海の味
「N-C0001、お前の所有権はサトミ・アイサワに移った」
皺一つ無い隊服を着込んだ男に言われて、青年は静かに頷いた。その反応に不機嫌になりながらも、男は手に持った一通の手紙とカードを青年に投げつける。
青年の額には『N-C0001』の刺青があった。それが彼に与えられた最初の名である。
「ドクター・アイサワのお前宛の手紙と部屋の鍵だ。お前が処分しろ」
「はい……」
特に感動もなさそうな表情の青年に背を向けて、男は立ち去っていく。
N-C0001と呼ばれた青年は、落ちた手紙とカードを拾い上げる。バーコードのついたカードを視界に入れて、青年は悲しみに顔を歪めた。
彼のオリジナル――相沢和也が死んだ。三十になる前に博士号を取った天才は、一陣の風のようにこの世を去る。享年三十五歳の若さだった。
研究・実験用のクローンとしてN-C0001というコードを付けられたが、青年はオリジナルのもとに届けられた。
通常、クローンは遺伝子の研究者によって実験されるはずの存在だ。オリジナルの人間では問題のある実験を受けさせる為に、軍部は秘密裏にクローンを作成している。そして、日々遺伝子の研究を重ねているのだ、作り物の命を使って。
N-C0001も、そうやって短い生を終えるはずだった。しかし、彼は実験に使用されなかった。ただ、オリジナルの和也に雫と名付けられただけで。雫は和也の息子になった。
荷物まとめと掃除をするのに、雫は少し長めの黒髪をゴムでまとめる。かつて和也がパーカーを着て鏡の前に現れれば、出会った頃の和也が鏡の向こうにいた。
しかし、鏡の向こうの和也は、和也ではなく雫だ。それに言いようの無い寂しさを感じつつ、雫は手近の本から積み上げていった。
テキパキと分類してから、息をつく。ロボットと違って、クローンは人並みに疲れを持っている。だから、クローンを培養液の外で育てるなど、和也は本当に奇特な学者なのだ。
雫はキッチンの椅子に座ると、エプロンのポケットにしまっておいた手紙を取り出す。そこには、まぎれもなく和也の字で「雫へ」と日本語で書かれていた。
泣きたいような気持ちになりながらも、雫は封を切った。
雫へ
これを読んでいるという事は、俺は実験室を大破でもさせたか、例のウィルスに感染して隔離されたか・・・そういう事だろう。どっちにしろ、お前の所には戻ってこれない。すまないな。
――心のこもっていない謝罪だ。
あの無責任な笑顔とともに想像してしまうため、雫にはそう思えてしまう。
そもそも、この手紙とかをカールに託す事自体が不服だが……俺に友人はいないからな。ヤツのクローンの扱い方は直して欲しいものだが、仕方がないと思ってくれ。
そう書いてあるために、雫の脳裏にはあの軍服の男が浮かんだ。
本当にアイツに預けなくても良いのに、と雫は思ってしまう。あの軍人の鏡による差別は、雫にとって少々きつい物があるのだ。
あの、クローンを人間として見ていない目は、生まれた時に周りにいた科学者を思い出させる。否応なく思い知らされる。自分が、作り物の命だと。
一応、ここにはお前のこれからの身の振り方を記す。しっかり覚えておけ。
この部分だけ、異様に丁寧な文字にしてあるため、雫は思わず体を硬くした。固唾を飲み、そっと次の行へと視線を移す。
お前は今日から日本に行って、俺の息子として振る舞え。
雫はその一文だけを読んで凍りついた。
飛行機で飛ばされ、雫は日本の相沢聡美――和也の母親――の所有物となった。
額のナンバーは前髪で隠し、巨大なバッグを持って雫は日本へと来た。ちなみに、バッグの中身は和也の日記とアルバム等の遺品だ。研究資料は等は軍部に押収されていた。
彼岸花が咲く、夏と秋の境い目にあたる日。着いた先は海の近くの一軒家だった。潮風の香りと潮騒が通り抜ける場所は、金属をいとも簡単に酸化させていた。そんな、二階建てですらない家だった。
何だかんだで夕方までに和也の実家の前まで来た雫だったが、ふと不安になった。そもそも、相沢聡美に連絡がついているのか、と。
「だ、大丈夫だよな……?」
独り言を呟いて、雫は木造建築の日本家屋の戸を開けた。軋んだ音をたてて辛うじて開いた戸の先は、本当に静かだった。
幽霊屋敷、そんな言葉が雫の脳裏をかすめた。こんな家には、赤い和服の幽霊でも出そうだと。
静かな場所に大きな金属音が鳴った。雫は思わず背筋をピンと伸ばし、音の方へと目を向ける。それは、風で転がった金属製のバケツの音。
不安にかられながらも、雫はそっと家の方へと声をかけた。
「おばあちゃん? いますか?」
しかし、家の奥から声はなかった。それにより一層不安を感じて、雫の顔が泣きそうに歪む。
「おばあちゃん、雫です。いらしたら、返事を――」
その時、唐突にダンボール箱が動いた。その現象に、雫は声のない悲鳴をあげる。いや、むしろ恐怖で声が出ない。
震えのせいで歯を鳴らしながら、雫はひとまず後ろへとさがった。違う家かもしれないという希望をもって、戸の脇にある表札を見る。しかし、そこにはしっかりと「相沢」の文字があった。
ポケットに入れた地図を取り出し、何度も周囲を確認する雫。しかし、どうあがいてもそこは相沢和也の実家だった。そもそも、オリジナルの和也は天才でならしていた人物である。同じ遺伝子を持ち、かつ和也本人に育てられた雫が、地図を間違えて読むなどありえない。
「和也……本当に、ここだよなぁ?」
涙をためながら、雫はもう一度地図に目を落とす。和也が地図を間違えていれば希望は見えるのに、この地図を作ったのは和也ではなくカールだ。仕事に関して信用しない人間はいないほど、あの男は几帳面で真面目だ。
「ど、どうしよう……」
雫は戸を開いたまま呆然と立つ。生まれた時には五歳の体を持っていた雫は、外見は十八歳でも、実質は十三歳。経験があまりにも無かった。
「だれだぁ?」
真後ろから年老いた声に、雫は跳ね上がった。何が何だか、混乱している雫は勢いをつけて声の方へと顔を向ける。
杖をついた老婆がいた。老婆の顔を、雫は写真で覚えていた。
「聡美おばあちゃん!」
雫の声に老婆が笑った。
「おぉ、もう来たんかい。まぁ、あがらっしゃい」
落ち着いた雰囲気の老婆は、さっさと家に上がる。
雫は慌ててその後についていく。
中はかなり汚い状態だった。白い埃のために足跡がついてしまう。
「ちょうど病院から帰ってきてよぉ」
そう言いながら老婆は奥の台所へと入っていく。雫は薄い上着の袖を無理矢理口もとに押し当てて、老婆のあとをついていく。
たどり着いた台所も、やはり蜘蛛やらその他もろもろの昆虫等の住処と化していた。おかげで雫は、あともう少しで灰になりそうなほど自失している。
「茶、入れてやっからな」
老婆の言葉に、雫は慌てて老婆から茶筒を取り上げた。
適当に掃除をしてお茶を老婆と飲んだ雫は、困った。当然と言えば当然だが、老婆と雫に会話が無かったのだ。
和也といる時も、時折全く会話がなくなる事があった。それでも、相手が『同じ』人間だという事もあってあまり不安を感じずにいた。
白髪の老婆にここまでとまどう雫だったが、習慣なのか彼はてきぱき夕食を作っていた。しかも、お婆ちゃんのために完璧な日本食を。
「そんな、気にせんでえぇに」
「僕は慣れてるから平気だよ」
気を使っているらしい老婆に笑って見せながら、雫は料理を皿に移していった。台所は、先ほどの面影を残さずに雫によって綺麗にされた。
畳の部屋の小さなちゃぶ台の上に並べられる料理たち。ご飯、お味噌汁、お漬物、煮物。健康に気を使ったらしい雫の心がよくわかる。
「はい、食べよう」
楽しげに言いながら、雫は老婆の隣へと座った。実質年齢よりも幼く言った雫を見て、老婆は「よしよし」と頭を撫でる。
最初の内はされるがままになっていた雫だが、やがてやられている事の恥ずかしさに気付いて老婆の手をはらった。
「ほんに、よぉ戻ってきたのぉ、和也」
しわくちゃの顔をさらにしわだらけにして、老婆は嬉しそうに言った。雫ではなく、和也と。
「僕は和也の養子で雫ですよ」
苦笑しながら、雫はそう言うしかなかった。
和也は結婚していない、というのが事実だ。しかし、その場合はどうして息子の雫がいるのか、雫の母親は誰なのか――そう言った問題が出てくる。
倫理の問題を考慮すれば、クローンの存在など許されるはずも無いのだ。
つまりは、雫の存在自体が犯罪。
だから、『養子』と言うしかない。しかし、瓜二つどころか遺伝子が同じ二人で養子、と言うのも滑稽だった。
だが、老婆は首を傾げるとおかしそうに笑う。
「何言ってんだぁ。おめぇは和也だぁ」
「だから、僕は――」
「オレが腹痛めて産んだ和也だぁ」
そう言って老婆は雫の頭を抱いた。混乱しかけた雫は、慌てて老婆を自分からはがした。すると、老婆は目に見えて悲しそうに顔を歪ませる。
雫に、もう否定の言葉は言えなかった。
自分は所詮、和也のコピーだ。オリジナルには決してなり得ない。
――しかし、自分の顔はどうだ?
自分の顔に手を触れて、雫は思う。
この顔を見て、和也を知っている人間が和也を思い出さないはずがない。雫を“雫として見てくれる”のはこの世に和也一人だけだという事に、今さらながら気付かされる。和也は同じで、違ったから。和也と雫だけが、互いの違いを解かっている。他の人間に、和也と雫の違いなどわかりはしない。
「と、とにかく食べろよ……“母さん”」
生まれた時の刷り込みから、雫はそう口に出していた。『人間』に決して逆らえぬ、クローンのすり込みのために。それでも、ただ「母」と呼ぶだけで安堵の表情になる老婆が、雫は哀れで仕方なかった。それが“自己”を否定されたと言うことになっても、雫は気付かない。
――ただ、一緒にいられる間まで。
雫は彼女に夢を見せる事にした。
小さな風呂からあがった雫を待っていたのは、床に布団を敷く老婆だった。
「俺がやるよ」
苦笑しつつ老婆の布団を手にとって、雫はふと老婆のベッドを見た。
そこに、あってしかるべき掛け布団は無い。
「母さん……」
どうやら、今雫のために敷いていた布団は、もともとこの老婆の物らしい。
「おめぇが使え。オレは大丈夫だぁ」
「いや、俺は寝袋を使うよ。母さん、ベッドの方が起き上がったりするのが楽だろ? 今移動する――」
布団をベッドに戻そうとする雫の手を、老婆の手が掴んでいた。
別に力が強いわけではない。それでも雫は動けなくなった、この老婆の目に。
「母さん……」
「おめぇに世話かけてばっかだぁ。こんくらいはさせろ」
そう言われてしまうと、雫としてもどうしようもない。しかし相沢聡美もこの年だ、布団なしに寝かせられる体ではない。
「うぅ……じゃあ、一緒に寝る?」
思わぬ雫の提案に、老婆は一瞬面食らった。雫としては、老婆の要望も飲めて、老婆の体調も安心な方法を言っただけだ。
雫は布団を綺麗にかけると、老婆には普通の枕を、自分は寝袋をたたんで枕にする。
「ほら、母さんも風呂に入ってきなよ」
そう雫が促すと、老婆は嬉しそうに風呂の方へといった。
老婆の様子が嬉しくて、雫は思わず顔をほころばせた。
その夜、彼は初めて人の温もりとともに目を閉じる。それは冷たい培養液の中とは違う、きっと和也にだけ許された温もり。
この温もりを独占できる死んだ和也に、雫は嫉妬した。それと同時に、死んでしまった彼を憐れんだ。
聡美は体が悪く、やはり七十という年の体はガタがきていた。雫が来る前も入院したらしく、聡美はよく「死ぬ前にもう一度会えて良かった」と笑った。そして、それは雫の心をえぐる。本当の和也は、もう死んでいるのだから。
しかし、雫は周囲の人間にも和也が死んでいる事は教えられなかった。和也の死因は『マザー』と呼ばれるウィルス兵器の実験による失敗。まだ、表に出ては困るウィルス兵器での死者を、軍は公表するわけには行かなかった。そして、和也の表向きの死因が決定するまで、雫は他者に和也の死を教える事を許されない。外に放り出される直前に雫が受けたすり込みだった。
故に、彼はこの家を離れられず、真実も言えなかった。
「和也、おやつだぞぉ」
老婆の声に、雫は洗濯物を急いで取り込んで声のほうへと飛んだ。
ほくほくの笑顔で迎える老婆に苦笑して、雫は座敷を見た。ちゃぶ台にはお箸が一膳とおわんの中にお汁粉があった。
「おめぇの好きなしるこだぁ」
――お汁粉が好きだったんだ……。
ファーストフードばかり食べていた和也の意外な一面に、雫は苦笑する。「料理はしないの?」と雫が聞いたとき、「面倒」と一刀両断されたのは雫が生まれて三ヶ月ぐらいだった。
雫がお汁粉の前に座ると、聡美も雫の顔が見えるように腰をおろした。
「いただきます」
丁寧に礼をしてから雫は箸をつけた。中には、白玉が浮いていた。
一口食べて、雫は青ざめた。
甘いはずのお汁粉が、限りないまでにしょっぱい。
「か、母さん……」
「うんめぇか?」
ニコニコ笑う老婆に、雫は言えなかった。お汁粉の味が海水だと。
しかし、老婆の手元には大きな鍋で自分の存在を誇示するようなしるこがたっぷり。
「あ、後は全部俺が食べるよ!」
慌てているのを悟られないように必死に声を静めて言おうとする雫だが、あまり努力は実っていない。しかし、そんな事に構っていられるわけでもなく、雫は老婆から汁粉を奪って冷蔵庫に押し込む。あの汁粉を老婆が飲んだら、血圧の急上昇で死にかねない。
「そっかぁ」
のんびりと言う老婆に、危機感の文字は無い。
雫はやや脱力しつつ、洗濯物をたたみはじめる。その横へ老婆がやってきて、やはり洗濯物をたたみ始めた。
畳の上でののんびりした時間。和也と二人で暮らしていた時は勉強詰めで、風を感じる余裕も無かった。そして、その余裕が生まれたのは、この“母”が現れたからだと雫も実感している。
――母さんって、こんな感じかな。
試験管で生まれたような物の雫に、母親はいない。“母”が与える安らぎとは、こんな物なのだろうかと想像しても、実感はできなかった。
だから、雫の顔も少しだけ緊張が解けたように穏やかだった。常にテキパキ動いていた彼だが、本来の彼は時間の流れがゆるやかなのかもしれない。
洗濯物があらかたたたみ終わり、あとはタンスにしまおうと思った雫に、老婆から思わぬ質問をされた。
「おめぇ、働かねぇのか?」
雫の頬を大量の汗が伝う。
そもそも、彼に戸籍は無かった。
少し離れた場所にある銀行で、雫は自分の貯金の状態を確認した。日本円で五八〇〇万、この異様な金のほとんどは和也の物だ。
だから、この金は本来は全額母である相沢聡美――あの老婆――の物だ。それ以前に、彼が本当に所有できる金など無い。
「入院費用ってかかるんだろうな……」
ポツリとそう言って、雫はふと思った。
この街の人間――相沢聡美を除く――に、一度も“和也”と呼ばれていない。いや、そもそも和也の知り合いらしき人間にすら会っていない。
少し首を傾げつつ、彼は一先ず下ろしたお金で何を買うかを思案しながら白い銀行を出た。
帰ってきた家に、人の気配はなかった。それでも、玄関に靴はあった。
人の居ない風の通る家
人が居ない静寂の部屋
見当らない、あるべき気配
見つけられない、いつもの気配
自分の吐息だけが五月蝿くて
貴方の声が聞こえない
別れの警告
二度目の?
雫の心がざわついた。
台所、居間にも、ベッドにも、庭にも。老婆がいない。
置いていかれた
また?
遠い世界に
届かない場所に
体の震えが、雫自身にも自覚できた。
――失う事は、嫌だった。
お風呂場を開けると、老婆がいた。
雫に置いていかれなかった安心感を覆うように緊張が走る。
老婆は頭を抱えたままうずくまっていた。
一瞬、雫の頭は真っ白になったが、老婆に声をかける。
「どうした? 頭が痛いの?」
目を瞑って痛みに耐えている老婆は、ひとつ頷いた。
「どこらへん?」
声を抑え、耳元で聞くと、老婆は首の付け根のあたりを示す。
――後頭部、それにこの痛がりようは……。
「動ける?」
その問いに、老婆はさらに眉をしかめる。
「動けないんだね?」
そう問い返すと、眉がわずかにゆるむ。老婆の手を雫が握る。老婆の手は、汗でぬれていた。
「横になる?」
老婆は頷いた。
雫が使っていたハンドタオルを枕にして、足マットを敷布団のかわりにする。そしてベッドまで抱きかかえようかと考えて、止めた。
――素人が動かしちゃダメだ
雫の冷静な部分が警告する。
「今、救急車を呼ぶからね」
それだけ言って、雫は家の電話を使って119番を押した。携帯電話で通報すると場所の特定に時間がかかる事ぐらいは、雫は知っていた。
「和也ぁ」
呼ばれた雫はすぐに電話を切った。場所を症状を告げるだけで、処置の方法を全く聞いていなかったが、呼び声に答えないわけには行かなかった。
急いで風呂場へと走り、老婆の顔を覗き込む。
老婆には、雫の顔が見えていないようだった。
「ごめんなぁ、和也ぁ」
かすれた声で呼びつづける老婆は、手を彷徨わせて息子を探す。その手を取って、雫は自分の頬に寄せた。
遺言のようだ――そう思う雫は、自分の顔が青ざめている事に気付いているだろうか。
死んだ息子を見る母は、目に涙を浮かべてこう懺悔した。
「おめぇをあんなヤツに渡して……おめぇに何もしてやれなくて……」
雫の瞳に、涙が生まれた。
和也が死んだ時とて泣きたい気持ちになっても、涙を流す事は出来なかった。それは自分が不完全だからだろうかと、雫も思わなかったわけではない。それでも、泣けなかった。
その涙は和也を哀れに思う涙か、本物の息子を抱けないこの老婆のための涙か、一人にされる自分の運命を呪っての涙か。
老婆の体から力が抜けると、老婆の声もかなり小さくなった。故に、雫にはもう彼女の言葉は聞き取れない。
電話をして十分弱、救急車が到着するとほぼ同時に老婆は目を瞑った。眠っているように見えた。
近所の人たちが念仏を唱えている裏手で、雫は冷蔵庫の中に封印したお汁粉の鍋を取り出した。ひんやりと冷たくなった鍋の取っ手は、作られた当初とはまるで別物のようだった。
相沢聡美は急いで病院に運ばれ、脳の検査を受けた。頭痛を訴えていた通り、老婆は脳梗塞だった。
脳梗塞で使える治療法は、現状では点滴しかない。脳梗塞に有効な薬が健康保険に認可されていないと言う事実が、田舎にある病院に別の治療法を使わせない理由だった。
自然治癒を期待するしかない状況で、症状が急変。心筋梗塞まで起こした老婆は、ほんの数時間の間にこの世の人ではなくなった。
『おめぇの好きなしるこだぁ』
老婆の幻影が、洗い場で雫に笑った。
短すぎて、思い出を作るどころではなかったのに、老婆は雫の心の中に刻まれる。自分自身の名ではない名で、自分を呼ぶ老婆はもうここにはいない。
洗い場に置き去りにされたスプーンを使ってお汁粉を舐める。やはり、お汁粉はしょっぱかった。
“これから”の事など、まだ雫には考えられない。だから、しばらくの間はあの老婆と自分の“親”の事を思って涙を流そう。自分はもう、不完全ではないのだから、と。
伝ったそれがしょっぱくて、雫にはお汁粉の味か涙の味か、判別できなかった。ただそれが、海――母さん――の味だと、そんな風に思った。
了
読んでいただきまして、ありがとうございます。
三年前ぐらいに書いた代物です。読んで頂いた方をちょっとでもウルウルさせる事が出来たら成功かな?
ご感想・ご批評、頂ければ幸いです。