モルヒネの罪と救済
彼女の庭には花々が咲き誇っている。
柔らかな陽光が庭全体に満ちてまぶしくて、
新しい生命と花と、水の匂いがした。
そして、春を楽しむ屋敷の人々。
本当は温かな春を、彼女に見せてやりたかった。
本当なら彼女のそばにいるべきは俺でなく、家族や友人たちのはずだ。
今の彼女が見ているのは、春の夢。
苦痛と引き換えに現実から遠ざかる、俺が見せている幻の世界。
俺は貴女を、現実にとどめてあげられない。
*
その館には春が来ない。そういったのは誰だったか。
本当は違う。
春は来るし、彼女が好きだった薔薇も咲く。
窓辺には柔らかな陽光も差し込む。
ただ、この部屋だけが季節から取り残されていた。
咳の音がして、細い肩が震えていた。
その白い指がシーツを握る。
せき込む彼女を薬効で抑えてあげたら、彼女は微笑んでくれた。
モルヒネはベッドの傍らに立っていた。
まるで彼女に付き従う従順な執事のように。
「…今日は苦しそうですね」
モルヒネが声をかけると令嬢は小さく笑った。
「そうでしょうか」
「そうです」
「モルヒネには隠せませんね」
モルヒネ。
そう呼ばれるたび、彼は少しだけ安心する。
俺のことは、彼女は幻にしていない。俺と分かって、微笑んでくれる。
モルヒネはそっと息を吐いた。
代々、死にゆく者の痛みを引き受ける一族がいた。
人々は彼らをモルヒナンの一族と呼んだ。
「手を」
令嬢は素直に差し出した。
骨ばってはいたけれど、綺麗な女性の指だった。
それは、かつては舞踏会を夢見ていた手。
モルヒネが彼女に触れると、触れた箇所から淡い光が滲んで、彼女の身体を包んでいった。
苦痛が薄れていく。
呼吸が落ち着いていく。
令嬢は安堵したように目を閉じる。
そして、微睡の中、モルヒネを見て微笑んだ。
「あなたが来ると痛くないのです」
彼女の微笑はお日様だった。
その言葉は春の光のようにモルヒネを温かく照らした。
そして同時に、胸の内に鈍い痛みをもたらす。
俺は貴女から現実を奪っている。
家族との時間をーー本当に愛する人との時間を。
俺が取り除けるのはその場しのぎの苦痛。
決して貴女の病気ではないというのに。
本当の現実と引き換えに、痛みのない幻を見せる行為。
それを救済と呼ぶには、業と罪に塗れている。
「モルヒネ」
令嬢が彼の名を呼んだ。まだ眠りに落ちていなかったらしい。
「なんでしょう」
「もし私が健康だったら」
彼女は窓の外を見た。
どこまで見えているか定かではなかったが、遠い春の庭を見ていた。
「あなたと出会わなかったのでしょうね」
モルヒネは答えなかった。
⸻健康な令嬢にモルヒネは必要ない。
痛みのない人生に彼は存在しない。
彼は人の幸福の中ではなく、苦しみの中でだけ呼ばれる存在。
平時ならば人々からは終わりの薬と畏怖される。
⸻健やかなあなたは、俺のことなど愛さない。
俺はあなたが辛い時にしか、そばにいてあげられない。
令嬢は微笑んでいる。
「それでも、私はあなたに救われているわ」
⸻あなたが必要よ。
彼女はモルヒネだけを見ていた。
母親の声は届かない。
侍女の涙も見えていない。
彼女はただモルヒネだけをその眸に写した。
⸻麻薬のような幸福だった。
そして、それを嬉しいと思ってしまった己の浅ましさには吐き気がした。
窓越しに春の陽射しは届いたのだろう。
穏やかな顔で彼女はシーツに沈んでいく。
俺の声は、今はもう聞こえていない。
モルヒネは知っていた。
この春を、彼女は多分越えられない。
*
俺は、ふつうの痛み止めにはなれなかった。
健やかな人の生活に寄り添える薬ではない。
ーー春の匂いを、生きる苦しみを、死ぬ覚悟を、
俺は少しずつ奪っていく。そんなものは、果たして愛と呼べるのだろうか。
混濁の中で俺を求めた令嬢は微笑んでいた。
(なあ、あんたは幸せに生きられたのか)
そう問うことはできなかった。
そしてその答えを知るものはもう何処にもいない。
春の花びらが風に揺られて空へ昇ってゆく。
彼女の微笑みのような春の光が眩しかった。




