第31話「乙女」
寺子屋の帰り道、夕暮れの空が茜色に染まる中、
俺はぽつりと左内に告げた。
「次の仲間として、坂本龍馬に声をかけてみようと思ってる。」
風が通り過ぎ、木々の葉がささやくように揺れる。
左内は立ち止まり、眉をひそめた。
「……誰ですか、その人物は?」
ああ、そうか。まだ“坂本龍馬”は歴史に登場していない。
俺の記憶では、彼が江戸に出てくるのは、たしか十九歳
――つまり、今はまだその数年前。
世間的には無名の少年にすぎない。
「未来では、彼は日本の構造を変える男になる。
考え方も行動力も、俺たちの陣営に必要な存在だ。」
俺の言葉に、左内は腕を組んで考え込む。
確かに、今のご時世で他藩に出向くのは容易じゃない。
幕末の藩制度は厳格で、藩外での行動はご法度とされている。
江戸を離れるだけでも、ひと苦労しそうな話だ。
しばらくして、左内が意外な提案を口にした。
「ならば、彼の生みの親ではなく、“育ての親”に会ってみては?
人格形成に影響を与える人物なら、あなたの信頼に値するかどうか、
見極めてくれるはずです。」
「ただし、会いに行くには、土佐まで行かねばならないという
問題がありますが…」
育ての親――そう、龍馬の姉・乙女。母の死後、彼女が龍馬に剣術を
叩き込んだという記録がある。まさに、スパルタ教育の象徴。
俺はそのナイスな提案に、もうひと工夫を付け加えることにした。
「じゃあ、俺が乙女に“試される”ってのはどうだ? 剣術で。」
左内は目を丸くした。
「あなたが……剣術を?」
俺はニヤリと笑った。
「知力MAXの演算処理速度、侮ってもらっては困る。
俺の脳内演算は、既に人智を超えている。
動きの予測と回避? そんなもの、未来の可能性を
断層ごとにスキャンして、最適解を選び取るだけの話だ。
この肉体は、もはや“戦術演算体”――回避行動は、
意識する前に完了している。つまり俺は、
攻撃される前に“攻撃されなかった世界線”を
選んでいるだけだ。」
左内は呆れたように笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「……さすれば、土佐藩まで行く覚悟はできたのかな?」
俺は頷いた。
江戸から土佐藩へ――それは、ただの移動では済まない。
幕末の日本では、藩を跨いだ行動は厳しく制限されていた。
特に俺のような“素性不明の少年”が、藩の内情に関わる
人物に会いに行くなど、普通なら門前払いどころか捕縛対象だ。
だからこそ、俺は“少々の細工”を施した。
まず、身分の偽装。
未来の知識を活かして、土佐藩の下級武士の家系図を調べ上げ、
そこに“暁宗一郎”という名を滑り込ませた。
戸籍制度がまだ緩いこの時代なら、筆跡と印鑑さえ整えれば、
書類上の存在を作ることは不可能じゃない。
次に、旅装と言葉遣いの調整。
土佐藩の言葉は江戸とは微妙に違う。
俺は、現在AIの存在であり、
猫でもある澪に方言データを学習させ、
道中で会話の訓練を繰り返した。
……いや、ちょっと待て!澪が猫であることは、必要?……
……なるほどな、猫が土佐弁で喋ったほうが、逆に覚えやすいか!
見た目も、江戸っ子の派手な装いではなく、地味な袴に草履。
髷の結い方も、土佐流に合わせた。
そして最後に、目的の偽装。
乙女に会う理由を「剣術指南を受けたい」とした。
龍馬の姉として知られる乙女は、剣術の達人でもある。
弟子入り志願という形なら、門を叩く理由としては自然だ。
もちろん、俺の本当の目的は“龍馬を仲間に引き入れるための信頼獲得”だが、
それを正面から言っても通じるはずがない。
だからこそ、剣術という“試練”を通して、俺自身を見てもらう必要があった。
こうして、俺は“土佐藩士・暁宗一郎”として、乙女の屋敷に足を踏み入れた。
乙女の屋敷は、山裾にひっそりと佇んでいた。
俺が訪ねると、彼女はすぐに屋敷の中に通してくれた。
だが、龍馬の話を切り出した途端、彼女の眉が吊り上がった。
「今のあの子は、甘い。江戸なんて、まだ早い。
あなたがあの子を導ける人間かどうか、私が見極めます。」
そう言って、彼女は竹刀を手に取った。
「構えなさい。遠慮はしませんよ。」
俺は静かに立ち、演算を開始した。
【剣速予測:0.42秒】【軌道解析:右上段】【回避ベクトル:左後方45度】
乙女の一撃を、俺は紙一重で流す。次の瞬間、二の太刀が来る。
【連撃予測:0.31秒】【足運び補正】【反応時間:0.09秒】
俺は、まるで機械のように、斬撃を受け、流し、躱す。
演算処理は脳内でリアルタイムに走り続け、
乙女の動きに対して最適な回避ルートを導き出す。
乙女の目が、徐々に変わっていく。
驚き、警戒、そして――認める。
「……あなた、何者?」
「未来から来た、知力だけで戦う男です。」
最後の一撃を、俺は寸止めにした。
竹刀の先が、乙女の額の前で静止する。
乙女は竹刀を下ろし、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「……認めましょう。あの子を、あなたに託します。」
その言葉に、俺は深く頭を下げた。
──坂本龍馬。未来を変える男。その第一歩は、
姉の信頼を得ることだった。
そして俺は、強引すぎる仲間探しの第二歩を踏み出した。
知力と剣術。思想と行動。そのすべてを繋ぐ同志が、
また一人、加わろうとしていた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。




