うん。私、2日にいっぺんぐらいしか寝ないのだ」
「え、ほんとに…?」
「そうよ」
「きつくないですか?」
「まあ、きついですにゃ。付き合ってくれない?」
なんだか弱っているように見えた彼女に同情してしまい、思わずそのお酒に付き合ってしまったのを覚えている。
それでも、二日に一回しか寝ないと言いながら、彼女は明け方に縁側で眠ってしまった。
そしてこれは、雪がぱらつく11月にしては寒すぎる夜中のことだった。
彼女が夕方にミニクーパーに乗って出かけたまま、真夜中まで帰ってこないことがあった。
彼女は滅多に家を空けたりしないので、数時間とはいえど心配で気が気じゃない。
寒さに耐えながら、縁側に座っていたり、時々庭に出たりしながら彼女の帰りを待っていた。
昼過ぎにお酒を飲んでいるのを見ているので、飲酒運転であることは間違いない。
事故でも起こしたのではないかとばかり考えてしまう。
そんな心配など気にもしていないだろう彼女が、夜中の11時頃にやっと帰ってきた。
必要以上に勢いを付けて庭に車を乗り付ける。
エンジンが止まるまで、爆音のダンス曲が車の外まで垂れ流されていた。
「間瀬さん!こんな時間まで何してたんですか!」
「何って…幸運峠の無人販売店で野菜買ってきただけだじゃ。もう冬だし、そろそろ店じまいだもん」
「幸運峠まで!?」
幸運峠は海岸沿いの小玉坂からは街とはまるで反対側の山側にある峠で、ここからだと2時間ほど走らないと辿り着けない。
「無人販売なら小玉坂もやってるでしょ!?それにこんな時間に行かなくてもいいじゃないですか!心配したんですよ!?」
「ほら、このほうれん草、このボリュームで100円なの」
僕の話などまるで聞いていない様子で、あれこれと助手席から野菜を取り出しつつ、呑気に「鍋しよう!」なんて言っている彼女を見て、僕は苛々しながら詰め寄った。
「心配なんです。電話番号交換しましょう」
「ん?」
「僕が気が休まらないんで」
「私は連絡先登録しない主義でね」
「なんですかそれ…」
「お前が一方的に登録する分には構わないけど、どうする?」
「じゃあ、登録しますよ…」
同居して数ヶ月、やっと電話番号を教えてもらった。
これだけ彼女に付き合っていて、付き人なんかもやっているのに、仲が進展したと言えばこれぐらいしか思い当たらない。