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彼女の赤い車を借りて、僕は街に出ようとしていた。
あの家は食べるものが無いので、カップラーメンか何かを買い込もうと思ったのだ。
エンジンをかけると、カーステレオから爆音の音楽が鳴り、心臓が飛び出るぐらい驚いて、慌てて音量ボタンを探す。
適当に操作して音量を下げ、一つ溜息をついて、車を走らせた。
この車は外装が細かい傷だらけで、内装も煙草で焦がした後があったりヤニで汚れていたりとぞんざいな扱いをされているようだった。
お菓子の空、缶やペットボトル、何かのパンフレットのようなものやレシートなど、ごみらしき物しかないのだが、交通安全のお守りだけは4個ほどフロントの左端にぶら下がっていて、車が動くたび鈴が鳴る。
車はミッションのミニクーパーで、僕の身長では座席が小さい。
おまけにクラッチのつなぎも悪く、ブレーキは踏むたびにキイと嫌な音を鳴らす。
馬力はあるようで、小玉坂の急斜面はすいすいと進んでいった。
軽トラが主流のこの街には似合わない真っ赤な外車なので、街の方へ行くと、対向車や歩く人たちの視線が気になるのも難点だった。
街で一番格安のいつも行く業務用スーパーに来てから僕ははっとする。
財布を開いてみたら、千円札が一枚しかない。
アパートを引き払う時にアパートの修繕にお金をかなりとられたのを今更思い出した。
入居する時は敷金礼金が無い代わりに、出るときは部屋の中の傷の修理やさびや汚れのクリーニング、細かいところまですべて合わせてかなりの値段を請求されたのだ。
スーパーの中に出店されているATMに行き、おそるおそる残高を確認すると、携帯料金などが含まれたカードの引き落としがされた後で、残金はぎりぎりの873円となっていた。
それを見た瞬間、サーっと血の気が引いていくのが分かった。
貯金もしていないし、今の残高すら把握していなかった僕は、これから生活していくお金がないことにここでようやく気付いた。
彼女がちらつかせるお金の金額を思い出して、思わず迷いが生じる。
ライターを一個見つけるだけで、神聖アンソロジーのレベルを一つ上げるだけで、一万出すと簡単に言う彼女。
一銭も貰う気はないと言ったのに、実際に渡されたお金があの四畳半の部屋に置いてある。
僕は断れなかったのだ。
その合計はすでに10万円を軽く超えている。
そのお金は使いたくないし、いずれはそのまま返そうと思っているのに、それすらできないでいる。
あれを使ってしまったら人間として失格な気さえするのに。
打ちひしがれるがまま、カップラーメンを3個と2リットルのコーラだけ買って、次はハローワークに行ってみた。
とにかく早く働かなくてはと思ったのだ。
しかし、検索機で求人票を眺めてみても、なんだかどれも頭に入ってこない。
賞与なし、シフト制、夜勤、低賃金、介護、接客、経験者優遇、資格必須、そんな求人ばかり。
こんなことをしなくても彼女の傍にいればお金が入ってくるのに、と考えてしまう自分にも嫌気がさし、すっかり僕は意気消沈した。
まだ昼過ぎ程の時間に、そそくさと小玉坂に引き返してしまった。
お金が無いと言う感覚は、これほどまでに心を締め付けるものなのだろうか。
最期の給料が出るまで、まだ10日以上もあるし、それも大した金額じゃない。
ぐるぐる考えながら車を降り、とぼとぼと玄関まで歩いていくと、ふと、人の気配を感じた。
にやりと笑う彼女が目の前に立ちふさがっていたのだった。
全く気付かなかったので、思わず上ずった声が出た。
「ハロワ行ってきたの?それ見せて」
彼女が指さすのは僕が手に持つ2枚の求人票だった。
無言でそれを渡すと、彼女はそれを愉快そうに眺め始めた。
縁側にサンダルがあるのに、彼女は裸足だった。
彼女は庭先に少しの間出るだけの場合、裸足で縁側から降りてくることがある。
「どれどれ…コンビニのバイト?時給680円…」
彼女は金額を読みあげ、嘲笑するようにくすりと笑った。
「で、こっちがバスの運転手ねえ…正社員で…研修制度もあり、と…」
「バス会社なら申し込めばほぼ採用だろうって言われたんです。でも正社員かバイトかで迷って、とりあえずどっちも…」
僕が話している途中なのに、彼女はその求人票を二つ重ねて真っ二つに破いてしまった。
「ちょっと!」
彼女はそのまま身を翻し、もう一度求人票を破きながら裸足のまま庭を歩き、縁側に座りこんだ。
「間瀬さん、何するんですか!」
「正社員で16万ならさあ、私は20万出すよ」
「え?」
彼女はにやりと笑って意味の分からないことを言った。
「煮干し、こんなところで働くぐらいなら私の付き人になればいいさ」
「は?」
「月20万、欲しい時にボーナスあげるや。私の身の回りのこと全部やってくり」
「何言って…」
「手始めに私の部屋を片付けるってのはどう?」
「え…?」
「やるでしょ?」
「ちょっと…」
「決定じゃ!ほらほら!ぼーっとしてないで!」
「え…ええ?」
ついていけず庭で立ちすくむ僕のところまで裸足のまま戻ってくると、彼女はぐいぐいと腕を引いて玄関の扉を開けた。
「2階の私の部屋を片付けてくれ。それが君の初仕事ね!」
「冗談ですよね…?」
「私が冗談言ったことある?」
「あるじゃないですか…」
僕が考える隙も与えないようにして、彼女は僕を階段まで連れて行き、背中を押した。
「ここ上がってすぐの部屋。あそこ片付けて欲しいの」
そんな冗談みたいな話をやすやすと受け入れるわけにはいかない。
でもコンビニの店員をやるより、バスの運転手をするより、よっぽど楽に稼げる方法が目の前にある、かもしれない。
葛藤している間にも、彼女は僕の背中をぐいぐいと押す。
「行って行って!ほら!」
彼女に言われるがまま、僕は強引に2階へ追い出された。
初めて行く2階の部屋へ足を踏み入れると、そこにはシンプルで綺麗な廊下がある。
彼女は「いやー、ビジネスはスピードが勝負ですね、社長!」と訳の分からないことを言いながら縁側に戻って行ってしまった。
日が差し込み、明るい廊下を歩いていく。
天窓がついており、日差しが差し込んでいるのだ。
部屋は3部屋あるようだった。
とりあえず、右側の部屋を開けてみる。
部屋に入ると、まず飛び込んできたのが、部屋にぎゅうぎゅうに押しこまれている真っ赤な車だった。
「は!?え!?」
僕は思わず声をあげたが、落ち着いて冷静にその車を見てみた。
記憶違いでなければ、ポルシェだ。
どこをどう見ても本物にしか見えない。
僕はいても経ってもいられなくなり、一階に降りて、縁側でくつろぐ彼女の元に直行した。
「あの!間瀬さん?」
「何?」
「なんか、車があるんですけど!」
「ああ。ただの赤い車だ」
「あれ…なんですか?」
「ポルシェ911。の、模型。走りはしない。部品だけ買いそろえて組み立ててみた、いわばプラモデルみたいなものよ。本物で作ったプラモデル。エンジンはつんでないのよね」
「何やってんすか…」
「煮干し、時々手入れしてくんない?」
「俺が!?」
「これも付き人の仕事!」
「付き人…」
「本題は他の部屋よ。すごい汚い部屋あるから、あそこのごみっぽいの全部まとめてくれ」
再び二階に向かってみることにした。
ポルシェのある部屋に入り、改めて部屋を眺めてみると、僕の知らないいろんな工具が壁中の棚にあり、まるでガレージのようだった。
部屋も大きく、20畳ぐらいありそうだ。
なぜ2階にこんな部屋があるのかがさっぱり分からず、ますます彼女のことが分からなくなる。
ポルシェは良く見ると埃まみれだった。
それも、指で拭えないほど厚い。
手入れも難しそうだ。
そして、一旦ポルシェの部屋を出て、向かいの部屋に入ってみた。
その部屋は中が真っ暗だ。
遮光カーテンがよほど分厚いらしい。
何とも言えない、形容しがたい匂いが蔓延していて、嫌な予感がした。
電気の電源を探して、壁をまさぐると、すぐに大きなスイッチがあった。
それを押すと、一気に部屋が明るくなる。
その光景を見て、僕は思わず言葉を失った。
そこにはとんでもない光景が広がっていた。
テーブル、ソファー、大きなチェスト、真っ赤な遮光カーテンはまだいい。
床やそこらに積み重なるのは、ごみとごみと、それまたごみ。
ごみが床中に散らかっている。
カップラーメンの空を重ねた塔やビール缶を重ねたピラミッドなど、妙なものもあったが、基本は煙草やお菓子やペットボトルなどのごみだ。
手に負えない気がして、僕はそっと部屋を出た。
そして、もう一つある部屋に向かって見ることにした。
しかし、そこは扉に鍵がかかっているらしく、開かないのだ。
見ると、ここだけ鍵穴がドアノブの上にあるのが分かる。
掃除もかなり大変そうだし、鍵がかかっている部屋もあるので、一旦諦めて縁側に降りていく。
「鍵がかかってる部屋があったんですけど」
「あれはほっとけ」
「はあ…。あの、ごみすごいですね」
「あれね。あれは勝手に増えるのだ。片付けてくれる?」
「でも…」
「これも付き人の仕事なの」
「僕、付き人にならなきゃいけないんですか…」
「前も言ったじゃない。深く考えるのは良くないって話」
良く見ると、彼女はいつもより酔っ払っているような気がした。
目が据わっていて、にたにた笑っている。
「若いんだから働きなさい。私の付き人としてね!あははははっ!」
彼女はひとしきり笑うと、満足気に溜息をついて、ぐいぐいお酒を飲みこんだ。
そんな彼女を見ていると、普通の感覚が分からなくなっていく。
乗りかかった船を遂に乗りこなしてしまうような、不可解な感情や葛藤を捨てて、僕は決した。
「給料、出してくれるんですよね…?」
「もちろんよ」
「じゃあ…わかりました」
「よかろう。まあいつでもいいからやってくり。とりあえず酒飲もうぜ」
「まだ2時半ですよ…?」
「私は朝4時から飲んでる」
「ええ?寝て下さいよ…」
本当にそんな時間からお酒なんて飲んでいいものなのだろうか。
そんなことを思いながら、改めて日本酒を一口だけ飲みこんでみた。
その味がやけに濃くて飲み易かったのが印象に残っている。
彼女が縁側で笑っている。
「太陽光を浴びたお酒が一番美味いの」
太陽光が関係あるのかはさておき、美味しいお酒だった。