第2話 断るつもりだったのに
午後の光が、窓辺のリゼを淡く包んでいた。
リゼは薄いラベンダー色のドレスを着ていた。
デビュタントで着用したドレスをアルトリーナ家唯一の侍女マリアが刺繡を施し、1週間で仕立て直してくれたドレスだ。
彼女の肌にやさしく馴染み、裾に散らされたエルダーフラワーの刺繍が、風に揺れるように静かに咲いている。
髪はゆるく束ね、顔まわりに、ほんの少し後れ毛を残して。メイクはほとんど施されていない。
その控えめな装いが、かえって彼女の気高さを際立たせていた。
何とか間に合ったわね…
我が家には余分なドレスなどない。だが、王城へ出向くにはそれなりの恰好をしなければならない。マリアの機転のおかげだわ。
フェルミルナ王国では、18歳になると王城の舞踏会でデビュタントを迎え、王族に正式な挨拶をする慣習がある。リゼも一昨年、その場に立った。
けれど――セラン殿下の姿は、そこにはなかった。
彼はリゼの1つ年上。すでに成人していたが、あの夜、王城には現れなかった。
やはり、面識はないのだと、改めて思い返す。
「リゼお嬢様、迎えの馬車が到着しました」
マリアの声に、リゼははっと意識をもどし、大きく深呼吸をした。
外に出ると、漆黒の車体に銀の装飾が施され、扉には王家の紋章が浮かび上がった豪華な馬車が目に入った。車輪の縁まで彫金が施されていて、まるで動く宝石のようだった。その豪奢さに、息を呑む。
御者が無言で一礼し、手を差し出す。
リゼは戸惑いながらも、その手を取った。
足元に敷かれた絹のステップを踏み、馬車の中へと乗り込む。
中は、さらに豪華だった。
壁には淡い金糸の刺繍が施され、天井には小さなクリスタルのランプが揺れている。座席は深い葡萄色のベルベットで、触れた指先が沈み込むほど柔らかい。
リゼは、おそるおそる腰を下ろした。
「……場違いだわ。もう、帰りたい……」
けれど、馬車はすでに動き出していた。
窓の外に広がる街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
「なんとしても、お断りしなきゃ!」
その言葉は、誰にも聞かれぬよう、心の奥に静かに沈んだ。
しばらくして、馬車が王城の前庭に到着した。
御者の手を取って降り立つと、先週王子に付き添っていた側近が待っていた。深い青の制服に身を包み、礼儀正しく一礼する。
「アルトリーナ子爵令嬢、ようこそ王城へ。
セラン王子殿下付きの、ユリウス・グレイヴと申します。本日、殿下のご命令によりご案内を務めさせていただきます」
彼は姿勢を正し、淡々と話した。
リゼは丁寧にカーテシーをし、
「よろしくお願いいたします」と返した。
ユリウスはリゼを先導しながら続ける。
「先週の件につきましては、殿下が少々……ご無礼を。ご不快な思いをおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」
「困惑はしましたが、本日はお約束しましたので、きちんとお話しなければと思い参りました」
リゼが言うと、ユリウスは一瞬目を細めたが、すぐに表情を整えた。
「ありがとうございます。殿下は中庭にてお待ちです」
磨き上げられた石畳の回廊は、歩くたびに靴音が澄んだ音を響かせる。葡萄と月桂樹の彫刻のアーチをくぐると、そこには別世界が広がっていた。
広大な庭園の中央には、白大理石の柱に支えられたガゼボが設けられていた。屋根は緩やかなドーム型で、縁には蔦を模した繊細なアーチ彫刻が巡らされている。ガゼボ内には象牙色のテーブルと椅子が並び、ティーセットは純銀製。カップの縁には王家の紋章が繊細に刻まれていた。
庭には四季折々の花々が咲き誇り、ラベンダー、白薔薇、ブルーデイジーが色とりどりに並ぶ。噴水の水音が静かに響いている。
リゼは、思わず息を呑んだ。その豪奢さに、また場違いという言葉がよぎる。けれど、足を止めることなく、ゆっくりと歩を進めた。
ユリウスは、椅子の脇で立ち止まり、静かに言った。
「殿下、アルトリーナ子爵令嬢をお連れいたしました」
淡い金糸が織り込まれたロイヤルブルーの上衣は、陽光を受けて静かに輝き、肩には銀の紋章が品よくあしらわれている。胸元には、王家の象徴である蒼玉のブローチがひときわ目を引いた。
王子は、椅子から立ち上がり、リゼを見て一瞬止まった。
「アルトリーナ嬢、ようこそ、王宮へ。…とてもきれいだ。まるで、季節が君に合わせて咲いたみたいだ」
王子の声が風に溶けるように響いた。
リゼは緊張しながらもラベンダー色のドレスの裾を両手でそっと持ち上げ、背筋を伸ばしたまま、左足を後ろに引いて膝を軽く折り、丁寧に挨拶をした。
「王子殿下。このような機会を頂き、光栄に存じます。お招きいただき、誠にありがとうございます」
セランは、微笑んだ。
「そんなに堅くならなくていいよ。今日は、ただ君と話がしたかっただけだから」
そう言って、彼はリゼの椅子の背に手を添え、静かに引いた。
「どうぞ、こちらへ」
リゼは王子の気遣いに気づき、そっと腰を下ろす。
侍女は、音もなく現れ、さっと紅茶を入れ、気配を残さずその場を離れる。
セランは静かに自分のカップを口元へ。
リゼがカップに手を添えた瞬間、ラベンダーとローズヒップの香りが鼻をかすめた。
これは、私の好みの香り、どうして?偶然?
リゼは、ゆっくりとカップを口元に運ぶ。
(……やっぱり、これ。私の好きな味)
カップを置く手から緊張がほぐれた。
セランは、微笑み、静かに語り始めた。
「今日は来てくれて本当にありがとう。まずは、どうして僕が君に惹かれたのか、不思議に思っているだろうから話させてほしい」
リゼはこくりと小さくうなずいた。
「前回会ったときに、少し話したと思うけれど……
去年の夏過ぎに、王立南図書館に行ったことがあってね。
身分を隠していたから、誰にも気づかれずに静かに過ごすことができた。館長には事前に伝えてあったけれどね。
私はその頃、静かに過ごせる場所を探していて……
偶然、君の働く図書館の2階に辿り着いたんだ」
リゼは一昨年に学園を卒業し、昨年から王立南図書館に司書として働いている。
希望していた仕事に就けたこともあり、毎日が充実していた。
今年で2年目になる。
去年の夏頃というと、薬草コーナーを任され、大改装したことを思い出す。
図書館の2階には、館内全体を見渡せるのに、周囲からは気づかれにくい個人スペースがいくつかある。
確かに、あの場所ならば、誰の目も気にせず、静かに過ごすにはもってこいの場所だった。
「その時、君は受付で来館者に丁寧に応対していた。本を扱う手つきがとても優しくて、君の一連の動きがとても自然で、……なんだか君自身が図書館に溶け込んでいるような錯覚を覚えたんだ」
セランは、少し目を細めた。
「君の、その姿を見ているうちに、自分も図書館の一部になったような気がしてね。それが心地よくて、何度も足を運ぶうちに、君の姿を探すようになっていた」
言い終えると、セランはカップを持ち上げ、静かに一口飲んだ。
「私は……普通に仕事をしていただけです。ほかの方も、同じように働いていますよ」
リゼは自分だけが特別ではないことを伝えた。
セランは、微笑を浮かべうなずく。
「もちろん、ほかの人も観察しているよ。僕はね、人間観察が好きなんだ。人は話さないと何を考えているのかはわからない。でも、その人の基本は、何気ない動きから見えてくることがある」
「たとえば、誰かが本を手に取るときのしぐさ。誰かに呼ばれたときの反応。誰も見ていないと思っている瞬間の、表情や姿勢――
そういうものに、その人の“根っこ”が出る」
「図書館には、リラックスするために通っていたんだ。君の動きをみていると、なんだか落ち着いてね。
棚を整理している君の姿を眺めていると、心が静かになって、余計なことを考えずにいられた。
でも、君の何気ないしぐさに、自然と惹かれている自分に気づいたんだ」
セランは少し間をおいて、
「王子という立場だからか、僕に向けられる言葉と、本心が違っていることが多いんだ。だからね、先にこちらからその人のことを観察しておくんだ。信頼に足る人物かどうか、それを見極めるのは、もう職業病みたいなものだよ」
王子は、少し自嘲気味に笑う。
その笑みには、長年の見られる立場にいる者だけが持つ影が見えた。
リゼは、セランの笑みにふと目を留めた。
その笑みの奥に、孤独と疲れのようなものが滲んでいるのを感じて、胸が少し痛んだ。
きっと、王子という立場で人に囲まれていても、心を許せる相手は少ないのだろう。
そう思うと、彼の観察という行為も、身を守るための術なのかもしれない。
けれど、それだけで婚約を打診するのは、やはり早計だと思った。
人の“根”を見極めるには、言葉を交わし、時間を重ねる必要がある。
だからこそ、ここで引くわけにはいかなかった。
「無意識の振る舞いにその人らしさが出るのはわかります。でも、意識して行動する姿にも、その人の“根”は表れるのではないでしょうか」
セランは、少し驚いたように目を向ける。
「だから……話してみないと、やっぱりわからないと思います。見ているだけで決めてしまうのは、早計なような気がします」
「……そうだね。君の言う通りだ。僕は、見ていたつもりで、見切っていたのかもしれない」
セランはそう言って少し肩を落とした。
(この調子でいけば、うまく断れるかもしれない)
リゼは、内心でそう思いながら、言葉を継いだ。
「人は、話してみないとわからないことばかりです。見えていたようで、見えていないことも……きっと、たくさんあります」
「そうだね。君の意見に賛成だ。
僕はずっと、観察することで人を見極めてきた。無意識の振る舞いにこそ本質があると信じていた。
でも、君の言葉を聞いて、少し考え直したよ。
意識して行動しようとする姿にも、その人らしさはにじみ出る。どんな言葉を使うか、どんなふうに振る舞うか――その積み重ねも、その人の本質を映しているんだと思う。
それは、僕が見落としていた視点かもしれない」
「だからこそ、これからは君と、もっと言葉を交わしたい。
互いに考えていることを話し合い、心を通わせることで、君の“根っこ”――本当の姿を、知っていきたいと思う」
彼は、ふっと笑みを浮かべ、カップをそっと置いて言った。
しまった……。
リゼは、一瞬言葉に詰まり、
「……そうですね」とつぶやいたのだった。
帰りの馬車の中、リゼは窓の外に目を向けていた。夕暮れの街並みが、ゆっくりと流れていく。膝の上に置いた手は動かず、ただ思考だけが静かに巡っていた。
うまく乗せられた気がする。
セランの言葉。あの笑み。
本当は断るつもりだった。
丁寧に、誤解のないように、距離を保つ言葉を選んでいたはずだった。
けれど、セランの理論に、返す言葉が見つからなくなってしまった。曖昧に濁す以外、選択肢がなかったのだ。
反論したはずなのに、心のどこかで同じだと思ってしまった。
何気ない動き、本の戻し方、椅子の座り方、声の出し方、そこに、その人らしさが滲む気がして、つい目が向いてしまう。無意識の振る舞いに惹かれてしまうのは、自分も同じだった。
セランの言っていたことがわかるだけに、それが悔しい。でも、次はちゃんと断らなきゃ。
自分は子爵令嬢で、王子妃なんてとんでもない。
その距離を曖昧にしてはいけない――そう思っているのに、言葉を濁してしまった。
馬車が揺れるたびに、リゼの決意も、ほんの少しだけ揺れていた。
セランの執務室ではセランとユリウスの反省会が開かれていた。
「ふぅ……なんとか、次につなげたよな?」
セランは椅子に沈み込み、紅茶のカップを机に置いた。
「“つなげた”というより、“押し切った”に近いかと」
「いやいや、ちゃんと対話しただろう」
「殿下の対話は、ほぼ独演でした」
「……ぐっ。それは否定できない」
セランは、額に手を当ててうめいた。
「でも、彼女、最後に”そうですね”って言ったんだ。あれは、肯定だよな?」
ユリウスは、眼鏡の奥から冷静な視線を向ける。
「”そうですね”は、肯定にも曖昧にも使える便利な言葉です。あの場面では、後者の可能性が高いかと」
「……マジか」
セランは、椅子にもたれたまま天井を見上げた。
「でも、来週また会える。これは大きい」
「ええ。ですが、次は聞くことに専念されることを強くおすすめします」
「……うん。次こそ、ちゃんと聞く」




