第5話 前世の記憶
夜の屋敷は、しんと静まり返っていた。
廊下の燭台はすべて消え、窓から差し込む月光だけが、銀の筋を床に描いている。
私は寝室のソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。
――あの日、王太子に婚約破棄を告げられた瞬間から、胸の奥にしまっていた蓋が外れた。
そこから溢れ出したのは、この世界のものではない景色。
高層ビルの窓から見下ろす東京の夜景。
電話のベルと、キーボードを叩く音が響く部屋。
四方のモニターには、株価や為替、債券、コモディティの数字が生き物のように蠢いていた。
一秒ごとに世界が変わる――そんな場所。
私はそこで働いていた。
証券会社のディーリングルーム。
22歳で新卒入社し、30歳で……事故で死ぬ、その日まで。
動かす資金は一度に50億を超えることも珍しくなかった。
わずかな判断の遅れが、数千万の損失に変わる世界。
成果を出せなければ、生き残れない。
同僚はひとり、またひとりと消え、翌週には別の顔が座っていた。
そんな場所だった。
報酬は利益の半分。
年間で常人が一生かけても得られない額を手にしていたが、私は金に執着はなかった。
欲しかったのは、次の取引で勝つための戦略と、数字を読み切る快感だけ。
恋愛経験は一度もなく、人生の軸は市場と数字だけだった。
……だからだろうか、この世界で王太子に出会ったとき、私は初めて恋を知った気がした。
殿下の微笑み、優しい言葉、未来を共に描く約束――それらがすべて私を満たした。
彼の役に立ちたくて、議会の書類も外交文書も、果ては細かな城の運営まで代わりにこなした。
本来なら殿下の職務である仕事の半分以上を、私は“彼を楽にするため”に引き受けた。
それだけではない。
殿下が望めば、宝飾商から高価な品を買い、珍しい魔導書や酒を贈った。
時には「聖女に贈りたい」と言われ、宝石やドレスを私の資産から買わされたこともあった。
あの頃の私は、それを愛情の証だと信じて疑わなかった。
――今、思えば。
どうして、あんな男を好きになれたのだろう。
あれは愛というより、依存と自己犠牲だったのかもしれない。
私は静かに笑った。
苦い笑いだったが、不思議と心は軽くなっていた。
もう、あの頃の私ではない。
この世界にも市場はある。
魔力を株式のように扱い、金貨や土地が日々取引される市場。
ならば――あの頃の知識と感覚は、必ず武器になる。
「この世界にも市場はある。なら、私の手のひらで転がしてみせるわ。」
呟いた声が、月光に溶けた。
机に向かい、紙に思いつく限りの数字を書き出す。
魔力結晶の流通量、金貨の鋳造量、土地の価格推移、貿易港の荷揚げ量――。
羽ペンを置き、静かに目を閉じる。
戦場は、もう見えている。
あとは、この数字を共に動かせる相棒を呼ぶだけだ。
「……ジュリアンを、呼びましょう」