第6話 試されるリゼ
王宮の大広間は、光と音に満ちていた。
婚約披露の舞踏会には、王族をはじめ、上位貴族や外交使節までが列席し、リゼとセランの婚約を祝う言葉が飛び交っていた。
リゼはライラックのドレスに金の刺繍を纏い、首元にはセランの瞳を映すエメラルドブルーのネックレス。紫の瞳が静かに輝き、彼の隣で微笑む。
セランはグレーシルバーの礼服に身を包み、喉元にはリゼの瞳の色を映したバイオレットのクラバット。彼女を見つめる瞳は穏やかだ。
たくさんの祝福に包まれ、ファーストダンスを終えたふたりの間には、静かな余韻が漂っていた。
「セラン殿下」
銀糸の刺繍が施された黒の礼服姿のユリウスが静かに頭を下げた。セランがリゼの隣から一歩前に出る。
「どうした、ユリウス」
「国王陛下がお呼びです」
セランは、眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「わかった。リゼ、少し席を外す。すぐ戻るよ」
リゼは、静かに微笑んで頷いた。
「はい。いってらっしゃいませ」
リゼが一人になる――
その瞬間を、待ち構えていた者たちが動き出した。
「まあ、アルトリーナ嬢。王子殿下がお席を外された途端、少し寂しそうですね」
「おひとりで王宮の格式に耐えるのは、大変でしょう?」
声をかけてきたのは、エレノア・バルデン侯爵令嬢、レイナ・ウェルシア伯爵令嬢やその他の令嬢たち。笑顔の奥に、冷たい探りと嫉妬が滲んでいた。
リゼは先ほどの祝福の挨拶を居並ぶ貴族から受けていたので、顔と名前はわかっていた。
「殿下がいらっしゃると、場の空気もずいぶん華やぎますものね。お隣にいらっしゃらないと、少し物足りなく感じてしまいますわ」
「アルトリーナ嬢のドレス、とても可愛らしいですわね。殿下のお好みかしら? 少し控えめな印象も、逆に新鮮ですわ」
言葉の端々に、柔らかな棘が潜んでいる。リゼは微笑みを保ったまま、扇をそっと持ち直した。
レイナは、涼やかな笑みを浮かべながら言った。
「先ほどのご挨拶、とても親しみやすくて……庶民の方々にも好かれそうですわね。ですが、ご婚約者としてのご振る舞い、皆さま注目していらっしゃいますのよ。些細な所作も、王宮ではすぐに噂になりますから……お気をつけになって」
周囲の令嬢たちが、意味ありげに視線を交わす。
まるで獲物の反応を待つかのように。
リゼは、微笑みを崩さず、静かに答えた。
「ご忠告、ありがとうございます。どなたにも心地よく感じていただけるよう、心を込めてお話させていただきました」
その声は穏やかで、けれど揺るぎなかった。令嬢たちの笑みが、ほんの一瞬硬くなるが、すぐに次の言葉が投げかけられた。
「王家の婚約者ともなると、舞踏の作法も完璧でなければなりませんわ。今夜は少し、自由な解釈が入っていたようにお見受けしましたけれど」
リゼはダンスの最中、緊張のあまり一度だけステップを踏み外していた。
セランがすぐに手を添えて流れを整えたが、令嬢たちは、そのスキを見逃さず、冷ややかに指摘してきたのだった。
「ご配慮いただき、ありがとうございます。ダンスの作法は未熟でございますが……殿下が『楽しかった』と仰ってくださったので、そのお気持ちに寄り添いたくて、今夜は甘えてしまいましたわ」
リゼは微笑みを保ったまま答える。
その瞬間、令嬢たちの表情がわずかに引きつる。
すると、エレノアが扇を口元に添えながら、優雅に微笑む。
「子爵家のご令嬢が王子殿下のご婚約者になるなんて……本当に、時代は変わりましたのね。今では血筋よりも、お人柄が重視されるようになったのでしょうか?」
その言葉は、まるで時代を讃えるようでいて、確かにリゼの出自をなぞっていた。周囲の令嬢たちが、扇の奥で目を細める。
「ええ、時代の流れとともに価値観も変わってきているようですわね。まだまだ未熟ではございますが、皆さまに恥じぬよう努めてまいります」
リゼは、微笑みを崩さず答えると、エレノアへと視線を向けた。
「それはそうと、今季のバルデン侯爵領では、寒気長期滞留に伴う寒害が顕著となり、北部穀作地帯において出穂期の凍霜被害により収穫量が減衰したと伺いました。ご心中、お察しいたします」
何人かの令嬢は、リゼの言葉の意味を測りかねて、互いに視線を交わした。けれど、エレノアだけはその意味を、痛いほど理解していた。
「そのような状況下で、こうしてお祝いに駆けつけてくださったこと、ご家族のご誠意と令嬢のお心遣いに、心より感謝申し上げます」
エレノアは、言葉を失ったまま、リゼを見つめていた。
次にリゼはレイナのドレスに目を留めた。
「ウェルシア様――今夜のドレス、とても美しいですわ。光の加減で色が揺らめいて、深みがありますね」
レイナは誇らしげに微笑む。
「ええ、最新の重ね染めの技法を使っているの。グランディアの工房で特別に仕立ててもらったのよ」
グランディアはウェルシア伯爵領に属する工業都市で、織物と染色の技術に優れている。近年は他国の技法も取り入れ、色彩表現にさらなる深みを加えていた。
リゼは穏やかに頷きながら言葉を添える。
「とても魅力的ですわね。でも、染料の組成によっては、経時変化で色調に微妙な揺らぎが生じることがあると伺いました。
先日、貴族文化財団が発表された技術報告の中で拝見したのですが――定着剤の配合比を調整することで、発色の安定性が格段に向上するそうですの。
……ご覧になりました?」
レイナは一瞬目を見開き、扇を持つ手がわずかに揺れた。
「……それは存じませんでしたわ。貴重なご助言をありがとうございます。工房の方にも、念のため確認してみようと思いますわ」
その声色は穏やかだったが、扇の奥で唇がきゅっと結ばれる。
「……見事な演出ね、リゼ・アルトリーナ子爵令嬢」
その声は、絹のように滑らかだった。だが、リゼには、その絹の下に潜む刃がはっきりと感じられた。
リゼは微笑を崩さず、静かに一礼した。
「ありがとうございます、ヴァルシュタイン様。ご期待に添えたなら、光栄です」
クラリスは唇に微笑みを浮かべたまま、言葉を重ねる。
「ええ、まるで、王家の舞台裏まで計算しているような手際の良さ。……よほど、よくお勉強されているのね」
リゼの微笑が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
クラリスはその揺らぎを見逃さなかった。
「あなたの控えめな振る舞いは、まるで計算された謙虚さ。謙虚さを装うのも、才能のうちですものね」
周囲の貴族たちが、息を呑む。クラリスの言葉は、称賛にも聞こえる。けれど、その刃は鋭く、冷たい。
「少し、個人的に話がしたいの。ここは、空気が騒がしいわ。着いて来てくださるかしら?」
リゼはすぐに頷いた。
「承知いたしました」
クラリスは何も言わずに踵を返す。
リゼはその後を、静かに歩き出した。
二人が扉の向こうへ消えると、残された者たちは、息を詰めたまま、互いの顔を見合わせた。
「クラリス様がアルトリーナ嬢と二人で何を話すつもりかしら?」
「クラリス様って、第2王子殿下の筆頭婚約者候補だったわよね……」
「でも、いざ発表を聞いたら、選ばれたのは子爵令嬢だったなんて――」
「異議を唱えるつもりなのかしら」
「もし本気で動いたら、アルトリーナ嬢なんてすぐに――」
ささやきが、不穏なざわめきに変化したとき、入れ違うようにセランが会場に戻ってきた。
扉をくぐった瞬間、彼の視線は自然とリゼを探す。
だが――その姿は、どこにもなかった。
「……リゼは?」
周囲の貴族たちが、わずかにざわめく。
誰かが、気まずそうに答えた。
「先ほど、クラリス様が……アルトリーナ令嬢に話があると一緒に会場を出られました」
その言葉に、セランの表情が一瞬で変わった。
「クラリスが……リゼを連れて?」
彼は知っている。
クラリスが、長年自分に想いを寄せていたことを。
王家の婚約者として、何度も名乗りを上げていたことを。
それでも――セランは、クラリスに何も言わず、リゼを婚約者に選んだのだった。
「……まずい」
セランは、思わず口の中で呟いた。
その言葉に、ユリウスが眉をひそめる。
「殿下、どうなさいますか?」
「リゼを探す。すぐにだ。クラリスの話が、ただの挨拶で済むとは思えない」
セランは、クラリスがよく使う控え室へと足を向けた。




