あの子が泣いていた
―――あの子が、泣いていた。
八畳間の和室。いつも雑多としていた部屋に、今日は人があふれているようだ。誰もが一様に黒い服を着ていて、誰もが一様に部屋の中央にある箱を見ていた。何が入っているんだろう。気になるけれど、のぞき込むことはできなかった。
とたとたとた、と足音が聞こえた。あの子の足音かな。あの子はいつも夕暮れのころに帰ってくるのに今日は早いなぁと思っていると、ガタンと襖を開ける音がして何かを叫んでいた。周りの人は驚いたようにそちらに目をやると、箱への通り道を開けていた。あの子は、一目散に箱へと駆け寄り、縋り付いて泣いていた。
泣いているのはなんでだろう。あの箱に何が入っているのだろう。気にはなるけれど、さっきより人が前に寄ってきていて、見ることはできなかった。ただ、あの子が泣くと、周りの人も涙ぐみ始めたから、きっと何か悲しいものが入っているのだろう。
しばらくして、一人、また一人と減っていった。あの子は泣きすぎたのか、箱に縋り付いたまま寝てしまったみたいだった。
いつも見る人が、あの子をゆすって起こしていた。「〇〇〇、起きなさい。これからお父さんを送ってあげないと。〇〇〇がそんな顔してたら、お父さんも安心してお空から見守ってくれないわ。」
小さな声だった。起こそうとしているのに何でそんな小さな声なのだろうって不思議だったけど、あの子には聞こえていたようで、少し身じろぎをしたうち、小さくにコクンとうなずいた。
そのうち外から何か音がして、きちんとした身なりの人が何人か入ってきた。うちの一人があの子たちに話しかけていた。「これから火葬場へと向かいますので、お父様とこの姿のまま会うのは最後になります。お別れのあいさつはよろしいですか?」
別れ?箱との別れが悲しいのだろうか。それなら……
たまたま箱は少し開いていた。何人かが箱を運ぶ準備をしているみたいだったけれど、目を盗んで箱の中に入ってみた。するとびっくり!箱の中にも人が入っていた!
あぁ、きっと箱との別れじゃなくて、この人との別れなんだな。と、ようやく合点がいった僕が辺りを見回していると、不意に光源がなくなって、少しの浮遊感と少なくない振動を感じた。ちょうどいいや。
そうして僕は、あの子の笑顔のために、準備をした。
お父さんが死んでしまった。
高校の授業中、不意に校内放送が流れて私を呼んだのでとてもびっくりして声を上げてしまった。友達からもクラスメートからも注目されるし、やっちゃったなぁ。
でもなんで呼ばれたんだろうと思いながら職員室へ向かうと、クラス担任の先生から、お父さんが事故で亡くなったと言われて、放送で呼ばれてびっくりしたことなど忘れるぐらい驚いてしまった。
お父さんは普通のサラリーマンだけど、優しくて、たまに一緒に遊びに行くような、仲のいい親子だった。そんなお父さんが、事故で死んでしまった?呆然としている私を、担任の先生は家まで車で送ってくれた。
家の近くの景色が見え始めると、だんだんと悲しさが増してきた。死んでしまったって言われてもそんなことないって思いたかったのに、家の近くにある何台かの車と外にいた黒い服の人を見て、お父さんは本当に死んでしまったのだという実感だけがあふれてくる。
外にいたおじさんは私に、「お父さんは和室で眠っているよ。顔を出してあげて。」と、優しく、でも少し悲しそうな顔で伝えてくれた。いてもたってもいられなくて、靴をそろえることも忘れて和室にかけこむと、襖をバンッて開けてしまってみんながこっちを向いた。
私は、そんなことは全く気にならなかった。部屋の真ん中にはテレビで見たような白い箱がおかれていて、よろよろと近くへと寄っていくと、中でお父さんが眠っていた。
そこからどうなったかはあんまり覚えていない。とても泣いた気はする。いつの間にか周りの人はいなくて、お母さんが涙の跡を残したまま、か細い声で起こしてくれた。お母さんもすごくつらいはずなのに、それでも気丈にふるまっているのを見て、私も、お父さんに改めてお別れを伝えないと、と思った。
そのうちに葬儀屋さんの人が来て、お父さんを火葬場に運ぶって教えてくれた。最後に一目お父さんの顔が見たいとお願いして、運ぶ直前だったけど少しだけ箱を開けて、改めて顔を見た。言いたいことはいっぱいあったけどまとまらなくて、ただ「これからも見守っていてね。」とだけ声をかけた。
霊柩車のクラクションが鳴った。故人を弔うためらしいけど私にはそれが本当の別れに聞こえて、また少し泣いてしまった。それでも、お母さんと一緒に火葬場へ向かわないと。
火葬場に着いたけど、すぐに火葬は始まらないらしい。火葬場の人は何かバタバタしてるけどなんかあったのかな。案内された部屋でお母さんと待っていると、しばらくしてノックの音が聞こえた。
扉を開けると、そこには。
―――お父さんが、笑っていた。