上
【人間万事塞翁が馬】
【〈ニンゲンバンジサイオウガウマ〉】
______ 人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。
「昔、中国北方の塞近くに住む占いの巧みな老人・塞翁の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と云った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってくる。人々がそれを祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と云った。すると、胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまう。人々がそれを見舞うと、老人は再び「これが幸福の基になるだろう」と云った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり、若者たちの殆どが戦死してしまう。しかし老人の息子は足の怪我を理由に兵役を免れていたため、戦死しなくて済んだ」という故事に基づく。
―― 〈Web故事ことわざ辞典〉引用
▼▼▼▼▼
そう、そうなのだ。人生何が起こるかなんて、そんなの全て時の運。そんなことに一々振り回わされてちゃとてもじゃないけど体が保たないし、やってられない。
だけど、だけど!!!!!!
「なんじゃこりゃああ!」
……おはようございます。グッドモーニング。グーテンモルゲン。
昨晩は世界史の課題をやって、それから友達から借りた少女漫画を少しだけ読んで、日付が変わる前には寝床に着いたと思う。
弟や妹はいない。ひとりっ子だ。親戚の子供を預かったりなんかもしていないはずである、昨晩までは。
それなのに朝目が覚めると、金髪の男の子が隣で眠っていました。
お手玉大に握られたおててが可愛らしい。キッズモデルも顔負けのながーい銀色の睫毛が、寝息のリズムに合わせてゆっくり揺れている。癒されるなあ……じゃなくて。
うわあああ!!!!
彼は誰だ? 何故私のベッドにいるの?
幸か不幸か今日は土曜日だ。予定も入っていないため、この異常事態に割くための時間はたっぷりある。あわあわと文字通り慌てていると、金髪の男の子の目がそろそろと開いていった。
「…………」
「…………」
ファースト・コンタクトである。開かれた両眼は、今まで見たことのない碧色をしていた。金髪碧眼って、この子、絶対日本人じゃないよね……
気怠げに後頭部を掻いている姿は、幼いながらもとってもサマになっている。イケメンなちびっ子だ。
「えーっと……、グッドモーニング? ボンジュール? ……ダンケシェーン?」
取り敢えず何か話さなくては。
起き抜けで動かない脳みそをフル稼働して、知っている限りの朝の挨拶を口に出してみる。あれ、ダンケシェーンは「ありがとう」だっけ。
すると、イケメンくんの形の良い眉が、ぎゅっと中心に寄せられた。
「……何云ってるの?」
しゃ、喋ったあーー!!!
しかも日本語。もしかしてあーゆーじゃぱにーず?
どうやら言語の壁はないようだ。私はそのことにひとまず安堵して、ベッドの上にもかかわらずピシッと正座をし、本題に移ることにする。
「あのー、君は誰かな?」
早朝にベッドの上で相手の名前を問う。……こんなシチュエーション、なんだか既視感があるぞ。そうだ、昨晩読んだ漫画に、ちょうどこんな場面があった。相手役は彼のような幼い少年じゃなくて、成人男性だったけどね!
したがって、何か良からぬこと――たとえば「十八歳未満はお断り!」という風な関係を結んじゃったり――が起きたわけではなさそうだ。私の純潔は守られたまま。しかし、心の中は只今大荒れ模様である。
「どうしたの、お母さん。おれのこと産んだくせに」
ん?どういうこと?
「お母さん」……「産んだ」…?
幻聴だろうか? いやいや、そんなはずはない。小さなイケメンくんの口は確かに動いて、見た目からは想像できないような流暢な日本語を紡いでいた。
お母さんとは誰のことだろう。脳内の大きなはてなマークを表情に浮かべて、彼を見やる。
………。
……なに? お母さんって私のことなの?
出会ってから数分で、瞳だけで会話が出来たことに驚く。おお。目は口ほどに物を云うというけれど、やっぱりそうなんだね。
しかし、私は黒髪黒目をした生粋の日本人である。
一方、目の前で対峙している小さなイケメンくんは眩いばかりの金髪碧眼だ。ありえないありえない。異国情緒漂う男の子――それもとっても整った顔立ちをしている――が私の子供なワケがない。
そもそも、お父さんとなるようなお相手なんかいませんし!
それに、私は高校二年生だ。華のセブンティーン真っ盛り。
百歩譲って彼を産んだと想定しよう。この小さなイケメンくんは、おそらく小学校低学年くらいだと思う。七歳だと想定すると七年前……うわあ、無理無理。私はその当時まだ九歳だ。絶対産んでないって!
「うーん、それは違うかなあ。君のことを産んだ覚えなんかないし……あはは」
日本人の究極奥義・愛想笑いでその場を凌ぐことを試みる。乾いた笑いを唇に乗せつつも、事実はしっかり主張した。
しかし、金髪碧眼と欧米チックな風貌の彼がその意図を汲み取ってくれるはずもなく、私の必殺技は失敗に終わってしまう。
「……? お母さんはお母さんでしょ?」
いやいや、そんな不思議そうな表情をされても。
イケメンくんは告げられた言葉がよく分からないのか、こちらを訝しんで距離を詰めてくる。
「違うよ。年齢的に考えて無理でしょう? 君、七歳くらいだよね?」
「ななさい……? ううん、おれは先週産まれたばかりだよ」
お母さんなんだからそんなこと知ってるよねと、呆れ顔で返される。やれやれと云わんばかりの表情に、若干苛立ちを覚える。むかっ。
知らないってば、そんなの。産んでないんだから!大体、質問は質問で返しちゃいけないって誰かに習わなかっ――
「……先週産まれたばかり!?」
せんしゅうって、あの先週?
一週間前のことを指す言葉だと私は認識しているけど、イケメンくんの場合は違うのかな。
「うん。ちょうど、ななにち前」
「ななにちじゃなくて、七日って云うんだよ」
「し、知ってるよ!なのか!」
おお、拗ねちゃった。って云うか嘘だ。信じられない。七日前って……
小さなイケメンくんはちびっ子といえど、生後一週間の赤ん坊には到底見えない。七日で小学生サイズまで大きくなるなんて、そんなのホラーだ。
「嘘だ」
「うそじゃないもん! ななにち前に生まれたじゃん!」
「七日ね」
「あー、そう、なのか!」
赤ちゃんがこんなにしっかり会話出来るはずがない。七日と七年を間違えているんじゃないだろうか。
「……君の年齢のことはもういいや。私はお母さんじゃないけど。 それより、どうして君はここにいるの?」
「お母さんだってば! ……分かんない。気が付いたらここにいたんだ。お母さんがここで寝てたからじゃない?」
「なんじゃそりゃ」
何度否定しても、小さなイケメンくんは頑なに私がお母さんなんだと主張し続ける。「お母さん」がゲシュタルト崩壊しそうだ。クエン酸やヒアルロン酸みたいに、オカア酸っていう名前の物質があるように思えてくる。……オカア酸でもないけどね。私はただの一般ピープルです。
「お母さん」「お母さんじゃないってば」の云い合いが延々と続く。働いてない悪事をやったのだと決めつけられてそれに対抗する、まるで裁判のようだ。これは精神的に削られるものがあるなあ。つ、つかれる……。
それでも私は産んでない。分かってくれよぉぉ!
朝起きてびっくりハプニングが発生して、小さい子と言い争いなんて、とんだヘビーモーニングだ。
しかし、どうやら疲労を感じていたのはこちらだけではなかったらしい。ずっと続いていた云い争いに終止符を打ったのは、前方から聞こえてきた「ぎゅるるる」と云う変な音だった。
「……お腹空いた」
たしかに。これだけ云い合いすればお腹も空くよなあ。私も空腹を覚えたので、何か食べるものを用意しなきゃと漸く正座を崩した。いてて。足が痺れて力が出ない……
「足いたいの?」
「うん、痺れちゃった」
「……見せて」
そう云って、小さなイケメンくんは生まれたての子鹿のように立ち上がろうと奮闘する、私の右足に触ろうと手を伸ばす。
ああ、感覚が麻痺してるから触らないで欲しい。この独特の刺激、嫌いなんだよなあ。
「いたいのいたいの飛んでけー!」
痺れの震源地が小さなおててによって、一度ぐっと衝撃を受ける。思わず「うぃ!?」と変な声をあげてしまった。恥ずかしい。
「あれ? な、治った」
「うん。いたいのが飛んでく呪文だからね」
すごい!
じんじんと痺れていた足はもと通りになった。私も小さい頃はそのおまじないを何度か唱えたことがあったけど、一度も効かなかったのに。「ただしイケメンに限る」呪文だったのかな。
「ありがとう」
「うん、いいよ」
「そこはどういたしまして、だよ」
「どういたしまして?」
キョトンとした顔で繰り返す姿が可愛いらしい。首をコテンってやるアクションもあったら尚良しだったのになあ。
「うん。今何か食べものを持ってくるから、ここで待っててね」
「分かったよ、お母さん」
「お母さんじゃありません!」
部屋を出る前に、再びオカアサンオカアサンジャナイ口論を数度繰り返す。息も絶え絶え、一階にある台所へ向かって階段を下りた。
自室は二階にある。両親は土曜日にもかかわらず、朝早くからお勤めしているので、家には私しかいない。……訂正、私と身元&年齢不明の小さなイケメンくんしかいない。静まり返っている台所に立って、食パンを二枚トーストする。
ん?
シンクに、マグカップが二つ置いてあることに気が付く。赤と青のそれらがちょこんと鎮座していた。
昨日の深夜に帰ってきただろう両親が飲んだのだろうか。いや、この赤いマグはわたし専用だ。でも、青いのはお客さん用じゃなかったっけ。
カップの底には、ココアの粉末が少し残っている。ココアを飲むのもこの家でわたしだけなのに、何故二つもマグカップが使われてるんだろう。
チン!と小気味いい音がなる。
パンの焼き加減はバッチリだ。
思考を、昨晩のことから今抱えてる非常事態にチェンジする。二つあるマグカップよりも、大きな問題が私にはあるのだ。
普通に準備しちゃったけど、これからどうしよう。彼の正体は依然分からないし、そもそも私を母親だと思い込んでいるから話が通じない。餌付けによる誘導尋問を密かに企みつつ、食パンにハムとチーズを乗せる。いつもより大きめの小皿にサラダを作った。うちの普段の朝食の完成。それらと一緒にオレンジジュースもトレイに乗せて、部屋へ戻る。
「ちょっと、何してるの!」
「本を読んでるよ。……見たことのない種類だね。文字も読めない」
ドアを開けると、イケメンくんは少女漫画を手にとっていた。難しそうな顔をして、パラパラとページをめくっている。昨晩私が読んでいたものだ。挟んでいたしおりが床に敷いてある桃色のカーペットに落ちている。ああ、どこまで読んだか分からなくなっちゃったじゃん!
そもそも、それはティーンエイジャー向けのコミックだ。幼い彼には早過ぎる気がする。
漫画をもとの場所に戻すように云うと、イケメンくんはすんなり指示に従った。
「えらいね」
「お母さんだもん。ちゃんと聞くよ」
「だからお母さんじゃ――」
「わあ! 何それ?」
用意された朝食を見て、イケメンくんの表情がぱああっと明るくなる。うおお、眩しすぎるぜ……
「朝食だよ。こういうのは初めて?」
彼の家庭では、朝ごはんは和食だと決まっているのだろうか。しっかりといただきますの挨拶をして、二人で黙々とトーストを食べ進める。
「おいしい!」
「そう? 良かった」
「こんなの初めて食べたよ、この家は初めてのことが沢山だ」
「それは良かった。いつもはどんなものを食べてるの?」
無邪気に頬張っているイケメンくんに尋ねる。口の中の物を、全部飲み込んでから話そうとするところを見ると、彼はしっかりとした家庭で育てられているらしい。
「いつもはね、……うーんと、なんかこう、黒くて、丸くて、ぎゅっとしてるやつ。たまに白いのも食べるよ」
おにぎりのことかな?
いつもは海苔で巻いてあるもので、時々は海苔なしってことだろう。
完食し、お皿をさげるために再び下へ降りてからもう一度部屋に戻ると、小さなイケメンくんはすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。
「満腹になって、眠くなっちゃったのかな」
ベッドを背もたれにして寝ている姿はとっても可愛らしいけれど、長時間この体制でいたら、きっと体に悪いだろう。
ベッドへ運ぼうと彼を持ち上げると、首の後ろに黒い痣を見つけた。
「…………」
虐待、じゃないよね?
こんなに可愛らしい少年が、親に虐げられる様子なんて想像出来ない。しかし、私をお母さんだと云って、突然ここに現れた理由は、もしかしたらそれなのかもしれない。
どうしたらいいんだろう。結局ご飯を食べてもイケメンくんは何も話してくれなかったし、警察の助けを求めたほうが良いのかな。いやいや、先ずは親に相談しようか。でもお母さん達が帰宅するのは夜遅いと思うし……
「眠くなってきた……」
非日常的なことにぐるぐると思考を巡らせていると、徐々に睡魔が襲ってくる。イケメンくんの隣に寝転がり、誘われるように私も眠りに落ちた。