そうして神様は死んだ。
ゴポゴポと、
容赦なく籠の中に水が入ってくる。籠が水に飲み込まれていく。
湿った泥臭い匂いが鼻を突き、水の冷たさは身を切られるかと思うほどだったが、沈みゆく我が身に、娘はどこか安堵していた。
「神様」の私も、死んで黄泉の国へ行けるのだろうか…。
娘は、独りだった。
朝、しん、とした社の中で目を覚まし、冷たい井戸水で身を清め、祈祷部屋にて祈りをささげる。
太陽へ祈りをささげ、空へ祈りをささげ、雲へ祈りをささげ、風に祈りをささげる。
寝所に戻ると、音もなく用意された朝餉を食べ、井戸水で食器を洗って元の通りに置いておく。
午後は裏の森に入り、ご神木まで祈りをささげに行く。
道すがら、草木に祈りをささげ、川に祈りをささげ、大地に祈りをささげ、動物に祈りをささげる。
社に戻るころには、夕闇が降りてきている。
また、用意されている夕餉を食べ、洗った食器を元通りに置いておく。
まるで、食べ物だけが忽然と消えたかに見えるように。
寝る前に、今一度、身を清め祈祷部屋で星々に祈りをささげる時、祭壇の小さな丸い鏡には娘の顔が映る。
娘は、黒く真っ直ぐな髪と、明るい茶色の瞳をしていた。
黒髪・黒目が普通の中、娘の茶色い瞳は異質らしい。
だが、滅多に自分以外の人間には会わない娘には、それが本当かどうかはわからなかった。
唯一、直に会ったことがあるのは先代だが、彼女とて、娘と同じ見目だからこそ、ここに居たのだから参考にはならなかった。
物心ついた時には、娘は先代と一緒にこの社にいた。
先代とは、会話をしたことはなかった。
先代は、娘が居ようが居まいが関係ない様子で、淡々と毎日の務めを果たしていた。
癇癪を起そうが喚こうが、放っておかれた。お務めの作法の間違いだけは無言で諭された。
娘は、先代の様子を真似することでお務めの仕方を学び、覚えていった。
そして、毎日お務めをするようになった。
そうする他、どうしようもなかった。
1 0年ほど、先代とは一緒に暮らしたと思うが、終ぞ先代から感情の起伏を感じることはなかった。
先代亡き今、自分以外の人間を見るのは年に一度の大祭の時だけだ。
今年も娘は三重の御簾越しに微動だにせず座り、遠くで神楽が舞われる様子を感じる。
神官長が娘に榊を捧げながら祝詞を唱える。
―現人神様よ、どうぞこの地に幾年もの繁栄をお与えください。戦に武運をお与えください。と。
娘は、「神様」と呼ばれていた。
「神様」は人間に存在を悟られてはならない。ただ、静かにそこに在るだけでなくてはならない。
故に、娘は誰もが知る存在でありながら、誰もが知ってはいけない存在だった。
しかし、ごく稀に神域である森に迷い込む者がいる。
娘は一度だけ、森で人間に出くわしたことがある。
弓矢を持ち、鎧を着こんだ兵士のようだった。
男は娘を見ると、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに顔を取り繕い、瞳だけを落ち着きなく動かしながら、何でもない様子を装って来た道をゆっくりと戻っていった。
里人は全員心得ていた。娘に出会っても、娘が見えなかったように振る舞わなければならない。
人間が、「神様」の存在に気付くなどあってはならないからだ。
娘も男には気づかぬ様子で視線をずらしてゆっくりと歩いた。
そして、男の姿が見えなくなった時に、ふと地面でもがく小さな姿を見つけた。
つい、娘は近づいてしまった。
今思えば、人間に出くわしたことで、軽く興奮していたのかもしれない。
そこにいたのは、傷ついた雀だった。
娘は眉を寄せた。とても久しぶりに表情を動かした気がする。
そんなことよりも、この雀だった。
「神様」はそこに在るだけのもの。下界のいかなるものにも干渉してはいけない。
娘は悩んだ。悩むという感情さえ久しぶりだった。
雀の小さな瞳が、訴えかけるように娘を見つめ、ピィ、と助けを求めるかのように一声、鳴いた。
初めて、真っ直ぐに自分を見つめられた娘は、もうその雀を放っておく事などできなかった。
両手で、その小さな体を掬い上げると、その温かさに驚いた。
初めて、自分以外の生き物に触れた娘は、自分の鼓動が激しく鳴るのを感じながら、社へと急いだ。
社へ戻ると、雀の傷口を洗ってやった。
幸い、傷は浅く、どうやら栄養不足の方が原因のようだった。
人間に見つかるわけにはいかないから、娘は雀を肌身離さず連れ歩いた。
不思議なことに、雀はそれを嫌がることなく、むしろ望んで娘の傍にいるようだった。
雀が、戯れに娘の髪を引っ張ったり、嘴でつついてきたりする様子はとても愛らしく、娘の顔も自然とほころんでいた。
ご飯を分け与え、世話をするうちに、雀はすっかり元気になった。
娘は喜んだが、なぜか雀はとても悲しい顔をして娘を見つめてくるのだ。
娘は不思議に思ったが、そもそも自分以外の生き物と関わったことがないので、どうしたら良いかわかるはずもなかった。
そんなある日、雀は意を決したような目で娘を見つめると、ピィ、と鋭く鳴いた。
娘は雀の真剣な様子に正座で向き合いながらも、どうしたのだろうかと首をかしげた。
雀は、差し出された娘の手に2、3度、身体をこすりつけてから、名残惜しそうに娘から離れた。
そして、ぴょんぴょんと開かれた障子から外に出ると、ばっ、と羽ばたいた。
空へと羽ばたいた雀の身体はみるみる大きくなり、あっという間に勇ましい鷹になった。
すぐ傍の枝にとまった雀だった鷹は、驚きで開かれた娘の目を最後に見つめると、そのまま飛び立ってしまった。
そして、二度と帰ってくることはなかった。
あれは、神鳥だったのだろうか。
神域に居たのだから、そもそも神鳥だったのかもしれないし、もしかしたら「神様」の私が触れたことで神鳥になってしまったのだろか。
娘にはわからなかったが、ただ、また独りになってしまったことだけはわかった。
それからも、変わらずに粛々と毎日のお務めを果たし、大祭も2度ほど行われたある日。
その日はやって来た。
―しゃん、しゃん、
草木も眠る真夜中の静寂の中、鈴の音が鳴り響く。
―しゃん、しゃん、
娘は、ゆっくりと目を開き、体を起こした。
―しゃん、しゃん、
ああ、ついに来たかと。娘は思った。
―しゃん、しゃん
先代が居なくなった、あの日と同じだ。と。
「現人神様におかれましては、永きに渡り我々をお守りくださいまして、ありがとう存じます。隣国との戦が続く我が国を、天より勝利へお導きいただくための帰還の準備が整いましてございます」
大祭で聞きなれた神官長の声が朗朗と響き渡る。
その後、玉砂利を踏む幾人かの足音がし、そして気配がなくなる。
娘は、そっと障子をあけると外に出た。
思った通り、そこには人が1人やっと入れる大きさの竹籠があり、両端から担げるように棒がとりつけられている。
娘は井戸水で身を清めると、真新しい着物を取り出し、袖を通した。
祈祷部屋で最後の祈りをささげると、籠の中へと入り蓋を閉める。
膝を抱えるようにしてようやく入れる籠の中で、身体を落ち着けると、細く、長く、息を吐いた。
沁みるような夜の寒さを感じながら、人より茶色いらしい目を閉じた。
ふと、あの雀は元気だろうかと、思った。
翌朝、まだ日が昇りきらぬ中、玉砂利を踏む足音で、娘はぼんやりしていた意識を覚醒した。
籠を触られている様子がする。どうやら外から蓋を留めているようだ。
誰も一言も発しないまま、娘を入れた籠は動きだす。
しばらくすると、一度、籠が恭しい様子で下された。
「皆のもの!」
おもむろに神官長が声を上げる。
「隣国との戦に苦しむ我が国をお導きになるために、現人神様は天に還られることとなった。現人神様が本来おわすべき天に戻られるからには、我が国に怖いものなどあろうはずがない。我が国に勝利をもたらす現人神様に感謝と祈りをささげよ」
ざっ、と大勢の、本当に大勢の人が動く音が聞こえたかと思うと、しん、とした静寂が訪れる。
恐らく、人々が地面に額づけながら娘に祈りをささげているのだろう。
そして、娘を入れた籠は何か儀式めいた事をされながら改めて担がれ、ゆっくりと移動していった。
やがて森に入ったらしく、草むらを掻き分けて歩く足音と担ぎ手達の息遣いだけを聞きながら、娘は運ばれていく。
どれぐらい経っただろうか。普段、娘がご神木へ祈りを捧げに行くよりもはるかに長い距離を移動した後に、やっと籠は降ろされた。
ごそごそと、音と振動が伝わる。
籠から担ぎ棒が取り外されているようだった。代わりに、紐で何かがくくりつけられていく。
空気が澄んでいて、水の気配がする。
「現人神様よ!」
神官長の声が響き渡る。
「あなた様を天へお返しいたしまする。どうぞ、天より我が国を勝利へお導きくださいませ!!」
昨日から、声を聴くのは3回目だが、徐々に恍惚とした、ぞくりとする響きになっているようだ。
ざり、と籠の近くで足を地面に踏ん張る音が聞こえた。
と、娘の身体が籠ごと宙に浮き、投げ出される浮遊感に続いて、ざぶり、と水にあたる感覚がした。
籠の隙間から容赦なく水は流れ込み、ずぶずぶと水に沈んでいく。
娘は、きつく膝を抱え込み、額を膝に付け、「神様」の証である茶色い目を閉じた。
「神様」の私は死ぬのだろか。
死んで黄泉の国へ行けるのだろうか。
黄泉の国へ行けば、いつかまたあの雀に会えるだろうか。
あの、温かく柔らかな羽毛に触らせてもらえるだろうか。
もう、独りでいなくていいのだろうか…
娘の瞳から、生まれて初めて涙がこぼれた。
しかし、それは頬を伝うこともなく、既に沈んでいた水の中に静かに溶けた。
娘は、ゆっくりと目を開いた。
娘が寝起きしていた社の木が剥き出しの天井とは違う、綺麗な装飾がされた天井が見えた。
娘は、ふかふかとした布団の上に寝ているようだった。
ゆっくりと、身体を起こして、周りを見渡す。
見たこともない建築に、見たこともない装飾がされていて、娘が見知ったものと比べるとかなり華やかだった。
ここが、黄泉の国なのだろうか。
たしかにとても美しい場所だが、辺りは静まりかえっており人の気配がない。
娘はがっかりした。
ああ、ここでも独りなのだな。と。
しかも、現世では決められた務めを果たせば良かったが、ここでは一体何をしたら良いのだろうか。
もう、娘を崇める人間たちさえいないのだ。
娘は、途方にくれた。
ぽろり、と、ひと筋、死ぬ前にこぼし損ねた涙がこぼれると、もう止まらなかった。
今までの17年分の涙を絞り出すかのように、娘は泣き続けた。
両手で顔をおおい、しゃっくりをあげはじめた頃、がらり、と扉が開いた。
驚きのあまり、音の方へ目を向けるのさえ忘れ、固まっていると、上から声が降ってきた。
「あら、お姫さま、お目覚めでございましたか」
そろり、と顔を上げると、ふくよかな体つきの女性が、娘に微笑みかけていた。
「まあまあ、そんなに泣いてどうなさったんですか。さあさあ、お腹が空いたでしょう。お膳をお持ちしますね」
そう言いながら、女性は前掛けから手巾を取り出すと、呆然とした顔をした娘の涙を優しく拭って、「ちょっとお待ちくださいね」とまた扉の中に消えていった。
誰かに微笑みかけられたことなどなかった娘は、涙を拭われた格好のまま、ただただ目を見開いた。
あれは、天女様だろうか。だからあんなに優しく微笑んでくださるのだろうか。
しばらくすると、先ほどの女性がお膳を運んできた。
やはり、朗らかな笑みを浮かべている。
娘は女性をまじまじと見つめながら、幻ではなかったのかと思っていた。
「さあさあ、温かいうちにお召し上がりくださいね」
娘のぎこちない様子を気に留める様子もなく、女性は匙を娘に渡し、膳をすすめる。
お膳には、粥のようなものが載っていた。
娘は、すすめられるままに匙を手に取り、恐る恐る粥を口に運んだ。
が、唇にあたった途端に驚いて、匙を口から遠ざけてしまった。
粥は温かかったのだ。
今まで、冷えた食事しかとったことのない娘にとって、食べ物が温かいのは驚きだった。
思わず、匙の上の粥と女性を交互に見つめるが、女性は慈しむような笑みのまま、どうぞそのままお召し上がりくださいと、手で促している。
娘はちょっと困った顔をしたが、天女様のおっしゃることを疑ってはいけないと思い直し、再び粥を口に運んだ。
初めて、食事とは美味しいのだと思った。
粥を胃に収めると、身体が内からぽかぽかと温かくなり、瞼がとろとろと落ちてきた。
「ようお召し上がりになりましたね。さあ、またお休みになってくださいね」
女性に優しく導かれ、娘は身体を横たえた。
女性は上掛けを娘に被せ、その上から、ぽんぽん、と優しく叩いてくれた。
なんて、幸せな夢だろう。
これだけの幸せをもらったのだから、来世は虫けらでもがんばろうと、娘は満ち足りた気持ちで眠りに落ちた。
―チュン、チュン…
…え…!?
娘は、がばりと起き上がると、信じられない気持ちで枕元を見た。
そこには、あの雀がいた。
雀の見分け方など、もちろん娘は知らなかったが、間違いなかった。
あの雀だった。
「おまえ、会いに来てくれたの?おまえも死んでしまったの?」
つい、声が出た。
「神様」でいた間は、声など発したことはなかったというのに。
あまりに嬉しかったのだ。それに、もう存在を消す必要もないのだから。
雀は、愛らしく首をかしげると、ぴょん、と娘の手に飛び乗り、そのまま腕を伝って肩まで登ると、娘の頬に体を擦り付けてきた。
会いたかった。とでも言うように。
その、懐かしい羽毛の柔らかな感触に、娘の顔が、くしゃり、と歪む。
ぽろぽろと、目尻から涙が溢れた。
今まで、泣かなかったのが嘘のように、泣いてばかりだと娘は思った。
こんなに目から水が出てくるなんて知らなかったと。
雀が気遣わしげに、娘の涙を吸い取ろうと嘴を寄せる。
翼を広げ、まるで涙を拭うような仕草をする雀に、娘は笑った。
雀を安心させるように、娘は微笑みかけた。
自分で表情を動かす事をしたことがなかったので、成功したかはわからなかったが、雀は納得したようだった。
娘の涙がすっかり乾いた頃、昨日の女性がやって来た。
女性は、娘の手のひらでくつろぐ雀を見つけると、「あらまあ」と声をあげたが、それ以上は雀について何も言わなかった。
昨日と同じように、お膳を運び、娘に食事をとらせると、もう少し床についているように促された。
横になると、あんなに眠ったはずなのに、また娘の意識は微睡んできた。
娘は、落ちそうな瞼を必死にあげながら、枕元の雀を見つめた。
雀が、傍に居るから安心しろとでもいうように、うなずくのを見てから、娘は眠りに落ちた。
しばらくは、そんな日々が続いた。
そして、娘の体力が回復し、床払いをするようになると、娘は雀と一緒に庭に出るようになった。
色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭で、鮮やかで肌触りの良い衣を着せられた娘は、爽やかな風を雀と楽しんでいた。
ある日、雀は意を決したような目で娘を見つめると、ピィ、と鋭く鳴いた。
いつかの別れの時を思い出し、娘は悲しげに眉をひそめた。
もしかして、雀だけひと足先に来世へと旅立ってしまうのだろうか。
ぴょんぴょん、と雀は娘から少し離れると、ばっ、と羽を広げ飛び上がった。
その体は、みるみるうちに勇ましい鷹の姿に変わり、そして…
そして、なんと更に姿が変わっていき、気づくと、娘の前には一人の男が立っていた。
見上げる程の高い背丈に、逞しい体躯の男だった。
呆けた顔で見上げる娘に、男は恐る恐るといった様子で微笑みかけた。
男の、赤い髪が風に吹かれて揺れた。
娘は、何かを言おうとしたが、結局は唇が慄いただけで、言葉にならなかった。
でも、男から目を逸らすこともできず、ただ男を見つめていた。
やがて、男が口を開いた。
「私は、雷穿と言う。いつぞや、あなたに助けてもらった雀は私だ。
あの時は兵士に追いかけられて体力を失くし、雀の姿に身をやつしていたのだ」
何と続けたものか逡巡しながらも、雷穿と名乗った男は続けた。
「私は、あなたの国と戦をしている国の武将なのだ。戦のさなか、あの森へと迷いこみ、あなたに出会った」
男の話に、娘は戸惑った。
「ここは、黄泉の国ではないのですか?」
娘の言葉に、男は虚を突かれたような顔をしたが、少し困ったように微笑んで、こう続けた。
「ここは黄泉の国ではなく、私の屋敷です。
あの日、もう一度あなたに会いに行った私は、あなたが人身御供にされるのだと気づきました。
そして、あなた方一行の後をつけ、一部始終を見ていました。
あなたが池に投げ込まれた時は、生きた心地がしませんでした。
奴らがいなくなるのをじりじりと待ち、やっと気配がなくなったところで池に飛び込んであなたを引き上げたのです」
目を、ぱちくりさせる娘に、男は心からの笑みを浮かべた。
「あなたが無事で、本当に良かった」
男の笑みを見ていると、何故だか娘の胸は熱くなった。
きっと、強い光を宿した男の金色の瞳が、じっと娘を見つめるからだろう。
「あなたを驚かせてはいけないと思い、雀の姿でだますようなことをしてしまい、失礼しました。
これからは、この姿で会いに来ますので、また一緒に庭を散歩してもらえませんか」
驚くことが多すぎて、娘は話を処理しきれなかったが、とりあえず、こくりと頷いた。
男は、娘の様子に満ち足りたようにふわりと微笑むと、とん、と跳躍した。
と、思ったら既に男は鷹の姿になっており、飛び上がると、頭上で一度旋回し、ピィ、と一声鳴いてどこかへ行ってしまった。
どうやら、ここは黄泉の国ではないらしい。
娘は死んでもいないようだ。
雀は鷹で、でも本当は男の人だったようだ。
そして、ここは男の屋敷らしいが、私は何のためにここに居るのだろうか?
娘にはよくわからなかったが、とりあえず独りではないのだと思った。
男は、毎日、娘の元にやってきては、ただ静かに娘と庭を愛でた。
天女様だと思っていた女性は人間で、明燕という名前らしい。
毎日やってくる雷穿のことを、呆れたように見ては「しょうがない坊ちゃんですね」と苦笑している。
娘が雷穿の存在にも慣れ、二言、三言、会話もするようになった頃、雷穿は娘にこう尋ねた。
「あなたに、名前をつけても構わないだろうか」
娘には名前がなかった。呼ばれることがないから必要なかったし、祝詞には「現人神」「神様」としかなかったから。
この頃には、娘はもう理解していた。
自分は「神様」などではなく、人間だったのだと。
だから、雷穿の申し出を嬉しく思い、はにかみながら頷いた。
「あなたの瞳の色は、とても美しい。その美しい瞳にちなんで、『琥珀』はどうだろうか」
こはく…
と、娘は声もなく呟いた。
そして、そっ、と自分の目元に手をやり、
「こはく」と、囁くようにもう一度口にしてみた。
「私は…『琥珀』」
噛みしめるように、娘は自分で自分の名を呼んでみた。
私は、もう「神様」なんかじゃない。「琥珀」だ。
琥珀は瞳を潤ませながら、花がほころびるように、笑った。
雷穿が壊れ物に触るようにそっと、琥珀の頭を撫でてくれた。
17年間、閉ざされた世界で生きてきた琥珀にとって、何もかもが新鮮だった。
琥珀は水を吸う海綿のように貪欲に、知識を吸収していった。
最初は、明燕と雷穿から色々と教わった。
疑問に思ってもいいということ、そして誰かに質問できるということが、琥珀にはたまらなく楽しかった。
身近なこと、庭の草花について、季節の移り変わりについて、食事がなぜ温かいのか、どうやって屋敷にこんなに華やかな装飾をしているのか。
明燕に気軽に話しかけられるようになった頃から、琥珀の周りには徐々に人が増えていった。
琥珀と同じ年頃の女官には、身だしなみのお洒落を教えてもらったし、世の理は生き字引と言われている老師が答えてくれた。
いつも傍らにいた雀が居なくなってしまい、琥珀が寂しがると思ったのか、琥珀の部屋には子猫が届けられた。
雷穿と同じ金色の瞳をした黒猫で、自由気ままに遊んでは琥珀の目を楽しませ、遊ぶのに飽きると琥珀の腕の中に収まって眠るのだった。
琥珀は雀の羽毛の温かさを思い出しながらも、それとは違う猫の毛の柔らかさを堪能した。
ある月明かりに照らされた夜。
琥珀はひどく緊張した様子の雷穿に、庭に連れ出された。
雷穿は庭で琥珀に向かい合うと、琥珀の両手をそっと取り、ふんわり両手で包み込んだ。
「私はあなたに打ち明けなければならないことがあります。」
そう、切り出すと、思いつめた瞳で話を続けた。
「私はあなたの国を滅ぼしました。あなたが守っていた国は、もうありません」
雷穿の深刻な様子に、琥珀はつい笑みをこぼした。
雷穿は心配してくれているのだ。琥珀の国を滅ぼしたことで、琥珀が傷つくのではないかと。
琥珀が生まれ育った国だ。滅んだと聞いて、感慨深いものがあるのは確かだ。
でも、琥珀にはそれだけだった。
特に、悲しみも怒りも湧いてはこなかった。
むしろ、少し安堵した。
これでもう、私のように「神様」をする人間は必要なくなるのだと。
「私は、あの国を守ってなどいませんでした」
琥珀は青白い月明かりに照らされ、なおも不安な瞳をした雷穿を見つめながら、そう答えた。
「私は『神様』と呼ばれてはいましたけど、あの国の平和を祈ったことも、戦の勝利を願ったこともありませんでした。
ただただ、向けられる祈りを受け、私自身の祈りは森羅万象への感謝に向けていました。
私は雷穿に感謝しています。お礼が言えるようになるまで、とても長い時がかかってしまい、ごめんなさい。
雀のあなたが、私に温かさを教えてくれて、ありがとう。
生贄として死ぬ運命だった私を助けてくれて、ありがとう。
私に名前を与えて、人間にしてくれて、ありがとう。
優しい人達に囲まれた幸せな暮らしをさせてくれて、ありがとう。
雷穿が私の傍に居てくれて、ありがとう」
暗闇の中で、月光を反射して輝く雷穿の金の瞳が揺れている。
琥珀は雷穿の手の中から、やんわりと自らの手を抜き出すと、
おずおずと、雷穿の身体に腕を回し、その胸元に顔を押し当てた。
雷穿が雀から人の姿になって以降、琥珀から雷穿に触れるのは、これが初めてだった。
琥珀は緊張し、鼓動が高まり、頬が上気したが、何だかとても安心した。
驚いた雷穿が、2、3秒固まった後、琥珀の身体は雷穿の腕に包まれた。
ああ、やっと在るべきところに辿り着いたのだと…そんな気がした。
編み笠を深くかぶった男がその町に足を踏み入れた時、何かお祝い事があったらしく、町は祭りをしていた。
幸せそうな笑顔で色めき立つ町人たちを眩しそうに見つめながら、男は適当な茶屋に腰を下した。
「いらっしゃい。こんなにめでたい日にこの町に来るなんざ、あんたは運がいいね。」
「ほう、ずいぶんと派手なお祝いだな。いったい何のお祝いだい?」
男が茶を受け取りながら、尋ねると、店主は嬉々として答えた。
「この町のご領主様が婚儀をあげられるんだよ。ご領主はその名を轟かした武将で、まあ立派なお方でね。で、またその奥方になる人が、琥珀色の瞳をした、まあ綺麗で優しい方で、本当にお似合いのお二人でねえ!」
男は、茶をすすりながら、店主の延々と続く領主夫妻の自慢話を聞きながら、ふと、遠くに目をやった。
そういえば、あの娘も琥珀色の瞳をしていたと。
数年前、まだ男の母国があった頃、男は母国で兵士として働いていた。
ある日、国主様の屋敷に忍び込んだ曲者を追いかけるのに夢中になるあまり、決して足を踏み入れてはならぬと、先祖代々、きつく言い含められている神域の森に入ってしまったのだ。
そして、男は見たのだ。
「神様」を。
「神様」は豊かな黒髪に、透き通るような肌、その肌よりなお透明感を湛えた宝石のような瞳をした美しい少女だった。
「神様」を見るなど、あってはならないことだったから、男はすぐに目を逸らし、その場を離れた。
だから、「神様」を見たのはほんの一瞬だった。
だが、男の頭には「神様」の琥珀色の瞳がいつまでたっても棲みついていた。
戦が激しくなったある日、本来なら後30年は行われないはずの「神様」帰還の儀が行われた。兵士だった男には、それだけ戦況が思わしくないのだとわかったし、神に縋りたい気持ちは理解できた。
だが、あの寂しげに揺れる琥珀色の瞳が思い出されて、男は真剣に祈りをささげる事ができなかった。
「神様」は天に還り、母国を勝利にお導きくださると言われたが、結局、母国は戦に負け、兵士だった男も今や流浪の身だ。
果たして、あの「神様」と呼ばれていた少女はどうしたのだろうか。
彼女を捕えていた国がなくなった今、どこかで達者に暮らしているのだろうか。
男は、編み笠を軽く上げると、澄み渡った青空を見上げた。
ピィ―、と、鷹が甲高く鳴きながら、勇壮な姿で空を大きく旋回していた。
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