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第5話 とんとん拍子に

食事を終えた食卓には、湯気の立つ茶器が並んでいた。窓の外は夕闇に染まりはじめ、部屋の中には静かな影が落ちていた。リゼはその静けさの中で、ゆっくりと口を開いた。


「お父様……婚約の件、お受けしようと思います」


カップを持っていた父の手が、ぴたりと止まった。

薬草茶の香りが静かに漂う中、一瞬、食卓に沈黙が落ちる。


「……婚約を受けると?」


リゼは、まっすぐ父の目を見て頷いた。

「はい。セラン殿下と婚約したいです。私自身の気持ちが、ようやく定まりました」


父は驚きの表情を浮かべながらも、しばらく黙っていた。そして、深く息を吐いてから、静かに言った。

「リゼがいいなら、それでいい。ただ、王家というのは、いろいろと覚悟がいるぞ」


「……ええ。でも、心を決めました。殿下は私自身を見てくれました。だから、努力したいと思います」


父は、娘のその言葉に、目を細めて頷いた。

「……そうか。なら、父としては、応援するしかないな。リゼ、お前は昔から、決めたら迷わない子だった」



リゼはカップに手を添えたまま、しばらく黙っていた。

その指先に、ほんの少し力がこもっている。


リゼは、少し俯きながら言った。

「ただ……この子爵家は、子供が私ひとりで。家を継ぐことができなくて……申し訳ありません」


父は、しばらく黙っていた。

そして、ふっと笑う。

「なに、うちは領地があるわけでもないし、なんとかなるわい。そんなことは気にしなくていい。お前が幸せなら、それで十分だ」


リゼは、目を伏せたまま、そっと唇を噛んだ。

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……ありがとう、お父様」

父は、カップを口に運びながら、ぽつりと続けた。

「家なんてな、継ぐもんじゃなく、想いを守るもんだ。お前がこの家を忘れなければ、それでいい」



――――――――――――――

セラン・ルーク・フォン・フェルミルナ王子殿下


婚約の件につきまして、謹んでお受けさせていただきます。

未熟な身ではございますが、誠意をもって努めてまいります。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


リゼ・アルトリーナ

――――――――――――――



「返事が来た!“謹んでお受けさせていただきます”って書いてある!ユリウス、見て!これ、見て!」

セランは執務室で書状を両手で掲げ、まるで宝物のように振り回していた。机の上の書類は散らかり、紅茶のカップが危うく揺れる。


ユリウスは、書状の端が折れそうなのを横目で見ながら、静かに言った。

「殿下、紙が折れます。紅茶がこぼれます。それと……ご自身で仕掛けたはずの策でしたが、どうやら逆に落とされたようですね」


セランは一瞬動きを止めたが、すぐに顔を赤くして書状を胸に抱きしめた。

「……いいんだよ!結果オーライだ!」

ユリウスは、ため息をついて、そっと書類を整え始めた。


リゼが婚約の返事を出してからというもの、すべてが驚くほど滑らかに進んだ。王家からの正式な承認、婚約披露の儀の準備、礼儀作法、王子妃としての教養指導――


リゼにとって、目まぐるしい変化の連続だった。

けれど、その間にも、セランとの逢瀬は何度も重ねられた。


王宮の図書室で、ふたりきりで古文書を読み解いた午後。庭園の小径を歩きながら、季節の花の話をした夕暮れ。時には、セランの執務の合間に、ほんの数分だけ顔を合わせるだけの日もあった。そんな時間の積み重ねが、ふたりの距離をどんどん縮めていった。


ある雨の日の回廊で……

それは、ふたりで王宮の外にある古書の展示会へ出かけた帰り道だった。空は曇りがちで、風に湿り気が混じっていた。

「今日は、楽しかったね」

セランが言うと、リゼは頷いた。

「ええ。あのレシピ本、セラン様が買うとは思いませんでした」


セランは、少し得意げに笑った。

「意外だった?でも、料理って薬草の調合に似てるだろう?分量と火加減と、ちょっとした工夫で味が変わる。面白いよ。今度、僕の料理を食べさせてあげるよ」


セランがさらりと言ったあと、ふと笑みを深める。

「その代わり――リゼの“冷静な否定シリーズ”、また聞かせてね」


リゼは一瞬きょとんとして、それから呆れたように笑った。

「シリーズ扱いされてるんですか、それ」

「うん。僕の中ではもう第5巻くらいまで出てる」


「……しつこいです…」


セランは目を細めて、満足げに頷いた。

「それ、それ。第6巻、いただきました」


ふたりは目を合わせて、ぷっと笑い合った。


その瞬間、空がふいに泣き出した。ぽつり、ぽつりと落ちていた雨粒が、あっという間に本降りに変わる。


「こっちへ」

セランがリゼの手を取って、回廊の屋根の下へと駆け込んだ。石畳に雨が打ちつける音が、ふたりの間の沈黙を包み込む。濡れた髪を指で払うリゼに、セランがそっとマントで包んだ。


「……ありがとう、セラン様」

その名を呼んだ瞬間、ふたりの視線が重なった。

雨音の向こうで、世界が静かになる。

「リゼ」

セランが、距離を詰める。

そっとリゼの頬に手を添えた。

雨音の中、ふたりの距離が、静かにゼロになった。





そして今日。

王宮の応接間で、王家との家族顔合わせが行われる日を迎えた。

リゼは、深い青のドレスに身を包み、父と並んで王宮の大理石の廊下を歩いていた。

「緊張しているか?」と父が小声で尋ねる。

リゼは、少しだけ笑って首を振った。

「……少し。でも、覚悟はできてるわ」


扉が静かに開くと、そこにはセラン、国王陛下、王妃陛下、第1王子殿下とその妃エリザベス妃殿下の姿があった。

応接間に入り、エルマーは深く一礼し、リゼは丁寧に深くカーテシーをした。


「アルトリーナ子爵、リゼ嬢。ようこそ王宮へ」

王妃が柔らかな声で迎えると、リゼはそのままの姿勢で言葉を述べた。


「このたびは、温かくお迎えいただきありがとうございます。セラン殿下との婚約を、心より光栄に思っております」


「こちらこそ、受けてくださってありがとう。とてもうれしいわ。さあ、お顔をお上げになって」

その言葉に、リゼはそっと顔を上げた。王妃の微笑みが、緊張をやわらげてくれた。


国王は厳かなまなざしでエルマーとリゼを見つめ、ゆっくりと頷いた。

「アルトリーナ家は、誠実さと知性を兼ね備えた家柄と聞いている。セランが選んだ相手ならば、我らも信頼し、心から歓迎しよう」


エルマーはもう一度、深く頭を下げた。

「陛下のご信頼に、心より感謝申し上げます。

娘リゼが王家の一員としてふさわしい者となれるよう、家族としても支えてまいります」


その隣で、第1王子レオが静かに微笑んだ。

「セランを選んでくれて、ありがとう。あいつは真っすぐすぎるところがあるから、どうか、支えてやってほしい」


エリザベス妃も、優雅に微笑みながら言葉を添えた。

「リゼさん、どうか肩の力を抜いてくださいね。王家は格式もありますが、家族としての温かさもありますからね」


「皆さま、ありがとうございます…」

リゼは、全員の言葉が優しくて胸がじんと熱くなった。

エルマーは、緊張した面持ちで一歩前に出ると、言葉を絞り出すように口を開いた。

「リゼは、私の誇りでございます。どうか……よろしくお願い申し上げます」

その声には、父としての誠実さと、娘への深い想いが込められていた。


セランは一歩前に出ると、エルマーに向かって深く頭を下げた。

「アルトリーナ子爵。リゼさんを、必ず大切にいたします。どうか、安心して見守っていてください」

そしてリゼの隣に立ち、そっと彼女の手を取った。

「これから、共に歩んでいこう。僕の家族と、君の家族がひとつになる日を、ずっと待ち望んでいたんだ」

その言葉に、リゼは静かに微笑んだ。

王宮の応接間には、格式とともに、確かな温もりが満ちていた。


食事会は終始、和やかな空気に包まれていた。

国王の重厚な言葉に父が丁寧に応じ、王妃とエリザベス妃の優しい気遣いが場を和ませる。第一王子の穏やかな笑みも、リゼの緊張を少しずつほどいてくれた。


料理は季節の素材を生かした品々で、どれも繊細な味わいだった。リゼは、王宮の格式に気圧されることなく、丁寧に言葉を選びながら会話を重ねた。


そして、食後の茶が終わる頃――


王妃が「少し庭でも歩いてきたら?」と微笑み、リゼとセランは自然な流れで席を立った。

王宮の回廊は、夜の静けさに包まれていた。窓の外には、月光に照らされた庭園が広がり、風が薔薇の香りを運んでくる。ふたりは並んで歩きながら、しばらく言葉を交わさなかった。

その沈黙は、気まずさではなく、心地よい余白だった。


「……思ったより、緊張してなかったね」

セランが、横を歩きながらふっと笑う。


リゼは、思わず立ち止まり、彼を見上げた。

「まさか。がちがちでしたよ、私」

その声には、少しだけ拗ねたような響きが混じっていた。


「王妃殿下が微笑んでくださった瞬間、心臓が跳ねましたし、国王陛下が話しかけてくださったときなんて、言葉を噛まないようにするのに必死だったんですから」


セランは驚いたように目を丸くし、それから笑みを深めた。

「そうだったんだ。全然そんなふうに見えなかったよ。君はずっと、落ち着いていて、堂々としてたよ」

リゼは、恥ずかしそうに微笑んだ。


「そういえば、聞いたことなかったけど……君が婚約を決めた理由、聞いてもいい?」

セランは神妙な顔をして、言葉を継いだ。

「君から婚約承諾の手紙をもらったとき、正直驚いたんだ。

まだ無理かなって思ってたから。でも、嬉しくて……気づけば、話を進めてしまった」


リゼは、しばらく思案した後、口元に笑みを浮かべて答えた。

「薬草園で、セラン様が"ぜいたくだろ?"って言ったときの、あの顔です」

「……え?」

セランは目を見開いた。


「すごいどや顔でした。……あの顔をみて、心が決まりました」

リゼは、楽し気な表情を浮かべている。

「……それが、決め手?」

セランは思わず聞き返してしまった。


リゼはふと笑みを消して、真顔で言った。

「ええ。あの顔ですね。あのときです」


セランは言葉を失い、それから吹き出した。

「……君にはかなわないや」

リゼは何も言わず、ただ肩をすくめて笑った。

ふたりの笑いが、月光に照らされた庭園に静かに溶けていく。

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