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第2話 距離

数週間が過ぎた。


王都の広場で、聖女アリスが“せっけん”を配っている。

泡を立てて手を洗うと、子どもたちは面白がって笑った。

彼女はひとりひとりの目線に合わせ、優しい声で教える。

殿下はその隣で、誇らしげに頷いていた。


私は同じ広場の端で、書記官と照合した資料にサインをしていた。

露店の税率見直し、上下水路の修繕計画、学舎への寄付。

どれも市井の暮らしに直結するけれど、目立たない。


「リアンナ」

アレクシス殿下が近づいてきた。アリスは少し離れたところで、子どもに絵本を読んでいる。


「君も、もう少し現場に立ってみないか。

民の笑顔を、直接見るといい」


「承知しました。……本日はこの後、議会の委員会が――」


「そうだね、君は忙しい」

殿下は視線を逸らして笑った。「仕方ない」


“仕方ない”は、私の胸に静かな痣を残す言葉だ。

私は微笑み、頭を下げた。


その夜。屋敷の庭で、レオンハルトが稽古をしていた。

侯爵家お抱えの近衛騎士団長。私の幼なじみで、いつも静かにそばにいる。


「レオン、遅くまでありがとう」

「殿下の護衛が手薄になる時間が増えた。代わりに、こちらの警備は強めます」


「必要ないわ。私は……」

大丈夫、と言いかけて、やめた。

大丈夫じゃない夜が増えた。


レオンは訓練剣を下ろし、私の方をまっすぐ見る。


「リアンナ様」

「なに?」

「あなたは、役に立つために生まれたのではありません。

笑うために生まれました」


胸の奥が熱くなった。私は冗談みたいに笑って、首を振る。

「ありがとう。でも私は、殿下の婚約者よ」


「それでも、です」


視線が絡んで、ほどけた。

私は礼を言って、踵を返す。


寝室に戻って扉を閉めた途端、膝が震えた。

静かに、涙が落ちる。


(私だって、笑いたい)


枕に顔を埋めると、遠くの鐘の音が夜を叩いた。

あの音は、王都が眠る合図。

私は起き上がって、明日の議会資料をもう一度読み直した。


役目を果たせば、きっと。

きっと――。



翌日、執務室でジュリアン・アーネストと会った。

王都一の大商会の跡取り。若くして数字に強い切れ者だ。


「侯爵令嬢閣下、よろしければこの“学院寄付基金”の設計、僕にも手伝わせてください」

「あなたに利益は?」

「長い目で見れば、教育は市場を大きくする。僕にとっても悪くない投資です」


軽い笑み。けれど眼はよく光る。


私は資料を差し出しながら、ふと尋ねた。

「……あなたは、聖女をどう思う?」

「素晴らしいですよ。手を洗うこと、字を読むこと、食べ物を保存すること。

目に見える改善は、人を動かす。数字の上でも」


「そうね」


「ただ――」ジュリアンは肩をすくめる。「社会全体の仕組みまでは変えられない。

そこは、閣下の役目です」


私の役目。

私は微笑んで頷いた。胸の奥の痣が、少しだけ薄くなる。



数日後、殿下はアリスを連れて地方視察へ向かわれた。

私は王都に残り、議会の根回しと、王都の上下水路の工事計画を通すための書類漬け。


夕刻、母から手紙が届いた。

メリッサ・ヴァルグレイブ――私の母は、筆跡まで優しい。


今日はよく眠れますように。

あなたの笑顔が、私たちの誇りです。


手紙を胸に当て、深呼吸する。

私は大丈夫。役目を――。


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