第3話 断罪と覚醒
夜会は、薔薇の香りで満ちていた。
私は殿下の右隣に立つ。
左隣には、黒髪の聖女。
楽団が奏でるワルツ。舞踏会の中心で、殿下は杯を掲げた。
祝辞。笑い声。
そして――空気が変わる。
「皆の者。今宵、重大な発表がある」
ざわめきが走る。
殿下は正面を向いたまま、私の名を呼ぶ。
「リアンナ・ヴァルグレイブ」
「はい、殿下」
「そなたは、民に冷たく、心を持たぬ女だという声がある」
一瞬、音が消える。
胸の内側がひやりと冷える。
「民の声を聞かず、書類の上でしか国を見ない。
王妃となる者がそれでよいのか」
「殿下、それは――」
言いかけた声を、アリスの柔らかな声がかき消した。
「アレクシス殿下……リアンナ様は、いつも頑張っておられます。
ただ……もう少しだけ、民のところへ、一緒に行けたら……」
優しい。優しいけれど、その“もう少し”は、刃だった。
貴族たちの視線が、冷たい計量器みたいに私を測る。
殿下は杯を置き、静かに告げた。
「この婚約を――破棄する」
グラスの中の液面が、かすかに揺れる。
音楽が止まり、空調の魔術紋の低い唸りだけが残る。
その瞬間――
世界が、反転した。
――違う。私は、知っている。
このざわめき、この硬貨の匂い。市場の熱、暴落寸前の空気、張り詰めた指先。
(……思い出した)
現実が、二重写しになる。
東京の喧騒、暗いディーリングルーム、黒いモニターに浮かぶ緑と赤。
私はそこで三十歳まで生き、数字を獣のように追い、朝まで戦っていた。
息を吸う。香水の薔薇と、見知らぬはずの蛍光灯の熱が混ざる。
(私、リアンナ。ヴァルグレイブ侯爵家の娘。
そして――前世は、日本で証券ディーラーとして働いていた。)
殿下の声が遠くなる。
「……王家は、民のために――」
私は微笑んだ。顔の筋肉の使い方が、さっきまでの私とはもう違う。
お人形の微笑みじゃない。自分で選んだ、意志のある笑み。
「承知いたしました、殿下」
ざわめきが、波打って引く。
アリスが小さく目を見開いた。
黒い瞳。十代の、無垢と自己中心が同居した瞳。
――彼女は悪くない。彼女は自分の“できること”をしただけ。
問題は、構造だ。
水は低きに流れ、貨幣は利のある方へ集まる。
私が守ってきたのは、誰の顔色だった?
(終わり。もう、顔色を伺わない)
私は一礼し、背を向けた。
裾が床を擦る音だけが、長い回廊に続いていく。
扉が閉まる。
夜風が甘く冷たい。
そこに、レオンハルトがいた。私を待っていたのだろう。
「リアンナ様」
「屋敷へ戻るわ」
「護衛を増やします」
「好きにしていいわ。……ねえ、レオン」
「はい」
「今夜、私はひとりで歩きたい。
でも、背中は、守って」
短い沈黙。レオンは頷いた。「承知しました」
石畳を踏む。
王城の尖塔が、夜空に溶けていく。
(私はもう、お人形じゃない)
頭の中で、数字が並びはじめる。
王都の人口、税収、魔力結晶の流通量、土地の地価、港の荷揚げ量、学舎の定員。
そして――“投資”。
分散、複利、リスク、流動性。
魔力はこの国で株式のように扱える。ならば――。
私は小さく笑った。
涙は、全部、背中に置いてきた。
(自由は、選択肢の数で決まる。
選べる人は、強い)
今の私は、選べる立場にある。
愛されるために“役目”を果たすのではなく、私自身の意志で。
屋敷の門が見える。
母が、父が、ノエルが待っているだろう。
きっと泣くだろう。でも大丈夫。私は、もう――
勝ちにいく。
ここからが、勝負よ。
私は投資でこの貴族社会をぶっ壊すわ。