10.夜会にて その5
妙に甲高い破砕音の出所を見た聖女様が、ぽかんと口を開けているのが視界の端に映った。頬を引きつらせてこちらを見るヘリオンの表情も窺えたが、気にするどころではない。
手持ちのところが砕けた扇からパラパラと細かい破片が落ちていき、残った破片が掌に食い込んでいくが、それすら気にならない。目の奥が熱く、目の前が真っ赤に染まるのが自分でもわかった。にも関わらず、頭の芯がすっと冷えていく感覚がある。その冷えと共にわたくしの魔力が周囲に漏れだしていくのがわかるが、止められない。
「……おっしゃりたいことはそれだけですか、ナイトレイ侯爵様。本当に残念な方ですわね。貴方は何一つわかってらっしゃらない。えぇ、何一つ」
「生意気な!何が言いたいんだ!」
「ねぇ、侯爵様?どうして人一人が生活していて、何の縁もないと思えるのですか?人の人生とは血縁だけに縛られるものなのですか?血縁者がそんなに重要ですか?確かに向こうの世界で血縁者がいらっしゃらない聖女様が孤独だったのかは、聖女様の胸の内をお聞かせいただかなければわかりませんわ。
ただ、残された者の気持ちを考えることは出来るはずですわ。考えてみてください。ある日突然友が謎の光に包まれ攫われてしまう絶望を。手を伸ばしても届かない、助けることもできない、何もできない無念さを、大事な友人にもう二度と会えなくなるかもしれないという悲しみを……貴方は推測することが出来ないのですか?」
「アシュリー…?!」
驚いたような声色で聖女様がわたくしを呼ぶ。
「それがどうしたというのだ!所詮他人だろう!聖女様はこちらの世界で幸せになるとでも思っていれば諦めもつくだろう!」
「血縁がなければ所詮他人だとおっしゃるのですね。それではナイトレイ侯爵夫人がある日突然異世界に攫われても同じことが言えるのですか?
他の方々も考えてみてくださいな。ある日突然隣にいる友が、敬愛する恩師が、愛する婚約者や恋人が、配偶者が消えてしまう事を。もちろん消えてしまった後の行方は分からないのです。幸いこの世界では聖女様の衣食住は保証されますが……別の世界では異世界人を奴隷とするために召喚しているのかもしれません。何らかの生贄としてかもしれません。もしかしたら、最愛の人と出会って幸せになっているかもしれません。そのような事、残されたこちら側には一切伝わらないのです。それでも許せますか?諦められますか?……わたくしは諦められない……」
最後の囁きは周囲に聞こえたのかどうかはわからない。だけどわたくしは諦められなかった。だから今ここに立っている。
何度こぶしを叩きつけても壊れない光の壁。段々消えていく親友の姿。私を呼ぶ声。何故か今になって鮮明に思い出すあの日。
「だからわたくしは探すのです。聖女様をお戻しできる方法を。そもそも聖女様をお呼びしなくともこの世界の人間が生きていける方法を。もう二度と絶望を繰り返さないために」
会場内が静まり返る。これで少しは伝わってくれるといいのだけれど。異世界召喚の辛さを。残された者の悲しみを。
そっと近づいてきたセルジュ様に肩を抱かれる。そのぬくもりに冷え切っていた指先まで血が通っていくのがわかる。
ちらりと聖女様の方を伺うと、じっとこちらを見ていた。何かを推し量ろうとしているようだ。
「黙れ黙れ黙れ!!それが何だというのだ!そんな聖女の小娘一人、不幸になろうがどうだっていいのだ!とっとと呼ばれた目的を果たせば、生きようが死んでようが関係ない。その心のうちなど私が考える必要などない!まして異世界に残された者のことなぞ、私には関係ないのだからな!所詮異世界人!我々とは相いれぬもの!そんな得体のしれない女など使い捨てで十分であろうが!」
「何という事を!」
セルジュ様の目が剣呑な光を帯びる。
「うるさいうるさいうるさい!何故思い通りにならないのだ!私の娘が王太子妃になって、次期王妃の後ろ盾となる!それこそ私にふさわしい!私に力を!私にはそれだけの価値がある!聖女など不要!!不要不要不要!私の邪魔をするものはもっと不要!聖女など聖女など!!セイジョセイジョセイジョ…コロスコロスコロス…」
言っていることが支離滅裂である。そもそも彼が排除したかったのはわたくしだったはず。
あまりのナイトレイ侯爵の変わり様に周囲の人間がますます距離をとる。
そのような中、聖女様の切羽詰まった声が響いた。
「その人から魔障が出てきてる!心臓のあたり!」
その声に周囲に配置していた騎士達に一瞬の動揺が見られる。聖女様の薄い魔障が見える目の事は知っていても、実際目の当たりにした時の困惑が表れた形だ。
その隙をつくかのようにナイトレイ侯爵から魔障が噴出し、それが錐のような形をとって聖女様に向かっていくのを見た瞬間、身体が動いていた。
「みゃーちゃん!危ない!!!」
聖女様とナイトレイ侯爵を結ぶ線上に身を躍らせる。錐状になった魔障が身体を貫き、心臓がどくりと嫌な軋みを上げた。
物理的に刺された痛みは感じないが、じわじわと何かが侵食してくるのがわかる。これが魔障に憑りつかれるという事なのだろうか。
聖女様の表情が驚愕に彩られるのが視界の端に映ったが、その視線を無理やりナイトレイ侯爵の方へ移す。既に侯爵は周りの人間が見てもわかるほど魔障に包まれていた。
「アシュ!」
セルジュ様が駆け寄ろうとするが、護衛騎士たちに阻まれている。聖女様も同様だ。
ナイトレイ侯爵を見ると、魔障に侵され既に意識を失っているように見える。ふらふらと動く身体を支えているのは、心臓のあたりから噴き出している魔障のようだ。
聖女様にはまだ人一人を浄化する力はない。しかし、ここでナイトレイ侯爵を魔障に侵された魔獣と同様に排してしまうと、真相が闇に包まれてしまう。
想定とは違ったが、やっとここまで来たのだ。このまま真相がわからないのは手痛い。
ここまでおぜん立てしてくれたセルジュ様やお兄様の尽力も無に還ってしまう。
その瞬間、覚悟を決めた。まだ人に使ったことはないが、魔力の消費量が激しいだけでほぼ完成していた浄化魔術。それをナイトレイ侯爵にぶつける。
徐々に魔障に侵食されていく身体に気合を入れ、術式を組む。それに気づいたテオが叫んだ。
「やめてアシュリー嬢!魔障に絡まれてる状態で浄化魔術を使ったら君自身が危険だ!」
それでも止めることはできない。術式が完成するまであと少し。
テオの叫び声にセルジュ様が反応する。
『アシュリルーナ!術式を止めろ!!』
セルジュ様と家族だけが知る真名を用いた制止が聞こえる。これは最上位の強制力を持ち、本来であれば止まらざるを得ない。それにも関わらず、わたくしの術式は止まることなく完成した。
『アシュリルーナの名において!浄化せよ!』
「なっ?!何故止まらない?!」
真名を術式に組み込んだことによりごっそりと持っていかれる魔力。侵食が止まらない魔障。身体が限界を迎えたらしく、前のめりに倒れていく。このまま倒れたら顔面が痛そうだなと、詮無い事を考えてしまった。
倒れていく視界の端に倒れこむナイトレイ侯爵の姿が見える。どうやら浄化魔術は成功したらしく、魔障は確認することが出来なかった。本当に成功しているかは、聖女様の目視と、ナイトレイ侯爵の意識が戻ってからになるだろう。
ふっと、床に顔を強打する直前で身体を支えられた。この香りはセルジュ様だろう。どうやら護衛騎士を振り切ってきたらしい。
「何故!アシュ!」
「……わたくしも魔障に侵されています。どうか、お放しください……」
仰向けにされ、セルジュ様の泣きそうなお顔が見えた。なかなか珍しい表情だなと、どこか冷静な頭の片隅で思う。
「アシュリー!!!」
聖女様が近づいてくるのが霞んできた視界にも映った。これだけは伝えないと。
「みゃーちゃん。黙っててごめんね……騙しててごめんね……元の世界に還せなくてごめん……みゃーちゃん……この世界がごめんなさい……」
「あーちゃん!?あーちゃんなの?!死ぬような事言わないで!せっかく気づいたのに!まだ全然話を聞いてないよ!!私聖女だからこれ浄化できるでしょ!消えて!この魔障消えて!!」
ぎゅっと聖女様、いえ、みゃーちゃんに手を握られる。
それはあの日掴みたかったのに掴めなかった、掴むことを切望した、もう二度と掴むことはできないと絶望した、大事な親友の手だ。
「魔障が侵食しています……わたくしの意識のあるうちにどうか……」
コロシテ……つぶやきは声になったのか否か。
視界が段々狭まる。最後に見たのはみゃーちゃんの泣き顔で。それはあの日と同じで。
「あーちゃん!!!」
そして、視界は白に包まれた。




