セリウスの昔話
ケルティとセリウスの二人は続けて二曲目を踊り、その後会場の端にある休憩スペースに一度下がった。
軽く息の上がっているケルティのため、セリウスは近くにいた給仕係からグラスを受け取り差し出す。
シャンパンを連想させるフルートグラスに注がれた淡い黄色味の液体は、リキュールのかわりにレモンの蜂蜜付けがソーダで割られており、甘さの乗った柑橘系の爽やかな香りが漂う。
喉が渇いていたケルティはあっという間に飲み干してグラスを空にした。
「これ、すっごく美味しい。自分でも作れるかな…」
「今度家の者に作らせた物を君の家に届けさせよう。気に入れば毎日でも。」
空になったグラスを見ながら真剣な表情で原材料を思案するケルティに、セリウスは緩む口元を片手で抑えながら提案してきた。
「え、嬉しい…じゃなくて、それはさすがに悪い気が…」
「じゃあ、その代わりと言ってはなんだけど、少しだけ僕の昔話を聞いてもらえないかな?」
「そんなことならいくらでも。それに、私もセリウス様のこれまでの話は興味あるし、ちょっと聞いてみたいかも。」
にっこりと親しみを込めて笑いかけるケルティ。だが、セリウスは僅かに眉を寄せ一瞬苦しそうな表情を見せた。
そしてすぐにまたいつもの穏やかな表情へと戻る。
「ありがとう。少しだけ外に出ても?」
セリウスは空になったグラスをケルティの手の中から回収しつつ、視線でバルコニーを指しながらケルティに問いかけた。
ケルティも了承し、二人は会場を抜けて場所を移動した。
バルコニーは広く、整備された花壇とベンチが交互に並ぶちょっとした庭園のような作りになっている。
等間隔に並ぶベンチの間にはガス灯が設置されており、会場から漏れ出る明かりも相まって周辺はほんのりと明るい。パーティーが始まって間もないこの時間帯、他の人の姿は見当たらない。
セリウスはバルコニーの出口からやや離れたベンチにケルティを座らせると、上着を脱いでケルティの肩に掛けた。
「何から話そうかな…」
ケルティのすぐ隣に腰掛けると、セリウスは言葉を止め少し難しい顔をした。
言葉選びに悩む彼の姿は珍しく、ケルティは黙ったまま話の続きを待つ。
「僕は昔、君の側にいたんだ。」
唐突に話し始めたセリウスの言葉に、ケルティは驚いて目を見開いたまま言葉を返せずにいる。
セリウスは優しくケルティの手を握ると、一度目を合わせてからゆっくりと落ち着いた声音で話を続けた。
「僅かな期間だったけれど、幼い頃君の邸に仕えていたことがあるんだ。だから、君のお茶の好みも君が他者に優しいことも誰よりも家族想いであることも全て知ってる。そしてそんな君に惹かれ僕は恋に落ちた。自分以上の存在と出会って、君のためなら何でもしよう。心の底からそう思えたんだ。」
「セリウス様が…」
「ああ。信じられないと思うけれど、僕はずっとずっと会いたかったんだ。だから今こうして君の隣にいられることが」
「ダンケル…?」
「……なぜその名を?」
驚きのあまり言葉を無くすセリウスは瞬きもせず、口元に手を当てたまま固まっている。
あの時の自分をもう覚えてすらいないだろうと思っていた相手に当時の名を口にされ、その事実に思考が凍結する。
そしてその驚愕の感情は少しずつ歓喜へと移りゆく。
幾度となく打ち消してきた、彼女の中に存在する過去の自分が形を帯びて来たような気がして、セリウスの心は期待に満ち満ちてゆく。
これまで頑なに考えないようにしてきたことのはずなのに、思わず自分の都合の良いように想像を巡らせてしまう。
「貴方が本当にダンケルなの?私今でも夢に見るんだよ。ダンケルの淹れてくれるミルクティーが一番好きだった。お嬢様って優しく呼んでくれる声も。…あの優しい時間に戻りたいなって思うくらいに。」
「そんなことって……」
セリウスの瞼の裏にみるみる内に涙が溜まっていき、手で目元を覆い慌てて顔を逸らす。
何千何万と繰り返してきた自分本意な期待とそれを打ち消す絶望。
自身の一生の中であれほど幸福に満ち溢れた日々を宝箱の中に仕舞い込み、全く別の人間としてケルティの前に現れる。
己で決めたこととはいえ、それは想像を絶するほどの痛みを伴った。
過去を無かったことにする痛みと彼女と再会出来た悦びの狭間で擦り切れそうになる心を押し留め、努めて実直に新たな関係を築いてきたセリウス。そんな彼の全身に抑えきれないほどの悦びの感情が駆け巡る。
「いや、今日は君といられて気分が高揚しているのかも。都合の良いこのばかり頭に思い浮かぶ…ほんと僕はどうしようもない奴だな。」
「そんなことないよ。私はダンケル…ううん、セリウス様に支えられたの。あの当時、暗闇に向かうアレースト家を皆次々と見限っていった。そんな中セリウス様はいつだって変わらず暖かい言葉を掛けてくれて誰よりもお嬢様扱いしてくれて、共に過ごす時間が心地良かった。だからもう一度会いたいってずっと思ってたんだよ。」
「本当に…?」
顔を逸らして俯いていたセリウスがゆっくりとケルティに向き合う。
「そう。だからね、」
セリウスと目が合った瞬間、ケルティは言葉に詰まった。
涙で潤んだ彼の瞳は大きく開かれており、周囲の明かりと込み上げる期待で陽光を受けたガラス細工のように輝いている。
そんな瞳を真正面から捉えてしまい、はっと息を呑んだケルティ。
言いたかった言葉は頭から抜け落ち、頭の中が真っ白になる。何も考えられないまま目を逸らすことも出来ず、ただただセリウスのことを見つめ返す。
「愛してる。」
言葉の出てこないケルティの代わりに、セリウスは隣に座る彼女の肩に両腕を回し、ありったけの想いをこのひと言に乗せた。
真っ直ぐに彼の想いを受け取ったケルティの瞳にも涙が込み上げる。
ー 嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい…こんな感情知らなかった。こんなにも溢れる想いが自分の中にあるなんて…
「ごめん。ケルティのことを泣かせるつもりは無かったんだ。」
ケルティの涙を優しく指で拭うと、セリウスはシャツの胸ポケットからハンカチを取り出してそっと彼女の目頭に押し当てた。
「でもきっとその涙は、悪いものではないと思ったんだけど…どうかな?」
「…うん。」
昂る感情と泣き顔を見せてしまった気恥ずかしさから、ケルティはひと言返すだけで精一杯だ。だがなんとか肯定の言葉を口にしながら頷くことが出来た。
彼女の精一杯の勇気を受け取ったセリウスは、肩に回していた腕をケルティの背中で交差させてぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、ケルティ。この命に代えても、僕は君のことを守り必ず幸せにすると誓う。だからどうかこの僕と共に生きて欲しい。…心から愛してる。もっと沢山伝えたいことがあったのに、ちょっと今はこれ以上の言葉が思い浮かばないや。」
「わ、私も。だから……その…ありがとう…」
「ああもう大好きっ」
気合いで絞り出した同意を示すケルティの言葉に歓喜したセリウスは、彼女が苦しくならないギリギリまで腕の力を強めた。
ケルティも全身の力を抜き、彼の腰に軽く両腕を添える。
彼の優しさに包まれる幸福を噛み締めていた。




