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この家に転がり込んだ日の夜、彼女は布団を出してきてくれた。
縁側の奥の和室の押し入れにあった布団らしく、大分カビ臭い。
布団がないよりはましなので、僕は何もない殺風景な奥の洋間で眠ることになった。
カビが生えた天井を見上げながら、落ち着かず眠れそうになかったが、案外疲れていたのか、いつの間にか熟睡していた。
朝になり、僕は目覚めてすぐ、ここがどこか分からなくなった。
寝ぼけた頭で、彼女の家だということを思い出して、僕は何をやってるんだろう、とぼんやり思い耽る。
携帯電話を開いてみた。
午前7時。いつも起きる時間だ。
アラームがなくても起きれるぐらい、僕は会社に適応してしまっていたんだろう。
手持無沙汰なまま、とりあえず廊下に出てみた。
すると、人の気配を感じる。
まだ朝の7時だというのに、彼女は縁側にいた。
しかもどうやらお酒を飲んでいる。
「おはようございます…」
「おお、おはよう」
眠そうな目をしている彼女は、いつから起きていたのだろう。
「洗面台もあるんだけどさ、キッチンで顔洗ってくれる?私の使っていいから」
「はあ…」
彼女に言われたとおり、キッチンに向かう。
キッチンは棚がダークブラウンで統一されていて、使った形跡のなさそうな食器が所狭しと並んでいた。
雑然としていて、掃除はしていなさそうに見える。
蛇口の傍に歯磨き粉とチューブの洗顔料が放置されている。
とりあえず、その洗顔料で顔を洗い、手拭きのようにぶら下がっているタオルで顔を拭く。
キッチンを見渡してみたが、手軽に食べられそうな物がない。
昨日の昼から何も食べておらず、流石に空腹だった。
そんな時、丁度彼女がキッチンにやってきた。
寝ぼけているのか、足取りはふらついていて、口には火のついていない煙草を咥えている。
「食べるものってあります?」
「適当に冷蔵庫漁れ」
彼女はコンロに火をつけると、長い髪を片手でまとめてかがみこみ、コンロから直接火を付けて煙草を吸っていた。
「ライターないんですか?」
「なくした。縁側の奥の和室ね、あそこに何個かあると思うんだよね。煮干し、探してきてくんない?」
「なんで俺が…」
「やればいいでしょ、それぐらい」
そう言う彼女の言い方や仕草に、それぐらいやろうかという気になる自分のことが気にくわなくて仕方がなかった。
言われるがまま和室に向かうと、その釈然としない気持ちをぶつけるように、部屋をまるで荒すかのごとくライターを探し回る。
彼女は傍の縁側でのんびりくつろいでいた。
そんな中、あちこちからどんどんライターが出てくるのでおもしろくなってきていた。
段ボールの中、棚の中、部屋の隅、物の隙間、和室の奥に収まった和室の奥の彼女のベッドの下からも、次々とライターが見つかる。
見つかったライターを抱えて縁側に戻ると、彼女は座椅子ではなく縁側の床に寝転び眠そうにしていた。
「10個ぐらいありましたけど」
「おお、よくやったね」
「いえ…」
「じゃあ一個につき一万やろう」
「一万って?」
「一万円よ」
「え!?いりませんよ!そんなつもりじゃないし」
「遠慮しなくていいのに」
「僕、そうやって物事をお金で解決するのは嫌いなんです。それに間瀬さんからは一銭も貰う気なんてありませんから」
「あー…君、損するタイプだね」
彼女の言葉に苛つく僕のことを見抜いているかのように、彼女は僕に指をさした。
「苛々するのは空腹のせいね。冷蔵庫に豆腐があるから醤油かけて食いなさい」
「豆腐って…」
「とりあえずお腹いっぱいにすればほとんどの問題は解決するんよ」
「はあ…」
空腹には勝てず、僕は彼女の言う通りにすることにした。
キッチンの冷蔵庫を開けてみるが、中はガラガラで、ほとんど食べるものはないのに、豆腐は6丁もあった。
納豆がやけにいっぱいあったのも気になる。
キッチンはアイランドになっていて、お洒落なバーにありそうなカウンターチェアが設置されている。
そこに座って、その辺にあった醤油をかけて食べた。
醤油は少し酸っぱくて、腐りかけているのだと分かる。
それでも空腹には勝てず、一丁食べきった。
ついでに溜まった洗い物も片付けておいた。
縁側に戻ると、彼女はヘッドホンをしながら鼻歌を歌っていた。
それでも僕が来たのに気付いたようで、ヘッドホンを外し、こちらを見上げた。
「ねえ。暇でしょ?」
「まあ…後で車貸して下さい。ハロワ行きたいんで」
「そんな不純な動機なら車は貸さないよーだ」
「どこが不純なんですか」
「まあそれまでの間でもいいから…ほら、これあげる」
渡されたのはスマートフォンだった。
しかも、白い外装の隙間は茶色く変色しており、薄汚れていて、どうしたらこんなに汚れるのか分からない。
「スマホですか…?」
「お古なんだけどWiFiつなげばまだネットはできるのよ。このゲームのレベル上げてくれない?」
「はあ…」
「暇だったらでいいからさ」
「間瀬さんってオタクなんですか?」
「うーん…オタクの定義が分からない」
彼女はその聖戦アンソロジーというゲームの説明をしてくれた。
ひたすらこのエリアのクエストを進めろ、体力が無くなったらネットのストアで課金をすればいいと。
ゲームにすら途方もないお金をかけているのが垣間見える。
暇つぶしにゲームをやりはじめると、まだガラケーの僕にとってはスマホゲーム自体が面白くて、いつの間にか昼前の時間まで集中してプレイしていた。
その時、不意に外から音がした。
軽バスのエンジン音だった。
荷物の配達が来たのだ。
しかも庭に乗り上げてきたのは僕が勤めていたキース運輸の配達車。
その見慣れた車を見て戦慄が走り、思わず立ち上がって、奥に引っ込もうとした。
すると、足首を彼女に掴まれて、おまけに引っ張られて、僕はその場で思いっきり転んでしまう。
とっさに身を庇ったものの、痛いものは痛い。
「ちょっと、何するんですか!」
「何逃げようとしてるの?」
「だって、キース運輸ですよ!」
「確かに君の知り合いの社員がいるかもね~。でもいちいち逃げるのはやめて。そういうの見せられても困るんよ」
「困る…?」
「そもそも、知り合いのお宅に引っ越したってだけの事実を隠す必要があるのかい?」
「ありますよ!だって、多分僕がいなくなったら小玉坂の担当になるのは…」
言い合いをしている間に、配達員が荷物を運んでくる。
それは、まさしく、支店長だった。
人一倍力持ちではあるのにふくよかな体型をした中年男性で確か50歳ほどだと聞いている。
その支店長は元々、僕と二人で難所の小玉坂を担当していたのだ。
「ちわ、荷物です」
軽い挨拶でやってくる中年男性は、僕に気づくと、すぐに表情が変わる。
「あれ?七星君!何やってんの?」
「いえ…あの…」
「お前、本町に住んでなかったっけ?」
「いや…それは…」
僕が答えに迷っていると彼女が調子よく話し始めた。
「いつもどうも、キースさん。今さ、私がこいつの面倒みてやってるんです」
「もしかして、七星君のお姉さん?」
「いいえ。絶対違います」
絶対違うとはっきりいう彼女の言葉が、やけにきつく冷たく感じた。
「そっか、似てないもんねえ。もしかしてお付き合いされてる?」
「まあそうだったりそうじゃなかったりって感じですかねえ?分かるでしょ、キースさん!」
「あっはは、これはまた!世間は狭いねえ…うちのお得意さんがうちの元社員と…七星君、お前、女に苦労かけんじゃないよ?」
話がいつの間にかおかしな方向に進んでいる。
僕は慌てて間に入った。
「支店長、違いますよ!そういうのじゃないんです!」
「お前やることはちゃんとやってんだなあ…」
「違いますって!」
「ほら、キースさん、ペン頂戴。サイン」
「ああ、はいはい」
サインをしながら彼女と支店長は調子良く話していた。
「小玉坂の女はおしとやかだっていいますけどね、七星君にはきびしくしてやってくださいね。こいつは甘えてんですよ」
「あはは!大丈夫、私はどっちかというと丸幌浜の女に近いからさ」
「はははは!そりゃ安心だ!浜の女は強くていい」
「ちょっと、強いとか言わないでよ!がさつな女みたいに聞こえる」
「いやいや、違う違う。女性ならではの逞しさっていうの?そういうのが浜の女にはありますからねえ」
僕はいても経ってもいられなくなり、「支店長!」と声を上げた。
「ほら、サインは貰ったんですよね?とっとと次行ってくださいよ!」
「なんだ、お前照れてんのか?」
「いいから早く行ってください!」
「はいはい、分かった分かった。じゃあ、また、荷物がありましたらお伺いしますので」
「うん、よろしくね、キースさん」
そうして、騒々しく支店長が去り、軽バスが庭を後にした直後、僕は思いっきり彼女を睨んだ。
彼女は素知らぬ顔をしている。
「そんな睨まなくても」
「なんですかあれ…あれじゃあまるで僕と間瀬さんが付き合ってるみたいな…」
「そんなこと一言も言ってないよ。一言も」
「あれじゃあ勘違いされてもおかしくないですよ!」
「でもねえ…キースの社員さんから逃げ続ける方がつらいと思うよ?私の思いやりなんだけどなあ…」
「思いやり!?ありがた迷惑ですよ!まだ姉弟だと思われてる方がましでした!」
「ふざけんな」
急に彼女は声のトーンを落としてこちらを睨み、怒りをあらわにした。
思わず僕は口をつぐんでしまう。
「私にはちゃんと兄妹がいるんだ。それはお前じゃない」
「な…何で怒ってるんですか?」
「怒ってるのは君でしょ?」
彼女が怒っているように見えたのはほんの一瞬だった。
さっきの鬼のような形相とは打って変わって今は僅かに笑顔を見せている。
僕は余計、彼女のことが分からなくなった。
「かりかりするのはお腹が空いているからだよ。ハッピーターン食べる?」
なんで彼女が一瞬怒ったのか、それも気になるのだが、支店長の方も問題だ。
僕は本当にどこか穴があったら入りたい気持ちだった。
自分の非で説教を散々聞かされて会社を首になった割に、支店長はわだかまりのない様子だったが、結局、彼女とまるで恋人のように思われてしまったという新たな問題が発生してしまった。
会社で言いふらされるのは分かり切っているし、この街は噂話が広がるのが早い、特にこの手の噂は。
悶々と考えていると、彼女がそっと囁いた。
「出て行きたくなった?」
まるで面白がっている様子で、彼女は笑っていた。
支店長とは朗らかな表情で人懐っこく話し、僕のことを困らせ、あんな恐ろしい目でこちらを睨んで、今度は意地の悪い笑顔を向ける、そんな彼女にはついていけない。
「でも、君には行き場がないねえ」
彼女はまるで僕を追い詰めるように、ゆっくりと話した。
「いいから聖戦アンソロジーのレベル上げしてくれない?言ったよね、レベル1上がるごとに一万って」
「お金で解決するような話は嫌なんです…苛々するんです…」
「それは人間がお金に支配されている構図を理解していないからでしょう?」
「は…?」
彼女は急に立ち上がり、奥の和室に向かった。
ベッドに昇って上の棚の引き出しを開けると、とんでもないものを取り出す。
片手に掴んでいるのは一万円札の分厚い束だった。
「ざっと現金200万弱あるよ。今現金化しているお金はこれだけだけど…これを見てもぐっとこない?アドレナリンが出て、頭が真っ白になるでしょう?」
彼女は札束を持ち、すたすたと縁側に歩いていく。
そして、そのお金を縁側から庭へ、一気にばらまいて見せた。
風になびいて、その紙幣がひらひらと空中を舞っていく。
僕は呆気にとられた。
あれの中の一枚ですら、欲しくて欲しくて堪らないのに、彼女はそれを庭に投げ捨てて見せるのだ。
理解が、追いつかない。
「あれ?必死に拾ってくれた方が面白かったんだけどな」
「そんなこと…」
「ふふ。君、目がまん丸だよ。お金って、惹きつけられるでしょう?」
僕は言葉を失ってしまった。
何も言い返せない。
何か反論したいのに、何も言葉が出てこない。
「お金欲しい?出て行きたい?それともまた逃げようとするの?」
彼女の意地悪い表情一つに心を奪われるのに、お金を目の前に出されると、僕はもう何も言えない。
暫く静寂が流れた。
僕は次々に起こる出来事に頭がついて行けず固まっていた。
暫くすると、彼女はつまらなそうに座椅子に座り、お酒を一口飲み下す。
「虫がよく鳴いてるねえ」と彼女が一言呟き、また静寂。
「もうコオロギなんだねえ」と彼女がもう一言呟き、また静寂。
彼女は何かを諦めたかのようにもう一言呟いた。
「一口チョコ食べる?」
「あ…はい」
「ふん…私はプリングルス食べよーっと」
そう吐き捨てて、彼女はお菓子を取りにキッチンに引っ込んでいった。
彼女が縁側から居なくなると、体の呪縛が一気に解けた気がした。
すとん、と縁側にある小さなテーブルの傍に座りこみ、久しぶりに息をしたような感覚に陥りながら、撒き散らかされた札束を見渡してみる。
巻き散らかされたお札はおびただしい数だった。
すぐ足もとにあった一枚を拾った。
そうしたら、ものすごい敗北感が湧いてきて、すぐにそれを投げ捨ててしまっていた。
欲望も敗北感も忘れたくて、その場にあるグラスの焼酎水割りを飲みこんだ。
エグ味が強く、吐き出しそうになるぐらいだった。
彼女はただ僕のことをからかっただけなのかもしれないし、何かを伝えたかったのかもしれない。
どっちにしろ、僕にとってはきつすぎる冗談だった。