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通話を終了させて携帯電話をパチンと閉じ、廊下から縁側に戻って彼女に声をかけた。
「間瀬さん、車借ります」
「ん?もうスーパー閉まってるよ?」
「いや、今、友達に呼ばれて…」
僕がそう言うと、座椅子越しで後ろ姿しか見えない彼女が笑い声を僅かに零すのが聞こえる。
「愛子姉さんからアドバイスをやろうか。行くと後悔するぞ」
「どういうことですか」
「行けば分かるや。行ってらっしゃい」
彼女の言うことは真に受けずに、すっかり夜が更けた庭に出て、車に乗り込む。
車で30分で着く街の中心、本町に住む小学校以来の友達に突然呼ばれたのだ。
今は夜の10時を過ぎる頃だった。
電話で話した友人はどうやら酒に酔っている様子で、僕自身お酒を飲んでしまっているし、車しか移動手段がないので断ったのだが、「いいから来いよ」とごり押しされた。
呼ばれたのは桜庭という同級生のアパートの一室で、何度か訪れたことがあるが、お互い仕事もあって、最近はあまり一緒に遊ぶこともなかった。
アパートに入るなり、桜庭が陽気に僕を迎え入れる。
「お、来た来た!早く早く!おーい、七星来たぞ!」
桜庭のテンションを見て、嫌な予感がする。
高校の時から変わらず短い茶髪が特徴の彼は、人の失敗事が大好きな所が欠点だった。
そんな彼がこんなに嬉しそうにしているのは、何か嫌なことが起こる前触れなのだ。
桜庭はこの街のありとあらゆる職場を転々としているフリーターだ。
彼はノリが良く、いつも明るく周りを盛り上げるが、一方でかなり意地が悪く、人をからかいすぎるところがあって、よく人間関係でトラブルを起こしては退職をするという繰り返しだ。
「飲んでんの?」と僕が声をかけると、「まあね~!ほら、雅も来てるから」と桜庭が陽気に言う。
部屋には同じく小学校以来の同級生の雅がいた。
さっぱりした黒髪が真面目そうな雰囲気を醸し出す彼は市役所勤めなのだが、しょっちゅう夜遊びをしては午前中デスクで眠って過ごしているらしい。
持ち前の人当たりの良さでなんとか職場での立場を取り繕っているようだ。
雅も同じく酔っている様子だった。
昔からこの3人でつるんでいることが多かった。
ワンルームの部屋に、ビール缶がいくつも転がっているのが見えて、「俺、今日は飲まないよ」と言うと、桜庭はやけに僕にべたべたしながら「いいよいいよ、それよりさあ!」と座るか座らないかの間に話す。
「七星、お前会社首になったんだろ!?」
その言葉で、一瞬にしてなぜ呼ばれたのか理解した。
彼らは僕の失敗談を肴に一杯やりたいようだ。
「なんで知ってんの…」
「えーっと…お前の会社の店長のー…あ、そうそう、そいつの行きつけのスナックのママが言ってた。ほら、キャスターって店あるじゃん、駅裏に」
「ああ…あそこね。俺、あそこの店嫌い…」
「てか、まじ七星、首になったの?」と雅が声を上げると、にやにやと桜庭が「がちだって!なんかさ、配達する車あんじゃん、あれぱっくたんだろ?しかも開き直って逆切れしたんだろ!?」と乗っかるように僕に問い詰める。
僕は深いため息をつき、今すぐ帰りたい衝動にかられた。
「それ、話でかくなってるよ…ぱくったわけじゃないし、開き直ってもないし、逆切れもしてないって…ちゃんと返したし…」
「返したってことは一回ぱくってんのね?」と雅に冷静に突っ込まれ、「いや、それは…」とどもっていると、「しかも今さ、女ん家に逃げたって聞いたぞ!」と桜庭がたたみかけるように言う。
「え、女!?誰誰!?」
「違うって、そういうわけじゃないんだって…」
僕が弁明しても、桜庭がビール缶片手に人差し指を立ててにやにやと笑う。
「キャスターのママが証言してんだよ。『女の家に七星がいるの見た』ってキースの店長がはっきり言ったんだ!」
「それ多分俺じゃないよ…」
僕が話す隙も与えず、雅が声を弾ませて言った。
「あ、そうだ。もしかしてやっぱり七星だったのかな?あれ」
「何なに?」と、桜庭が新たなネタに目を輝かせている。
「駅前で赤のクーパーに乗ってるやつが七星そっくりだったの。もしかしてあれ彼女の車?」
雅にそう指摘されて、僕はぎくりとした。
今もその車で来ているので、見られたら言い逃れるのは難しい。
「人違いだって。俺はチャリ勢だから」
「いいじゃん隠さなくったって!ねえ、そうなんでしょ?」
「どうなんだよ、七星!」
彼らは徹底的に僕を問い詰めて暇をつぶすつもりのようだ。
この街の人間はすべからく噂話が好きなのだ。
「俺帰る」
「やっぱそうなんだー!都合悪くなるとお前すぐ帰るって言いだすもん!」
「七星の彼女ってどんな奴なの?」
「なんかさ、丸幌浜か小玉坂あたり、あの辺の人だったって聞いたんだけど…あ、可愛いらしいよ!えーと、どっちだっけ…」
僕は黙って席を立ち、アパートから出て行く。
後ろから「まじで逃げんのかよー」と、桜庭のがやが聞こえてくる。
それを振り切って、足早にアパートを後にし、さっさと車に乗り込んだ。
『仕事をやめて女の家に逃げた』という話に確証が持てたと思ったらしく、2人は強く引き止めようとはしなかった。
彼女の赤い車で国道を飛ばして帰っていく。
胸がむかむかして仕方なかった。
僕は昔からこの街の噂好きや噂の独り歩きが嫌いだ。
それだったら彼女の理解できない言動に付き合っている方がいいし、世間と隔離されたようなあの縁側の方がどれほど居心地のいいことか。
国道から小道に逸れて、橋を渡ってさらに坂を登っていき、奥の林の中に入っていけば彼女の家がある。
家の庭に車を停めて縁側を見てみると、彼女がオレンジ色の間接照明とタブレットの光りに照らされているのが見えた。
スピーカーからハウス調のいつもよりゆったりした曲が流れている。
三角座りを少し崩したように座って小さくなってタブレットを弄る彼女が無性に恋しくなる。
僕はまっすぐ窓が全開に開いた縁側に直接向かい、腰掛けた。
その時、初めてこの縁側に安心感を感じたのだった。
彼女は馬鹿にするようにくすくすと笑っていた。
「お早いお帰りで」
「ただいま…」
「行かない方がよかったでしょ?」
「そうですね…」
「この街の人間は皆そうなのさ。小玉坂なんて余計にね」
彼女はタブレットを伏せると、顔を上げて、小首をかしげて見せた。
間接照明の明かりだけだと、この縁側も彼女も不気味に映る。
「私が小玉坂でなんて呼ばれてるか知ってる?」
「なんて…呼ばれてるんですか?」
「放火魔。素敵な名前でしょ」
「え…?」
「私が家族を殺すために火を付けたと思ってる人もいるんだなあ。この辺の子供は私を見つけたら逃げてくわ」
その話を聞いた瞬間、悲しさや悔しさ、負の感情が一気に膨らんでいった。
桜庭のアパートでの出来事、彼女の話、二つ重なって、それらが怒りとなって込み上げてくる。
「そんなの…許せないです!絶対におかしいですよ!だって、あれは事故じゃないですか!」
「君は事故だと思うわけね。でも、そうじゃない人もいる。他人がどう思うかなんてコントロール出来ないものよ」
「間瀬さんはなんでそんなに平然としてられるんですか?」
「落ち着け落ち着け。お腹は空いてる?」
「空いてないです…」
「じゃあお酒飲め。これでほとんどの問題は解決するや」
この不快な気持ちも酔っ払えば少しは楽になる気がして、注がれたお酒を多めに一口飲み込んだ。
むしゃくしゃしてきて仕方が無い。
他人がどう思うかなんてコントロール出来ないという彼女の言葉が突き刺さり、街の人間に嫌気がさしてしまいそうだった。
「僕もう…しばらく遊び行くのやめます」
「うふふ、可哀相に」
彼女はちっとも同情していないどころかむしろ楽しげに言った。