第六話『私達は、地上の住民です』
自分の魔法で顕現させた動かぬ炎の前まで歩き、壁に背を向け座った男は、アロンソと名乗った。だけれどその名前について、少なくとも私はあまり興味を示そうと思わなかった。
「剣は、後で拾ってね。それで、情報っていうのは? そもそも、なんで下りてるの?」
「質問が多いねぇ剣士のお嬢さん。その前に僕も名乗ったんだ。君達の名前も教えてくれよ」
男はさっきまでの形だけでも怯えた雰囲気を見せていた態度を止めたようで、余裕ぶった表情をそのままに、飄々と言葉を操る。
「一期一会に名前なんていらないと思いますよ、お兄さん。私達は上る、貴方は下る……でしょう? その時点でもう、私達は交わらないんですから」
私が負けじと反論すると、彼は興味深そうに私を見てから、何か納得したように頷いた。
「なるほど、それも言い得ているね。そうだな、まず下る理由を説明しよう。第一に僕はだね、命令を受けて此処に来ている身なんだよ。それが誰かは流石に明かせないけれどね。簡単に言えばこのダンジョンの調査……のようなものかな」
「だったらー、地上から来たって?」
ティアの言葉に、彼は一瞬言葉に詰まる。言い返したティア自身はそれに気付かなかったようだけれど、私はそれを見逃さなかった。きっと彼の言葉には、何かしらの不作為の嘘のような物がある。
「いいや、転移魔法で中層あたりまで飛ばしてもらったよ。上層になる程強い魔物が多いからね。そうだ、中層近くには幾人かの人間がいたと思う。君達の足だと、此処からだと、一日か、二日くらいか」
この言葉にも妙な矛盾がある。このダンジョンが生成されてから、約二日程度しか経っていないはずだ。私達の足と、この人の足で、どれだけ差が生まれると言うのだろうか。
彼の言葉を鵜呑みにするなら、このダンジョンの中層と言われる場所から、僅か二日で此処まで下りてきたという事になる。それに上層になる程強い魔物が多いというならば、中層になれば今よりももっと強い魔物がいて手こずるはずだ。
それを一人でさばいてきたというのは、どうにもおかしい。今までのやり取りで彼が手練れの冒険者か何かだという予測はついたとしても、こんな状況下を予測した上で、誰かに命じられるなんて事があるだろうか。
「にーさんは最下層を目指すんでしょ? だったら此処はにーさんから見てどのあたりになるの? 私達はここからそう遠くない場所から来たけれど」
ティアが軽い嘘を交えて探りを入れる。私達の感覚で言えば、此処までの道が遠くないわけではない。だけれど彼の言葉に乗るならば遠くないと言っても感覚にすれ違いは無いような言葉だ。
彼自身、私達が最下層から来たという事は知らないはず、ならばこちらの情報を与える必要はない。信用に値すれば訂正すればいいだけだ。ただ、彼の言葉達を聞いて、信用に値する要素は、今のところ一つもない。
腹の探り合いは得意じゃないにせよ。知らない人間とこんな所で話しているという状況が、そもそもおかしい。
「此処は……下層だね。下層の一番下って所かな。しばらくは打獣が棍棒を持って闊歩していると思うよ。中層からはもっと頭の良い魔物が増える。地上を目指すなら気をつけるんだね。ほら、僕らが敵対する理由は無いだろ? 僕は僕のすべき事をして、君達は君達のすべき事をするべきさ」
場所が分かったという事と、食料切れの前に村の住民がいる場所があるという情報、そうしてここからは打獣、二足歩行で道具を使って攻撃してくるような、知恵のある魔物が闊歩している事は分かった。
「後は、水場があれば教えてもらえますか?」
「あぁ、下層の真ん中くらいにあったね。大体教えられるのはこのくらいかな? まだ何かあれば、僕で良ければ教えるよ」
――トン、トンと私は杖で地面を叩く
相当な余裕に、辟易とした。彼はどうせなんでも教えてくれるだろう。ある意味で不快感のある信用が生まれていた。それは、遭遇の緊張も解けて、この異様さの理由に気づき始めていたからだ。
彼は中層を通ってきたと言い、村人を見たと言った。中層から最下層手前まで、ありえないような速さで下りてきている。それなのに食料のようなものが見当たらない。
例えば、状況をすげ替える事が出来たなら、私達でもそれを可能にする手段がある。魔物に怯える必要が一切無く、食料もいらず、誰かに命じられてダンジョンにいる状況。
それを可能にする存在とは、どのような存在だろうか。
それを顕にして尚、その表情は崩れないのだろうか。
――スーッと、私は杖で地面をなぞる。
私達にはそれが出来ず、彼にはそれが出来ている。その理由は、考えていけば簡単な事だ。
「最後に……一つだけいいですか? 大事な事です」
後々、ショックを受けるくらいならば、今ショックを受けた方がいい。怒りを噛み締めて泣き寝入りするくらいなら、その瞬間にはっきりさせたほうが良い。
私が鋭い目をしていたのだろう。彼の表情が、笑顔のまま、少しだけ不愉快そうに引きつった。それに、私の『大事な事』という言葉を聞いて、ティアがさりげなく手を剣に届く位置まで動かしたのを見る。
それを確認して、私は彼に、最後の質問をぶつけた。
「……村の皆は、生きていましたか?」
こんな出来立てのダンジョンを安全に動ける上に、転移出来るのなんて、魔族くらいだ。彼は大方、名前を出せない誰かに言われてダンジョンを偵察しにでも来たのだろう。でなければ出会った瞬間に私達は殺されていたはずだ。
「言い直します。貴方は、彼らを殺しましたか?」
彼の思惑がどうだったにせよ。敵対する理由を、たった今作った。焚き付けたと言っても過言では無い。だけれどそれを見越した上での行動であれば、彼に取られていた状況の不利を取り戻せる。
彼の眼の前の火球が、強く光り、破裂音を立てる。思っていた通りの攻撃パターン。それが術者のタイミングで破裂する事は、もう既に分かりきっていた。だから私は既に破裂を防ぐ為の薄い魔力の膜で火球を包む準備をしていた。私は火球の破裂と同時に、杖で地面を強く叩く。
「ティア! 目を覆って!」
逃げる必要は無い。ただ光に目をやられないようにする事は必要だった。彼のタイミングに合わせるのは私の技量次第だと、緊張していた所だ。
言いながら私もまた、火球から目を逸らす。
その隙に彼は、勢い良く立ち上がったと思うと、既に剥き身の剣が彼の手に握られていた。
――だけれど気づいていたのだから、一手先には、私がいる。
彼がベラベラと話を進めていた時点で、もう既に私はこの男を、完全に敵対生物として認識していた。
だから、彼が魔法で作り出した火球が破裂する可能性と、その構造も理解していたし、その上から更に強い炎の膜を張る事で火球の破裂を相殺する準備も、出来ていた。
「お兄さん……いいえ、魔族のお兄さん。余裕ぶるにも程があります。私が魔法使いなのはさっき見ているはず、なのに私がそんな程度の低い破裂球に気を引かれると思ったのですか?」
私が、火属性を専門としていた魔法使いで本当に良かったと思った。
少なくともこの瞬間に於いては、戦ったことのない魔族という種族を眼の前にして、対抗出来ている。人に扮したこの魔族がどのような事が出来るかは分からないにせよ。ティアの剣先は射程内。そうして私もまた、杖を突きつけている。
「ま、僕が魔族な事くらいは見抜くとは思っていたけれど。そうか……こんな場所に飛ばされたからつまらないと思っていたけれど、随分と上手くやる子もいるみたいだね。魔法使いのお嬢さん」
「そういうのはいいんです。貴方が私達を殺さないという事は、確かにお互いの利は別にあるようですが……ですがそれでも、貴方が害した物があるなら話は別です。お兄さん、村の人達は生きていますか?」
ティアと魔族の間合いが詰まっていく。私の杖にも魔力が込められていく。純粋な熱線の準備に、詠唱は要らない。だけれど彼は未だに飄々とした態度で、微笑っていた。
「面倒なのは考える事だけで充分なんです。情報という事実、本当の事だけを喋りましょう。少なくとも、互いに痛手を追うのは本意では無いはずです」
その言葉を聞いて、一瞬ティアの身体が反応する。おそらく彼女は、確実に此処で彼を倒すという思考しか持っていなかったからなのだろう。
「そうですね……剣を突きつけられ、胸元に杖、それに人数不利と来れば、僕も本当の事を言わざるを得ないと考えるのが普通だ。それに魔法使いのお嬢さんはどうにも慈悲と分別があるらしい」
「情報の中身によっては、ですけれどね」
「中身によって……って! クク……魔族だよ? コイツ」
ティアの少し苛立った声が聞こえる。おそらくは彼と出会った時点から頭に血がのぼっているのだろう。だけれど、こういう時に彼女を制するのが私の役目でもある。
ティアの最初の一閃を軽々と避けたのを考えるならば、この魔族はそう簡単に倒せるかどうか分からない。
爆発を未然に防げたのは、彼が私という魔法使いを侮っていたからに過ぎないのだ。そもそもとして、火球の操作、それも破裂なんて行為は火属性の魔法の中でも面倒な類。それに加えて剣を持っていた事から考えて、彼は魔法と、少なくとも剣技か体術も出来るという事になる。
「ティア……此処は私に任せて。ねぇお兄さん、貴方の目的は人間を殺す事ではない、そうですよね? だったら私達はこの階層に来た時点で、早々に闇討ちされているはず。それに今までの茶番みたいな小芝居も、いらない」
「君は随分と頭が回るねぇ。そうさ、その通り。僕はね、演技はしても嘘は言わない。中層に飛ばされたのも本当だし、魔物についてや水場についても嘘はいっていない。そうして、村に人が"いたと思う"のも本当だ。君が望むのであれば、もう生きている村人は数人しかいないというのが正解かな?」
つまり、村人はもうほぼ全滅だ。だけれどこの口ぶりなら、彼はきっと殺していない。
「ダンジョンを調査、ですか。物は言い様ですよね。貴方を此処に飛ばした魔族について興味はありませんが、貴方はダンジョンの内部の調査ではなく、ダンジョンの内部に取り残された人間達の調査をしている……であっていますか?」
「奇しくも大当たり、だね。だから村の人間に手をかけたのは僕じゃあない。しかし、十分な鍛錬を積み覚悟を決めた人間達に比べて、極限状態に晒された弱い人間達の絆はいとも脆いものだというのは、僕ら魔族にとって有益な情報であり、僕の個人的な感傷も混じるね?」
村人の家々が必ずしも同じ階層に集まっているという事も無いはず、となると中層の魔物に対抗出来ない村人も多かっただろう。それに、食糧問題についての意見交換も早々に起きたはずだ。中層の魔物はある程度知能がある。要は略奪行為が行える魔物だ。
そうなってくれば、状況は私達のいた最下層よりうんと悪くなるのは間違いない。だけれど、たった二日程度でどうにもならなくなるほど状況が悪化するだなんて、考えられない。
「問題はそこです。恨むべきはこうなった現状にせよ。私が聞きたいのは、貴方の言うその脆い人間達が、どうやって死んだのかという事です。貴方が手を下していないのならば、魔物にやられたのか、互いにいがみあったのか。それでもこんな短期間でほぼ全滅だなんておかしい。その理由が知りたいんですよ、それが私の聞きたい最後の情報です」
「これだけサービスするつもりも無いのだけれど、見る限り色々さ。単純に魔物に襲われた人間も多かっただろう。だけれど人同士で争った形跡の方が圧倒的に多かったね。まぁ、それは実際に君達がこれから目にすると良い。此処で僕を解放してくれると言うのなら、だけれどね」
彼が言うやいなや、人間への擬態が溶けはじめ、彼は紫色の肌を持ち、鋭い爪と牙、翼を持つ魔族へと変貌した。
その瞬間、私達が如何に戦闘面に於いて愚かしい行為を取っていたのか、本能的に、察知してしまっていた。
「……ティア、離れて。私達じゃ、絶対に勝てない」
魔法を学んでいれば、即座に分かる事がある。剣士は剣を交えなければその実力の差をハッキリと自覚する事が出来ないけれど、魔法使いはその魔力量を見る事が出来る。
だからこそ、今の彼に、これ以上少しでも敵意を向けたなら、私達の生命は無いだろうということが、いち早く私にだけ分かった。そうして、彼にはおそらく最初から、分かっていた。
要は、私達はもうずっと、言ってしまえばこのダンジョン化が始まった瞬間から、彼の、魔族の手のひらの上だったのだ。
「これも、観察……ですか」
「そうだね。人類と魔族の戦争はもう、僕ら魔族の敗走が近い。だからこそどうあれ魔族は人間を理解しようとしたのさ。世界中にダンジョンを作ってね。それと同時に、理解してほしいとも思っている、生物の醜さというものも、君達が互いに憎み合わず地上に辿り着けるなんて事は、無いよ」
彼の言い分は、彼の立場からすれば正しいものなのだろう。ティアは剣をしまい、拳を握りしめて、何も言わない。その代わりに、私が言わなきゃいけない事がある。
「だけれど、だけれど! この状況でなければ、私達は幸せだった! 思考する生き物に醜い部分があるという事は考えたなら誰だって分かるはずです! これが、このダンジョンに人を閉じ込めて観察するのが貴方達の調査だと言うのなら! それは大前提が、間違っている……!」
「……はは、それは君達人間の論理さ。魔族という種に生まれた以上、僕らは悪辣な環境という大前提を経過しなければ生き抜けない運命にある。それを君達にも課したならどうなるか。それを証明したかったのさ。我らが主は」
何も言えない、言い返せない。相手の事情など考えてやる事は無いのに、考えてしまえば納得してしまう。彼が嘘を言わないと過程するならば、今私達が生きている事がその証明だというのならば、彼の言葉は魔族の意思であって、それは魔族という統合された意識による物だという事が分かる。彼自身の意思が何処にあるかは、また別なのだ。
「この状況でも、ダンジョンから出られる人間は多く存在するだろう。だけれど……そうだな、君達の環境と力を察すると、上層の魔物には手こずるだろうね。その前にまぁ、人の行く末に打ちのめされて、叩きのめされる方に僕は賭けざるを得ないけれどね。君達の神様は、どうも歪んでいるみたいだ。さっきから君ばかり冷静だけれど、君の相方のお嬢さんの剣が君に向く事だって……」
「無い! 私達にそんなこと、絶対に無い! 二人で出られないくらいなら、二人で仲良く死んだとでも記録しとけ! 馬鹿魔族!」
ティアの憤怒が爆発する。それでも、彼は不敵な笑みを讃えていた。
「……まぁ、それならそれでいいさ。でもこのダンジョンで、敵は魔物だけじゃないっていう事も、良く覚えておくんだね。なんなら笑える話だ。僕という魔族だけが、誰も手にかけず、嘘一つ吐かない……なんてね!」
彼は笑いながら自身の剣を空に放り投げ、それに気を取られたティアの剣をその指で掴み、パキリとへし折る。私は熱線を溜め込んでいた杖の魔力を即座に消し、杖でティアの身体を思い切り後ろへと押し込んだ。
「クク! コイツ!」
「勝つ事が正解じゃないの! 私達は、生きる事が正解だから!」
――嘘一つ吐かないという言葉に、心当たりがあった。
そう、この場で最も誠実であったのはこの魔族、アロンソだ。
だからこそ、嘘をついた私達に怒りを示す道理は、通っている。
「君達が最下層の住人、だね?」
圧のある言葉、無理やりに事実を吐かせようとする言葉。私達が今までいかに幸せな世界に身をおいていたかという事が痛い程分かった。
魔族とは、ここまで力に長けた種族なのだと、思い知らされる。ならばやはりこのダンジョンだって、乱立してもおかしくない。
――それでも、曲げられない事は、あった。
「いいえ、私達は、地上の住人です」
こんな不条理、許してはいけない。
だけれどそれに抗えないなら、精一杯の強がりは、拳じゃなく、言葉で、ぶつけるしかない。
「じゃあ精々、その最期まで覗かせてもらおうじゃないか、二人のお嬢さん達、此処がダンジョンで命拾いしたね。それじゃあ僕は行くよ」
「……待て!」
思わずと言った風に、ティアが背を向けた魔族に剣を抜こうとする。
「ティア! 死にたくないなら! 辞めて!」
振り向いた魔族の殺気に、ティアの顔が青ざめる。
衝動的なものだったのだろう。怒りで我を忘れるなんて事くらい、こんな状況なら起こっても仕方がない。だけれど、ギリギリの所で、彼女は爆発してしまった。
その殺気は、多少の距離があっても、肌を触られているような、そうしてそのまま捻り潰されて死を意識するくらいの圧力があった。
「待て、か。君達の啖呵はもう充分聞いて、飽きてしまったよ。殺してほしいかい?」
「……いいえ、これだけ情報をもらったのだから、私達からも一つだけ、最下層について情報を」
これもきっと、彼にとっては単なる言葉遊び、この状況でどう私達が対処するかを、楽しむかのように、研究しているのだろう。
だからこそ、私は捻り出すように言葉を紡ぐ。
「へぇ、面白いね。言ってみるといいよ」
「最下層には、素敵な、家があります。貴方で無くとも、誰でも使って良い場所として解放されているので、最下層まで行くのならばどうぞ寛いで、せめて綺麗に、使ってあげてください」
それが、私の出来る、精一杯の皮肉を交えた、命乞いだった。
それを聞いて、魔族は声を出して笑う。
「覚えておくよ。ベッドのサイズが合えばいいけれどね。じゃあね、最下層のお嬢さん達。どうかその真っ直ぐな心が歪みますように」
そう言い残して、彼は翼を広げる。
「そうだ。僕ので良かったら、剣は後で拾ってね。お嬢さん」
最後に、そんな皮肉と剣を置いて、悔しそうなティアを尻目に、彼は下層へと駆け下りていった。
それからしばらく、残された私達は膝をついて、ただただ、手を握っていた。私はそっと握っていたけれど、私に伝わるティアからの力は、涙が出そうなくらいに、強く強く握られていて、心が痛かった。