第29話「沈黙のメッセージ」
有名な塾の門前。 春の風が、少しだけ冷たかった。
芽吹き始めた木々の間を抜けて、風が頬を撫でる。
季節は変わろうとしていた。
俺は、門の前に集まる少年たちを見渡していた。
橋本左内――その名は知っている。思想も、志も。
だが、顔は知らない。写真も肖像も残っていない。
だから、俺は待った。彼が“らしさ”を見せるのを。
数人の少年が談笑しながら門をくぐっていく。
その中に、ひとりだけ、妙に空気を読んでない動きをする者がいた。
視線の使い方、歩幅、間合い――なんか、探偵みたいだ。
そして、俺の前で立ち止まった。
ドキーン。心臓が「バレたぞ!」と叫んだ。
「……あなたが、“思想の贋作者”ですね?」
俺は、思わず口を開けた。春風が、口の中に入った気がした。
「……え、いや、あの……?」
声が裏返った。自分でも情けないと思った。
左内は、まったく動じずに懐から一冊の原稿を取り出した。
それは、『啓発録』――俺が記憶を頼りに書いた贋作。
表紙の紙質、綴じ方、墨の匂い。すべて俺が仕掛けたものだ。
「文体は僕のものに似せてある。
でも、思想の展開が、僕の今の思考より数段先を行っている。
それだけなら、ただの模倣かもしれない。
でも――推薦状に添えられていた一節。 “志は命令に勝る”。」
左内は、原稿を指でなぞりながら続けた。
「それは、僕が越前藩に提出した私的な覚書の中で使った言葉。
藩主がそれを知るはずはない。 つまり、推薦状を書いた人物は、
僕の思想を深く理解していて、なおかつ“僕の未来”を描ける者。」
俺は、内心で「やばい、詰んだ」と思った。
でも、左内は止まらない。むしろ、楽しんでるように見えた。
「そして、門前で僕が数人に“啓発録を読んだことがあるか”と問いかけたとき、
君だけが、他の人と違う挙動を見せた。
目線、呼吸、反応――それらを繋げれば、答えは一つしかない。」
俺は、もう逃げられないと悟った。
でも、ここまで見抜かれたなら、むしろ開き直るしかない。
「……君に来てほしかった。命じられるままに働くんじゃなくて、
いつか国家の大仕事を成し遂げたい――そう願う君の志を、俺は知ってる。
それが、俺には他人事に思えなかった。だから、君を仲間に選んだ。」
左内は、目を細めた。 そして、静かに笑った。
「……君の手段は、奇抜で危うい。 でも、僕の志を見抜き、未来を信じて動いた。
ならば、僕も応えましょう。君が見た“僕の未来”を、現実にしてみせる。」
その瞬間、俺の中で何かが確かに繋がった。
贋作――そう思い込んでいた。
だが、それは未来の同志に向けた“沈黙のメッセージ”だった。
左内は原稿を閉じ、俺に手渡した。
「この思想、僕が引き継ぎます。贋作ではなく、予言として。」
俺たちは並んで塾の門をくぐった。
春の風が、少しだけ温かくなった気がした。
宗一郎は、ふと考えた。
(左内さんの頭の中って、どうなってんだろ?)
ただの天才じゃない。何か、もっと深いものがある。
近いうちに、こっそり聞いてみよう。
できれば、真面目な顔して。……いや、真面目な顔してると、
逆に見抜かれそうだな。
じゃあ、ちょっと笑ってごまかしながら聞いてみよう。
たぶん、それが正解だ。
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