野良聖女はじめました!
十五歳の洗礼を三日後に控えた夜、ミアは神殿から逃げ出した。
荷物は着替えが二組と、厨房でもらった固いパン、小さなナイフに、なけなしの銅貨が十二枚。十五年間暮らした場所を捨てるには、ずいぶん心許ない荷物だった。
それでもミアは走った。夜が明けるまで街道を進み、人目につくようになってからは森へ入り、昼を過ぎたころになってようやく倒木に腰を下ろした。
肺いっぱいに息を吸うと、木々の間を風が抜けていく。礼拝の時間を知らせる鐘も、勉強の時間を告げる神官の声も聞こえない。木に登るなと叱られることもないのだと思うと、胸の奥から笑いが込み上げてきた。
「……自由って、こういう感じなんですね」
誰に言うでもなく呟いて、ミアは空を見上げた。
彼女は聖女だった。この国では、癒しの力を持って生まれた女性をそう呼ぶ。母も聖女で、父は神官だったが、両親を早くに亡くしたため、そのまま神殿で育てられた。
神官たちは優しかった。食事も寝床も与えられ、読み書きから薬草の知識、礼儀作法まで、十分な教育を受けさせてもらった。
ただし、自由はなかった。
聖女は十五歳になるまで神殿の保護下に置かれ、許可なく外へ出ることはできない。そして十五歳になれば洗礼を受け、正式な聖女として認められる。
ただでさえ外へ出られないのに、正式な聖女になったらどうなるのだろう。きっと一生、神殿で祈り、病人や怪我人を癒して暮らすことになるのだと、ミアはずっとそう思っていた。
『あと少しの辛抱ですよ。洗礼が済めば、好きなところへ行けますから』
老神官は確かにそう言っていた。
海を見たいと話したときも、洗礼のあとに行けばいいと笑っていた。ミアは、それを最後の思い出くらいは作らせてもらえるという意味だと解釈した。
海だけではない。森にも行きたいし、山にも登りたい。自分で働き、自分で食べるものを決め、自分の好きな場所で眠りたい。
ならば、洗礼を受ける前に逃げるしかない。
ミアは立ち上がり、服についた枯れ葉を払った。癒しの力もあれば、薬草の知識もある。火の起こし方だって本で読んだ。
「生きていくくらい、たぶんなんとかなります」
そうして、ミアの逃亡生活は始まった。
◇
一年後。
驚くほど、なんとかなっていた。
ミアは山の中腹にある古い炭焼き小屋に住みついていた。屋根は自分で直し、水は沢から汲み、食べられる山菜や茸の種類も覚えた。罠の作り方は麓の老人に教わった。
山暮らしは、思っていた以上に性に合っていた。朝起きて、その日の天気を見て、今日は何をしようかと決める。それだけで楽しい。
とはいえ、完全に一人で暮らしているわけではなかった。
ある朝、小屋の外から名前を呼ばれ、ミアが窓から覗くと、麓の村に住む老人が立っていた。
「昨日、うちの婆さんの腰を治してくれただろ。礼ってほどでもないが、これを持ってきたから食べてくれ」
そう言って、老人は麻袋を置いた。
「治したというほどではありませんよ。少し癒しただけですし、こんなにいただくほどのことではないんですが」
「こっちは余ってるから気にするな。婆さんも楽になったって喜んでるし、もらっといてくれ」
老人はそれだけ言うと、さっさと山を下りていった。
袋を開けると、中には芋が十個も入っていた。
「……多いですね」
そうは言いつつ、ありがたく食べることにした。
似たようなことはよくあった。
山道で転んだ子どもの膝を治した翌日には林檎が置かれ、斧で手を切った木こりを癒したら干し肉が届いた。熱を出した子どもを診たときは卵で、難産になった山羊を助けた翌朝には、なぜかチーズが置かれていた。
村人たちは、ミアが何者なのかをあまり気にしていないらしい。ミアも説明しなかったし、向こうも深く尋ねてこなかった。
村で顔を合わせれば、昨日置いた林檎は食べたかと聞かれ、いただいたと答えれば、それで話は終わる。
そのうち、直接渡そうとする者すら減った。山の入口に置いておけば、翌朝にはなくなっている。
村人にとってミアは、いつの間にか山に住みついた娘だった。たまに下りてきて、怪我人を見つければ治し、食べ物を置いておくと持っていく。
誰かが言い出したわけでもないのに、いつの間にかそういう扱いが定着していた。
◇
その男を拾ったのは、秋の終わりだった。
茸を探して山を歩いていたミアは、木の根元に人が倒れているのを見つけた。
近づいてみると、死んではいなかった。ただし、かなり死にかけていた。
脇腹から大量に血を流している。立派な剣を佩き、泥に汚れた外套の下には金属の胸当てが見えた。そして胸元に刻まれた紋章には、見覚えがあった。
王国騎士団。
「これは……関わらないほうがいいですね」
神殿とも繋がりのある組織だ。下手に助ければ、自分の居場所が知られるかもしれない。
ミアは踵を返したものの、数歩進んだところで足を止めた。振り返れば、男はぴくりとも動かない。
結局、戻った。
傷は深く、薬草でどうにかなる程度ではない。放っておけば確実に死ぬだろう。
「絶対に起きないでくださいね。治したら、私はすぐに消えますから」
もちろん返事はない。
ミアは男の脇腹に両手を当て、癒しの力を流し込んだ。淡い光が掌から溢れ、裂けた肉がゆっくりと繋がっていく。
これほど大きな傷を癒すのは久しぶりだった。額に汗が滲み、あと少しだと思ったところで、男の瞼が動いた。
青い瞳が開き、まっすぐミアを見る。
「あなたは……」
「起きないでくださいと言ったのに! 今見たことは全部忘れてください。傷はもう大丈夫だと思いますので、それではお大事に!」
「待ってくれ。せめて名前だけでも――」
最後まで聞かず、ミアは籠を引っ掴んで走った。
斜面を駆け上がり、茂みを抜け、獣道へ飛び込む。山暮らし一年の成果を舐めてもらっては困る。
◇
アルベルト・クラウゼは混乱していた。
魔獣との戦闘で深手を負ったところまでは覚えている。次に目を覚ましたとき、自分を覗き込んでいた少女がいた。
栗色の髪には枯れ葉が絡まり、頬には土がついていたが、驚くほど澄んだ瞳をしていた。目が合った瞬間、少女は叫び、恐ろしい速さで逃げていった。
夢だったのかとも思ったが、傷は完全に塞がっている。服には血が残っているのだから、あの少女が助けてくれたのは間違いない。
そして、もう一度会いたいと思った。
近くの村へたどり着き、宿を借りたアルベルトは、体が動くようになるとすぐに聞き込みを始めた。
「この辺りに、十六歳くらいの若い女性はいないだろうか。栗色の髪で、山に詳しそうな娘なんだが」
宿の主人は少し考える素振りを見せたあと、「それなら山の子じゃないか」と、ごく普通の調子で答えた。
「知っているのか。どこに住んでいる?」
「山には住んでるが、どこかまでは知らんな。名前はミアだったと思うぞ。家族や親類のことまでは知らないし、そもそもそんなに親しいわけでもない」
そう言いながら、主人は厨房へ向かって声をかけた。
「そういえば昨日のパン、あの子にやったか?」
「山の入口に置いておいたよ。朝にはなくなってたから、食べたんじゃないかね」
妻らしき女性の返事を聞いて、アルベルトは眉を寄せた。
「親しくないのに、食べ物を渡しているのか?」
「この前、娘の火傷を治してくれたからな。手を当てただけで綺麗に治ったし、礼くらいはするさ」
やはり夢ではなかった。
アルベルトが彼女に会う方法を尋ねると、近くで酒を飲んでいた老人が面白そうに笑った。
「会いたいなら、追っかけ回すのはやめときな。あの子は人に追われると、すぐ山の奥に逃げるぞ。食い物でも置いとけば、そのうち出てくる」
すると別の男まで会話に加わり、パンやチーズなら食べる、林檎もよくなくなるし、蜂蜜は特に早いと教えてくれた。人参は置いてもしばらく残っているので、あまり好きではないらしい。
アルベルトは、彼らの顔を順番に見た。
「……彼女は野生動物かなにかなのか?」
「似たようなもんだと思っとけば間違いない」
老人は肩をすくめた。
◇
翌朝、山の入口に見慣れない包みが置かれていた。
ミアは茂みの陰からしばらく観察したが、人の気配はない。近づいて中を見ると、パンとチーズ、それに紙が一枚添えてあった。
『先日は命を救っていただき、ありがとうございました。アルベルト・クラウゼ』
騎士の名だった。
「やっぱり、昨日の人じゃないですか」
ミアは包みを置いて、その場から離れた。
十分ほどして戻ってきた。
「食べ物に罪はありませんからね」
パンとチーズだけ回収した。
翌日には蜂蜜が置かれていたので、それもありがたく持ち帰った。さらに翌日、今度は『一度、お話しできないでしょうか』と書かれた紙が添えられていたため、ミアはしばらく悩んだ末、その裏に返事を書いた。
『できません。もう来ないでください』
これで諦めるだろうと思った。
ところが翌朝、山の入口には焼き菓子が置かれていた。
「……これは卑怯ですね」
神殿では甘いものが出る日が少なかったので、ミアは焼き菓子が好きだった。
周囲を見回す。
人の気配はない。
一つくらいならいいだろうと手を伸ばした瞬間、背後から声がした。
「ようやく会えた。驚かせるつもりはなかったんだが、普通に待っているだけでは君が出てこないから、こうするしかなくて」
ミアは勢いよく振り返った。
「罠じゃないですか! 神殿に連れ戻すつもりなら、話を聞く気はありませんからね」
「本当に神殿とは関係ない。ただ、少しでいいから話を聞いてほしいんだ」
「追いかけてくる人の言うことを信用するほど、私は素直ではありません!」
焼き菓子を掴んだまま、ミアは駆け出した。
アルベルトも慌てて追ってくる。
「待ってくれ。止まって話を聞いてくれれば、追わずに済むんだ!」
ミアは沢へ飛び込み、水を蹴散らして反対側へ渡ると、そのまま斜面を登った。
「そっちは道じゃないぞ!」
「知っています。だから行くんです!」
当然である。この山は、もうミアにとって庭のようなものだった。
◇
それからアルベルトは、たびたび山へ来るようになった。ミアは逃げ、アルベルトは追った。
村人たちは、その様子を遠巻きに眺めている。
「だから騎士様、追ったら逃げるって言っただろう。あの子はそういう生き物なんだから、もう少し気長にやったほうがいいぞ」
老人にそう言われても、アルベルトは人間を生き物扱いするのはどうなのだと言い返した。だが、話をしなければ何も始まらないというアルベルトに、老人は食べ物を置いて気長に待つのが一番だと譲らない。
「うちの婆さんだって、半年くらいしてからようやく家の前で話すようになったんだ。それくらいのつもりでいたほうがいい」
「半年もか……」
アルベルトは頭を抱えた。
実際、ミアはなかなか捕まらなかった。
木に登り、岩陰に隠れ、アルベルトが山へ入った隙に村へ下りて買い物を済ませ、別の道から帰る。
ところが、そんな生活を続けるうちに、少しだけ奇妙なことが起きた。
アルベルトが三日ほど来なかった。
追われないのだから、静かで快適なはずだった。
それなのにミアは、いつの間にか山の入口まで下りていた。
何も置かれていない。
「忙しいんでしょうか。別に、来なくても困りませんけどね」
翌日も見に行ったが、やはり何もない。
さらに翌日、パンと蜂蜜が置かれているのを見つけたとき、ミアは思わず「よかった」と呟いた。
口にしてから、自分でも不思議に思う。
「蜂蜜があってよかった、という意味ですよね。たぶん」
そういうことにして、瓶を抱えて小屋へ戻った。
◇
ついに話をすることになったのは、それから半月ほど経ったころだった。
山の入口にアルベルトが立っているのを見つけ、ミアが逃げようとすると、今日は追ってこなかった。
「ミア。少しだけ話を聞いてくれないか。最後まで聞いてくれたら、もう無理に追いかけることはしないと騎士の名に誓う」
そこまで言われ、ミアは迷った末、十歩ほど距離を取ったところで立ち止まった。
「その場所から話してください。それ以上近づいたら逃げます」
「わかった。まず、私は神殿から来たわけではないし、君を連れ戻す命令も受けていない。ただ、あの日に命を助けてもらった礼がしたかったし、もう一度会いたかったんだ」
ミアは首を傾げた。
「それだけのために、あんなに山を走り回っていたんですか?」
「それだけではない。君を好きになったからだ。最初は命を助けてもらったことへの感謝だと思っていたが、何度会っても、何度逃げられても、むしろ会いたい気持ちは強くなる一方だった」
ミアはしばらく瞬きをした。
「……私をですか。ずいぶん変わっていますね」
「自分でも最近そう思う」
アルベルトは苦笑した。
「だから、結婚を前提に私と付き合ってもらえないだろうか」
ミアはすぐに首を横に振った。
「それは困ります。私は神殿から逃げている身ですし、あなたまで巻き込むわけにはいきません」
すると、アルベルトの表情が変わった。
「待ってくれ。神殿から逃げているというのは、どういう意味だ?」
「私は聖女なんです。正確には、洗礼を受ける前に逃げましたから、正式な聖女ではありませんけれど」
そこまで言ってから、ミアは口元を押さえた。
「今のは忘れてください」
「それは無理だ。そもそも、どうして洗礼前に逃げたんだ?」
「洗礼を受けたら正式な聖女になってしまうでしょう。そうしたら、一生神殿から出られませんから」
アルベルトはすぐには答えなかった。
ミアには、その沈黙が妙に長く感じられた。
「……何か、おかしなことを言いましたか?」
「いや。洗礼を受ければ、むしろ自由になるはずだと思ってな。正式な聖女になれば成人として扱われるし、神殿に残るかどうかも本人が決められるはずだ」
あまりに当然のことのように言われて、ミアは意味を理解するまでに時間がかかった。
「でも、私は十五年間、神殿から出してもらえなかったんですよ。それなのに正式な聖女になった途端、自由になるなんておかしくありませんか?」
「洗礼前だからこそ、神殿の保護下に置かれていたんじゃないのか? 少なくとも、洗礼後も外へ出てはいけないと神殿の人間から言われたことはあるのか?」
問われて、ミアは記憶を辿った。
『あと少しの辛抱ですよ。洗礼が済めば、好きなところへ行けますから』
『海を見たいの? それなら洗礼のあとに行けばいいでしょう』
『街で働いてみたい? もちろん構いませんよ』
どれだけ記憶を探っても、外へ出てはいけないと言われたことは一度もなかった。それどころか、まるで逆の言葉ばかりが蘇ってくる。
「……好きなところへ行っていいとは、何度も言われていました。でも私は、最後に一度くらいは好きなところへ行かせてもらえるという意味だとばかり」
「それはずいぶん悲観的な解釈をしたな。おそらく神殿の人たちは、言葉どおりの意味で話していたんじゃないか?」
そんなはずはない、と言い返そうとして、ミアはやめた。
思い当たることが多すぎる。
その場にしゃがみ込んだミアを見て、アルベルトは気の毒そうに眉を下げた。
「とりあえず、一度神殿へ戻って確かめてみないか。もし私の勘違いだったら、そのときは逃げるのを手伝う」
「騎士様がそんなことを言っていいんですか?」
「君を一年も追い回したあとだ。今さらだろう」
それもそうかもしれない、とミアは思った。
◇
一週間後。
一年ぶりに帰った神殿で、ミアは大勢の神官たちに囲まれた。
叱られ、泣かれ、最後には何人もの神官から代わる代わる抱きしめられた。自分が思っていた以上に心配をかけていたらしい。
「だって、洗礼を受けたら一生ここで暮らすのだと思っていたんです。正式な聖女になると言われていましたし、洗礼までの辛抱だとも言われましたから」
事情を説明すると、老神官はしばらく言葉を失ったあと、額を押さえた。
「ミア。私たちが言っていたのは、文字どおり『洗礼まで』の辛抱です。洗礼を受ければ成人として扱われ、どこで暮らすかも本人が決められると、何度も説明したでしょう」
「好きなところへ行っていいというのも、最後に一度だけという意味ではなかったんですね……」
「なぜそんな意味になるのです。海でも山でも、好きなだけ行きなさいという意味ですよ」
ここまで明確に言われてしまえば、もはや返す言葉はなかった。
翌日、ミアは一年遅れの洗礼を受けた。
正式な聖女となった彼女に、老神官は神殿に残っても、街で働いても、結婚して家庭を持ってもいいのだと、今度こそ誤解の余地がないよう念入りに説明した。
「よくわかりました。それなら私は、山へ帰ります。畑もありますし、あの小屋も気に入っていますから」
迷いなく答えたミアの隣で、アルベルトが驚いたように彼女を見た。
「せっかく自由になったのに、本当に山へ戻るのか?」
「自由になったからこそですよ。好きなところに住んでいいのでしょう?」
アルベルトは何か言いかけたが、結局は笑った。
「それを言われると、何も言い返せないな」
老神官だけが深いため息をついた。昔から木に登っては叱られていた少女なのだから、考えてみればこれが一番ミアらしい選択なのかもしれない。
◇
山へ戻ると、村の老人はミアの顔を見るなり、いつもの調子で迎えた。
「お、帰ったか。神殿のほうはどうだった?」
「無事に洗礼を受けてきました。どうやら私は最初から、逃げる必要がなかったみたいです」
「そうか。まあ、元気ならなんでもいいさ。ちょうど芋が余ってるから、これも持っていけ」
老人は籠から芋を三つ取り出し、ミアに差し出した。
ミアは三つとも受け取った。
正式な聖女になったところで、村での扱いは何ひとつ変わらない。そのことが妙に嬉しかった。
アルベルトも相変わらず山へやって来た。
以前と違うのは、姿を見てもミアが木に登らなくなったことくらいだ。
「これからも会いに来ていいだろうか。ただ、毎日来ると嫌がられそうだから、そのあたりは君の希望に合わせるつもりだ」
「毎日は困りますね。山の中とはいえ私にも予定がありますから、週に一度くらいなら歓迎しますよ」
「週に一度か。もう少し増やせないだろうか」
アルベルトは真剣な顔で交渉を始め、最終的に決まったのは四日に一度だった。
なぜ週に一度と四日に一度の間が四日なのか、ミアには最後までわからなかった。
そしてアルベルトは、約束した四日すら待たず三日後にやって来た。
◇
そんな日々がしばらく続いたころ、アルベルトが五日経っても姿を見せないことがあった。
ミアは山菜を採りに行くついでに山の入口まで下りた。
何も置かれていない。
以前なら静かでいいと思ったはずなのに、今は少しだけ物足りない。
「焼き菓子がないからでしょうか」
口に出してみたが、どうもしっくりこなかった。
翌朝、村へ下りると、例の老人がアルベルトは仕事で王都へ行き、三日ほど戻れないらしいと教えてくれた。
「そうだったんですね。それなら仕方ありません。何かあったわけではないなら安心しました」
そう答えたミアを見て、老人はにやりと笑った。
「ずいぶん懐いたもんだな」
「誰が何にですか?」
「なんでもねえよ」
意味はわからなかったが、老人は教えてくれそうになかった。
三日後、山菜を採っているミアのもとへ、見慣れた騎士が大きな包みを抱えてやって来た。
「王都で評判の焼き菓子を買ってきたんだ。君が好きそうなものを選んでもらったから、よかったら食べてくれ」
「アルベルト様、お帰りなさい。それに焼き菓子までありがとうございます。ちょうど、いつ戻ってくるのかと思っていたところだったんです」
アルベルトの顔がぱっと明るくなった。
「私が戻るのを待っていてくれたのか?」
「焼き菓子がそろそろ食べたいと思っていたので」
明るくなった顔が少しだけ曇った。
その様子を見ていた老人が笑いを堪えながら、アルベルトの肩を叩いた。
「まあ、前よりはずっと懐いてるじゃないか。野良は急ぐとまた逃げるから、気長にやることだな」
「それは身に染みてわかっている。今度こそ焦らずにいくつもりだ」
二人が何やら真剣に話している横で、ミアは包みを開けた。
「ところで、何の話をしているんですか?」
「君はまだ知らなくていい」
アルベルトにそう言われ、ミアは首を傾げた。
けれど、焼き菓子から甘い香りが漂ってきたので、すぐにどうでもよくなった。
自由になった彼女が選んだのは、神殿でも街でもなく、結局いつもの山だった。
怪我人を見つければ癒し、ときどき村へ下り、食べ物をもらって暮らしている。
正式な聖女になっても、野良聖女は今日も元気である。




