セリウスの逆鱗
学園から帰宅後、レオナルドの不在を知らされたセリウスは真っ直ぐに自室へと戻り、制服のジャケットを脱ぐなりそのまま机に向かう。
そして一息つく間も無く、袖机の上に積み上げられた書類に目を通していく。
一枚一枚瞬時に内容を読み取り、ペンを走らせること数十往復、ドアをノックする音が響いた。
力強く速いリズムのその音は茶の差し入れではなく、急ぎの要件であることが分かる。察したセリウスはペンを置き、ドアに視線を向けた。
「入れ。」
「執務中に失礼致します。セリウス様、ご報告がございます。」
生真面目な声と共に姿を現したのはセリウスの下で働く従者の内の一人であった。
年若い彼は自分の足元に視線を向けたまま、やや焦った口調で報告を告げる。
「ダリク・スロットルがアレースト家の御息女と接触したと見張りの者より報告がありました。その…訪れた目的は結婚の、」
「彼女に怪我は?」
「い、いえ…特に危険なことは無かったようです。」
セリウスに人を殺せそうな眼光で射抜かれ、従者の顔が青ざめ額に脂汗が滲む。浅い呼吸を繰り返しやっとの思いで返事をした。
部屋いっぱいに重苦しい空気が充満し、全身に重い何かがのしかかる。震えなく立っているだけで精一杯だ。
「彼女に触れる前に殺れ、一切躊躇するなと通達しておけ。」
「…はっ」
齢十六の言葉とは思えないほどの圧を感じ全身が凍りつくほどの冷たさを感じる。
一瞬セリウスの放つ圧倒的な圧力に負けそうになったが、従者は足腰に力を入れ視線を上げぬまま恐る恐る口を開いた。
「スロットル家の罪状について王宮に提出出来る手筈は整っております。今から行動を起こせば、明日にでも召喚の書状が送られることになるかと…」
「いや、まだだ。」
「まだ…?」
意外な返事に、従者は驚いてセリウスのことを見上げた。
そしてその瞬間、ひどく後悔した。そこには目を合わせられないほど残忍で天使のような微笑みを浮かべた悪魔がいたからだ。
「夢を見させた後に堕ちる方が滑稽で愉快だろう?」
ー ああ、この人は…
従者の顔が恐怖に歪む。
甘い顔で微笑みながら紡がれた言葉は、どんな鍛え抜かれた刃物よりも鋭く殺意が込められている。
スロットル家の行動はセリウスの逆鱗に触れ、例え死を持っても償えない罪を背負ったのだと思い知らされた。それと同時に、セリウスの底知れぬ闇を目の当たりにしたのだ。
「奴らの狙いは地位の向上…どうせグレンダン家の失脚でも狙っているのだろう。ならばその手助けをしてやろうじゃないか。地べたを這いずる鼠を狩るより、空を舞い上がる小鳥を撃ち落とす方が数段面白味がある。出所がバレぬよう上手く噂を流せ。」
「ご随意に。」
従者は汗で額に張り付いた前髪を指で整え、深々と頭を下げた。
無言を退出の許可と受け取った彼は、入室した時と同様足早に部屋から出て行った。
「こ、怖かった…」
この数分ですっかり小さくなった彼の背中を廊下の壁に預け、ぐったりとした様子で本音を吐露した。
内側から込み上げる恐怖を抑えつけていた反動で、今更膝が震え始めた。
「よぉルーク、随分と青い顔してるが、御乱心のご主人様にとうとう背中でも刺されたか?」
「ちょっ、お前聞こえたらどうするんだっ」
片手を上げ気軽な様子で話しかけてきた同僚に、ルークは慌てて彼の腕を引っ張りセリウスの部屋から遠ざけた。
背中に嫌な視線を感じて後ろを振り返ったが、普段と変わらずどこまでも続く廊下があるだけであった。ほっと胸を撫で下ろす。
「アイツ、キレるとおっかねぇからなぁ…この前ついうっかりケルティ呼びしちまったらナイフが耳を掠めたもんな。そのついでに髪を数本持っていかれたわ。はははっ。たかがあれだけのことで耳を削ぎ落としにかかるとかやっぱり頭おかしいわ。」
「お前って奴は…」
ルークは呆れて言葉が続かない。
せっかく落ち着いてきた鼓動が、この命知らずの同僚のせいでまた不整脈を打ち始めた。整えようと忙しなく胸をさするが全く効果はない。
「まぁ、あんなんでも気を遣って旦那の前では息子面してるし、ちょっとは可愛いところあんだよなぁ。お嬢のこととなると途端に凶悪犯になるだけでよぉ。ほんと引くくらいゾッコンだよな。ははははっ」
「お前の口の悪さはどうにかならないのか…不敬しか働かないお前がどうしてキンベラー家に雇われているのか不思議でならないんだが…なんでこんな奴が俺の同僚にいるんだよ…」
「それは俺がセリウスにとって特別だからだな。手元に置いときたいんだろうよ。今はあんな冷徹漢だが昔のアイツはもっと可愛かったんだぜ?そうだな…例えば昔誕生日の時に…」
ツラツラとセリウスとの思い出話を始めた同僚に、もうこれ以上余計なことを聞きたくないルークは耳を塞いだまま静かにその場から離れた。
「頼むからこれ以上巻き込まないでくれ…」
一人廊下でぼやくルークの声は、誰の耳にも届くことはなかった。




