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モルヒネの罪と救済

彼女の庭には花々が咲き誇っている。

柔らかな陽光が庭全体に満ちてまぶしくて、

新しい生命と花と、水の匂いがした。


そして、春を楽しむ屋敷の人々。


本当は温かな春を、彼女に見せてやりたかった。

本当なら彼女のそばにいるべきは俺でなく、家族や友人たちのはずだ。


今の彼女が見ているのは、春の夢。

苦痛と引き換えに現実から遠ざかる、俺が見せている幻の世界。

俺は貴女を、現実にとどめてあげられない。



その館には春が来ない。そういったのは誰だったか。


本当は違う。

春は来るし、彼女が好きだった薔薇も咲く。

窓辺には柔らかな陽光も差し込む。


ただ、この部屋だけが季節から取り残されていた。


咳の音がして、細い肩が震えていた。

その白い指がシーツを握る。

せき込む彼女を薬効で抑えてあげたら、彼女は微笑んでくれた。


モルヒネはベッドの傍らに立っていた。

まるで彼女に付き従う従順な執事のように。


「…今日は苦しそうですね」

モルヒネが声をかけると令嬢は小さく笑った。


「そうでしょうか」


「そうです」


「モルヒネには隠せませんね」


モルヒネ。

そう呼ばれるたび、彼は少しだけ安心する。

俺のことは、彼女は幻にしていない。俺と分かって、微笑んでくれる。

モルヒネはそっと息を吐いた。



代々、死にゆく者の痛みを引き受ける一族がいた。

人々は彼らをモルヒナンの一族と呼んだ。



「手を」


令嬢は素直に差し出した。

骨ばってはいたけれど、綺麗な女性の指だった。

それは、かつては舞踏会を夢見ていた手。


モルヒネが彼女に触れると、触れた箇所から淡い光が滲んで、彼女の身体を包んでいった。


苦痛が薄れていく。

呼吸が落ち着いていく。


令嬢は安堵したように目を閉じる。

そして、微睡の中、モルヒネを見て微笑んだ。



「あなたが来ると痛くないのです」

彼女の微笑はお日様だった。

その言葉は春の光のようにモルヒネを温かく照らした。


そして同時に、胸の内に鈍い痛みをもたらす。


俺は貴女から現実を奪っている。

家族との時間をーー本当に愛する人との時間を。


俺が取り除けるのはその場しのぎの苦痛。

決して貴女の病気ではないというのに。



本当の現実と引き換えに、痛みのない幻を見せる行為。

それを救済と呼ぶには、業と罪に塗れている。



「モルヒネ」

令嬢が彼の名を呼んだ。まだ眠りに落ちていなかったらしい。


「なんでしょう」

「もし私が健康だったら」


彼女は窓の外を見た。

どこまで見えているか定かではなかったが、遠い春の庭を見ていた。


「あなたと出会わなかったのでしょうね」

モルヒネは答えなかった。


⸻健康な令嬢にモルヒネは必要ない。

痛みのない人生に彼は存在しない。


彼は人の幸福の中ではなく、苦しみの中でだけ呼ばれる存在。

平時ならば人々からは終わりの薬と畏怖される。



⸻健やかなあなたは、俺のことなど愛さない。

俺はあなたが辛い時にしか、そばにいてあげられない。


令嬢は微笑んでいる。

「それでも、私はあなたに救われているわ」

⸻あなたが必要よ。



彼女はモルヒネだけを見ていた。


母親の声は届かない。

侍女の涙も見えていない。

彼女はただモルヒネだけをその眸に写した。


⸻麻薬のような幸福だった。

そして、それを嬉しいと思ってしまった己の浅ましさには吐き気がした。



窓越しに春の陽射しは届いたのだろう。

穏やかな顔で彼女はシーツに沈んでいく。

俺の声は、今はもう聞こえていない。


モルヒネは知っていた。

この春を、彼女は多分越えられない。





俺は、ふつうの痛み止めにはなれなかった。

健やかな人の生活に寄り添える薬ではない。


ーー春の匂いを、生きる苦しみを、死ぬ覚悟を、

俺は少しずつ奪っていく。そんなものは、果たして愛と呼べるのだろうか。



混濁の中で俺を求めた令嬢は微笑んでいた。



(なあ、あんたは幸せに生きられたのか)



そう問うことはできなかった。

そしてその答えを知るものはもう何処にもいない。


春の花びらが風に揺られて空へ昇ってゆく。

彼女の微笑みのような春の光が眩しかった。

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