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束の間の休息

 聖華暦833年 7月1日


 嫌な夢を観て、目が覚めた。

 時計の針は午前3時になったばかり。


 全身からじっとりと汗が滲んでいて気持ち悪い。

 喉が渇いている。

 テーブルの上の水差しから水をコップへと注ぎ、喉へと流し込んだ。


 少し温くなった水はそれほど美味しくはなかったが、それでも喉が潤った事で、僅かばかり気持ちが和らいだ。


 それから夜風を浴びようと窓を開けた。

 湿気を含んだ風はヒンヤリと心地良く、僕はようやく落ち着いた。


 改めて、さっきまで見ていた夢を考えた。

 以前にも観た光景だった。


 まん丸で、真っ白い月。

 見上げた夜空の真ん中に、ぽっかりと浮かんでいる。

 淡く蒼白い月の光は森の木々の合間を縫って、思いの外明るく周囲を照らす。


 僕はぼぉっと満月を見上げ、ふと足元に視線を落とす。

 足元まで広がっている紅い血溜まり……。

 その傍に、事切れて物言わぬ男が一人、地面に突っ伏している。


 忘れたことは無かったけれど、夢に観たのは初めてだった。


 こんな夢を観た原因は明白だ。


 先日の、帝国統括騎士會での出来事。

 ビクトル・ライネリオの持つ『恐慌の魔眼』の力で観せられた、あの幻影のせいだ。


 視えたのは、僕の姿をした、暗い、真っ黒い、血塗れの、獣のような、僕、紛れもなく僕の姿。


 どうしようもなく、恐ろしかった。


 ルイーズさんは、『恐慌の魔眼』はその人の最も恐ろしいと感じるものを観せるのだと言った。


 だから、僕が最も恐れているのは僕自身、という事になる。


 いや、違う。

 正確に言うなら、僕自身が自覚している、心の中に巣食う闇、獣のような人殺しのその姿を視せられたのが、本当に恐ろしかったのだ。


 また気分が滅入ってきた。

 時計は3時半になっている。

 けれども目が冴えて、もう眠れそうに無かった。


 *


「おはようございます。」


「おはようございます、リコス様。……顔色が優れませんね。どこか具合でも?」


 いつも通りに振る舞ったつもりだったが、いともあっさりと見抜かれてしまった。


「いえ、そうではないです。早くに目が覚めてしまって、それから眠れなかったんです。」


「まぁ、それはいけません。少し失礼します。」


 そう言って、エミリさんは僕の額に右手を添えて自分の額を押し当てた。

 彼女から清潔な石鹸の香りがして、僕の鼻腔をくすぐる。

 頬が熱を帯びたように熱くなるのを感じた。


「熱は無いみたいですね。」


 彼女の顔がとても近い。

 それだけで、心臓の鼓動が速くなる。


「リコス、今日のトレーニングは中止だ。」


 突然、オルテア様が言いました。


「師匠、僕は大丈夫です。」


「今日のお前は明らかにコンディションが悪い。そんな時に無理をしてもかえって逆効果だ。……エミリ、今日はリコスと一緒に遊びに行きなさい。」


「まぁ、ご主人様、よろしいんですか?」


 オルテア様からの思いがけない提案に、エミリさんが喜色を含んだ声を上げた。


「えっ、でも……」


「リコス、いいな。」


「……はい。」


 結局、師匠の言いつけには逆らえず、エミリさんと遊びに行く事になりました。


「朝食を食べたら部屋に戻って少し寝なさい。」


「判りました。」


 僕は席に着くと、上機嫌なエミリさんの並べる朝食を食べ始めた。


 *


 午前10:25


 朝食を食べてお腹が膨らむと急激に眠気に襲われ、そのまま部屋に戻ってベッドへ倒れ込んで寝てしまった。


 10:00前に目が覚めて、そこから支度をしてこれから出掛けるところだ。


「リコス様、それでは参りましょう。」


 エミリさんの声が弾んでいる。出掛けるのがよほど嬉しいらしい。


「それで、何処へ行きます? 僕はあまり詳しくないのですが…」


「任せてください、ご主人様からお小遣いも頂いています。今日は私がエスコート致しますよ。」


 ニッコリ笑ってそう言うと、僕の手を引いて歩き出した。

 白くて柔らかい手。

 エミリさんと手を繋いでいると、掌から彼女の温もりが伝わってくる。


「……と言っても、私も最下層くらいしかよく知らないのです。なので、今日はそちらに参ります。」


 ここ、帝都ニブルヘイムは街が三層構造となっており、第一層は皇帝陛下が座する皇宮と貴族街、第二層は軍事施設となっている。

 そして、これから行く最下層は一般市民の生活する市民街だ。


 僕がニブルヘイムに来てからは、第一層で生活していて、それ以外にはまだ行った事が無かった。

 だから、最下層に行く事は少し楽しみでもある。


 貴族街と最下層は直結した回廊があり、そこを通って行く。

 第二層は軍事施設である関係上、出入り出来る場所は限られている。

 まぁそれは、今日のところは関係ないか。


 検問を抜け、最下層へとやって来た。

 静かな貴族街とは違い、人、人、人の海。

 あまりにも人が多く、それゆえに活気に満ち満ちている。


「さあ、参りましょう。はぐれないように手を離さないでくださいね。」


「はい。」


 手を繋いだままなのが、なんだか気恥ずかしく、落ち着かない。

 でも、エミリさんは僕の事などお構いなしに歩を進めている。


 やがて、ある屋台の前で立ち止まり、店の主人に声をかけた。


「おじさん、その串を二つくださいな。」


「ヘイ、毎度。熱いから気をつけなよ。」


 はい、と手渡されたのは、厚切りの豚肉を塩焼きにした焼き串だった。


 僕がキョトンとしていると、エミリさんは自分の串に齧り付いた。


「んん〜、美味しい。」


 すごく、良い笑顔だ。

 僕も串に齧り付く。口の中に甘い肉汁が溢れ出し、塗された塩が程よいアクセントになっている。

 気が付けば無心で食べ進めて、あっという間に無くなってしまっていた。


「どうですか?」


「美味しかったです。」


「ふふっ、良かった。さあどんどん行きますよ。」


 その後は、僕達は食べ歩き、店を覗き、買い物をして、最後に陸上船舶の湾口へとやって来ていた。

 ここで、初めてエミリさんと会ったんだな……


 帝都と外界を隔てる防壁の上、そこから外の荒野が一望出来た。

 荒野に降りれば、そこは弱肉強食の死の世界。

 危険な魔獣が闊歩して、それなりの武装が無ければ生きていくのも困難な危険な場所だ。


 けれど、夕陽に照らされた荒野は意外にも美しく、そんな事を感じさせない。

 そうは思ったけど、僕の胸に燻るモヤモヤは晴れてはくれなかった。


「リコス様、今日は如何でしたか? 楽しんで頂けましたか?」


 エミリさんが僕の顔を覗き込む。その表情は、少し心配そうだった。


「ええ、とても楽しかったです。今日はありがとうございました。」


 楽しかったのは嘘では無い。無いのだけれど、やはり引っかかったものはなかなか取れてはくれないようだ。


「それは良かったです。………リコス様、なにか心配事がありますね?」


 少し、ドキリとした。


「……判りますか?」


「ええ、どこか心ここに在らず、という感じがしましたから。」


 僕は周りから、何を考えているかわからない、とよく言われて来た。

 でも、エミリさんは僕の事をなんでも判るんだな。


「私も貴女の力になりたいんです。……話して、もらえませんか?」


「………」


 僕は、何も言え無かった。

 彼女には話を聞いて欲しい。その感情は確かにある。

 だけど同時に、怖い。


 話をして、彼女に、エミリさんに嫌われる事、軽蔑される事………

 僕が人殺しだと知られてしまう事が、なによりも……怖い。


「やっぱり…私では、お役に立てませんか?」


 彼女の少し悲しそうな表情に、僕の中で言いようのない罪悪感が芽生え、胸をチクチクと刺した。


「少しだけ……時間をください。」


「わかりました。話したくなったら、何時でも言ってくださいね。」


 彼女の寂しそうな笑顔に、胸が締めつけられる感じがした。

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