昭和の旧き良き鎌倉の情景を知って欲しい
昭和40年くらいまでだったと思うが、江ノ電には手動のドアが付いた車両があった。
この車両は一両で走っていることが多く、特に朝のラッシュ時間に臨時電車として活躍していた。
当時の私は七里ヶ浜から鎌倉へ通学していたが、隣り駅の稲村ヶ崎駅で臨時電車としてホームの反対側に、この手動式の車両は毎朝ちょこんと待っていた。
西武の分譲地が出来てから七里ヶ浜駅から乗り込む乗客が増え、子供にとっては稲村までの数分間は息もするのも苦しい時間であった。
当時はよく揺れた江ノ電の車内では、大きく揺れる度にあちこちで女性や子供の悲鳴が聞こえるほどの寿司詰め状態で、揺れた勢いでたまに窓硝子が割れることもあった。
稲村の駅へ着き、ドアが開くと元気な子供と大人は一目散に空いている手動式車両を目指し乗り換えた。
そして大抵の場合、子供が先に乗り込み、大人が負けた。
たぶん座る椅子が無かったから大人は子供に勝たせたのかもしれないが、当時の大人達は思いやりや余裕もあったのだろう。
奇妙なことに紫陽花の花が終り初夏を迎えた頃、子供達の多くは進行方向に向かって左側に立った。
そのワケは長谷駅を過ぎ、線路がほぼ一直線になる由比ヶ浜の線路際の屋敷の垣根の向こうに、大きく
たくさんの実を付けるビワの木があったからだ。
季節になると垣根から線路の方へ実がハミだし、子供達のオヤツの的になった。
そのビワの状態を朝の満員電車からチェックして、食べ頃だと思うと帰り道は鎌倉駅から電車に乗らずに
ビワの木のある所まで仲間と駆けた。
息を切らしてビワの木まで来るのだが、人様のビワを失敬するわけだから結構緊張した。
しかも他校の子供もいたりすると睨み合いなった。
睨み合いで決着がつかないと、たまに殴り合いの喧嘩にもなったりした。
さらに勝って食べてもまだ酸っぱい時は頭に来て、負けたヤツラに無理矢理食べさせたりもした。
結局皆が狙っているから、誰も甘くなったビワを食べたことがないと思う。
先日、急に思い出して江ノ電に乗ってビワの木を見にいった。
昔より幾分スピードが速くなった電車から、目を凝らして時期外れのビワの木を探した。
あった。
自分と一緒で少し歳を取ったような気がしたが、しかし、確かにあったのである。
来年の初夏には昔のように元気でたくさんの実を付けたビワの木に会ってこようと、密かに思っている。
そして、こんな思いを抱いているのはたぶん私独りだけではあるまい。