潜入
目の前に聳え立つ、不気味な施設。
入ろうとする者の足を竦ませる威圧感。
周囲には建物らしい建物もなく、民家の明かりすら見えない。
あるとすれば、天を覆いつくすような無数の大木ぐらいだ。
おまけにその枝ときたら、細長くしなっていてまるで幽霊の手みたいだ。
何とも薄気味悪い雰囲気だ。
それに、さっきから誰かに見られている気がする。
慌てて後ろを振り返ってみるがここには俺以外、誰もいない。
正直言ってすぐにでも立ち去りたかった。
だが、ここまで来て何の収穫も得ずに戻るわけにはいかない。
仕方なく俺は扉を少しだけ開けて、体をすべり込ませた。
ここに来た理由はひとつ。
俺が所属する組織からの命令だ。
何でも、自分たちと関わりの深い研究所からの連絡が途絶えたらしい。
そこで実態の調査と所員の救出を命じられたというワケだ。
そんなもの警察かなにかに動いてもらえばいいじゃないかと思うが、残念ながらそうはいかない。
この組織は決して表に出てはならない闇の存在なのだ。
後ろめたさはあるが、仕事をこなしていれば金には困らない。
危険な任務も多いが、それに見合うだけの報酬が期待できる。
当面はここで金を稼ぎ、頃合いを見て足を洗うのが賢いやり方だ。
建物の中は静寂に包まれていた。
照明はついていないが、幸いにも予備灯が機能していたため、ある程度の視界は確保できた。
入って早々、薬品などをしまっているクローゼットが目に留まった。
奥には、見たこともないような奇妙な形のイスや、ケーブルが何本もついたヘルメット、何に使うのか分からない巨大な箱なんかもある。
一体、何の実験をしていたんだ。
薄暗いはずなのに、なぜか辺りの道具だけははっきりと見えてしまう。
俺はできるだけその辺の物を見ないようにして、ひたすら奥を目指した。
だが、行けども行けども、景色はほとんど変わらない。
鼻を突くような刺激臭に顔をそむけても、妙な気配を感じて振り返ってみても、やはり見える物は何ひとつ変らなかった。
研究所の中に誰もいないのだ。
確かこの任務を引き受けた時、連絡が途絶えたのは5日ほど前だと聞いた。
それなら対応に追われる研究員の1人や2人、いてもおかしくないのではないか。
何か想像もつかないような事件が起きて、みな逃げてしまったのだろうか。
さらに30分ほど歩いてみたが、得られるものは何もなかった。
いくつもの部屋があったが、ほとんどは研究員たちの部屋らしく、同じ作りばかりだった。
せめて日誌でも見つかれば何が起きたか分かるのだが、、残念ながらそれらしいものは見当たらない。
人はいないし、手がかりも全くない。
俺は早くもくじけそうになった。
足元に転がる薬ビンを見ながら自分を呪う。
このまま何の収穫もなしに帰れば、俺の信用はガタ落ちだ。
報酬が得られないどころか降格もあり得る。
ぼんやりと辺りを見回すと、まだ調べていない部屋を見つけた。
成果につながりそうなものなら何でもいい。
すがる思いで扉を開く。
踏み込んだ瞬間、抱く違和感。
他と比べてずいぶん広い。
部屋というよりは広間といったほうが適切かもしれない。
目を惹くのは規則正しく並んでいるカプセルだ。
一定の間隔で置かれているそれらは、人ひとりが何とか入れそうなほどのサイズ。
側面にはボタンがいくつもついており、回路図のような模様も描かれている。
それが少なくとも50基以上はあるだろうか。
上部は厚手のガラスで覆われている。
どことなく棺のようで気持ちが悪い。
とはいえこれも調査対象だから中を覗いてみる。
どこかでは予想していたから、さほど驚かずにすんだ。
やはり中には人の姿があった。
仰向けになって目を閉じている。
寝心地の良いベッドにはとても見えない。
「おや……?」
俺は眠っている男の顔をよく見た。
額のあたりに赤黒い斑点がある。
死斑とかいうやつだろうか?
ためしに他のも覗いてみたが中身は同じだった。
誰もが同じ姿勢で横たわっている。
額の黒い斑点も同様に全員にあった。
事故か何かで死亡した所員の棺のつもりなのか?
それともこれ自体が研究の一端なのか?
どちらにしても長居はしたくないな。
「誰かいるのか?」
突然の声に、心臓が飛び出しそうになった。
「だ、誰だ?」
恐怖で声がうわずってしまう。
声のした方を見ると、何人かがこちらに歩いてくるのが見えた。
「調査に来たのか?」
そのうちのひとりが俺に問うた。
「あ、ああ。5日前に連絡が途絶えたらしくてな」
「そうか、あんたも同じか」
「ってことは、お前らも調査に?」
どうやら俺より先に調査に来た奴らしい。
そんな話は聞いていないが、もしかしたら上の連中が功を競わせるために黙っていたのかもしれない。
彼らは4人いるワケだがなぜか皆、宇宙服のようなものを着ている。
仲間がいると分かり、途端に緊張が解けた。
話を聞くとやはり同じ組織から派遣されたらしい。
施設が広く、充分な成果も得られないままだったから探索を続けていたということだ。
そこで情報交換も兼ねて今後について話し合うことになった。
といっても俺のほうから提供できるような情報はないので聞き役に徹する。
「――ということだ。地下に続く道は全て封鎖されている」
「生存者はいないのか?」
「分からない。所員の名簿があれば照合できるかもしれないが」
「コンピュータも大半がロックされていて操作を受け付けないんだ」
聞くところによるとここは薬品の研究をおこなう施設だったらしい。
何らかの事故が起こったのは確からしいが、原因はまだ分からないとのことだった。
連絡が途絶え、生存者も不明……。
ヤバい研究をやっていたのは間違いない。
そんなところに遣わされたんだ。
これは報酬の上乗せをしてもらわないと割に合わない。
「ところでお前たちはなんで防護服を着ているんだ? そんなもの支給されなかったが、どこかにあったのか?」
俺が訊くと場の空気が変わった。
彼らは互いに顔を見合わせ、それから俺に憐れむような視線を投げかける。
そのことに触れるな、と言いたげな反応だ。
「なんだ、訊いちゃいけないことなのか? 情報共有するんだろ?」
そう言っても答えは返ってこない。
「それはその……なあ?」
マスク越しでも見える連中の愛想笑いに苛立つ。
なんだか仲間外れにされたような気分だ。
「なんだよ、ハッキリ言えよ。言えないような――」
そうか、分かったぞ。
こいつら、何か重要な秘密をつかんだにちがいない。
俺に手柄を横取りされたくなくて黙っていやがるのか。
「言っていいのか?」
連中はひそひそと話し合っている。
バカバカしい。
俺だって仕事にはそれなりにプライドを持っているんだ。
手柄を横取りするようなせこい真似なんてするもんか。
「教えるくれてもいいだろ。お前たちの功を奪ったりしないさ」
そう言うとやっと信じてくれたのか、ひとりが話し始めた。
「言いにくいことなんだ。でもきみが知りたいなら……」
「いいから言えって。余計に気になるじゃないか」
連中が向ける視線が気に食わず、つい声を荒らげてしまう。
俺が何の収獲もないからバカにしているような、そんな目だ。
「きみは……ウイルスに感染してるんだ」
「なんだって?」
「我々は防護服を着ているから感染せずに済んだが、その格好で入ってきたあんたは間違いなく感染してる」
まるで俺が丸腰みたいな言い方をする。
これでもあらゆる事態を想定して入念に準備してきたつもりだ。
懐に拳銃を隠し持っていたところでたしかにウイルスに対しては役に立ちそうもないが……。
それにしてもウイルスだと?
「感染したらどうなるんだ?」
「あれだよ」
男がカプセルを指差した。
「きみも見ただろう? 感染すると24時間以内に症状が出始める。額に無数の斑点が現れるんだ」
「あれに入ってるのはここで働いていた連中さ。あちこちで倒れていたのを運び込んだ。棺代わりにしたが元々、何のために使うものかは分からない」
イヤな感じがした。
こいつらの話を信じたくはないが、聞いてしまうと体がむずむずする。
全身を掻き毟りたい衝動をどうにか抑える。
「感染したらどうなるんだ?」
俺はもう一度訊いた。
だが知りたいのは症状じゃなくて結末のほうだ。
「………………」
誰も何も答えてくれない。
それが答えになった。
死ぬのか、と問うと4人は譲り合うようにして頷いた。
「何らかの事故が起こり、ウイルスが漏れた。連絡が途絶えたのも所員らがほぼ同時に感染したからだと見ている」
4人はこれから事故の原因を調査するという。
「そんなバカなことが――」
あってたまるか、という気概はない。
その仮説を否定できる材料がここにはひとつもなかった。
「このカプセルがどういう目的で作られたのかは分からんが、作った奴らの棺になるなんて皮肉なものだよ」
誰かが恨めしそうに言ったが、俺にはもう皮肉ですらない。
俺だってこの中に――。
入りたくはない。
「ワクチンぐらいあるだろ? それを打てば――」
「残念だが見つからなかった。あるとすれば地下だが、まず封鎖を解除しなければ」
「じゃあそうしろよ! いや、俺も手伝う! だから早く――」
急かす自分に気付く。
なぜこいつらはそうしない?
俺が言うまでもなく、助かる可能性があるなら行動するべきじゃないのか?
それをしないのは何故だ?
「多分、間に合わない」
またふざけたことを言いやがる。
「さっきも言っただろう。コンピュータはロックされている。まずそれを解除する必要があるが、ここにはその方面の専門家がいない」
「なら本部に応援を頼もう。事情を説明すればすぐに寄越してくれるだろ」
彼らはかぶりを振った。
「時間的に無理がある。症状が出るのが先だ。もし進行したら――」
カプセルのほうを見て彼は言った。
「彼らは自分の体をひどく傷つけていた。おそらく進行すると苦痛に苛まれるのだろう。激しい痛みか、それとも痒みか……多分――」
耐えがたい苦痛であることは間違いないという。
「だからきみには気の毒だが――」
そいつは恐ろしいことを言った。
「今すぐに死んだほうがいい」
正気なのだろうか?
だとしたらどういう神経をしていやがるんだ。
「きみが死んだあとで施設内のウイルスを除去する。本部の指示次第だが、場合によっては施設そのものを焼却する可能性もあるだろう。外に漏らしてはならない類のものらしいからな」
こいつらはもう俺が死んだものと考えているらしい。
いっそ防護服をはぎ取って道連れにしてやろうかとも思った。
ふと足元に目をやると血痕があった。
それは蛇のようにカプセルに続いていた。
反対側の部屋の入口あたりまで伸びている。
「所員の血だ。自分で腹を裂いていた。僕たちは専門家じゃないから分からないが、感染したら自傷行為を引き起こす類のウイルスかもしれないな」
それを聞くとぞっとする。
いつか昆虫を宿主にする寄生虫の話を読んだことがある。
次の宿主に移るために寄生した相手の行動を操って、自殺させる種類がいるとか。
ウイルスにもそんな力があるのかどうかは知らないが、死にたくなるほどの苦痛が伴うものなのだろうか。
俺はそんなものに感染してしまったのだろうか。
「きみの額にその兆候がある――」
マスク越しにも伝わってくる憐憫に、俺は冷静でいられなくなる。
「何か手はないのか! 金ならいくらでも払う! 頼む、助けてくれ!」
こんな死に方はしたくない。
やりたいこともいっぱいあるんだ。
「どうか……!」
ここを出たら組織とは縁を切ろう。
今まで貯めた金で会社を興すのもいいかもしれない。
あの子にも想いを伝えよう。
そうだ、こんなところで死ぬワケにはいかないんだ!
「諦めろ。もう助からない」
何と言おうと無駄だった。
こうしている間にも時間が過ぎ、いずれ耐え難い苦痛に苛まれるぞと脅しのように迫られる。
それからどれくらい経ったか。
「――分かったよ」
俺は心を決めた。
どう足掻いても逃れられないなら、潔く死を受け容れよう。
みっともない死に方なんてプライドが許さない。
「頼みがある。学生の頃から付き合っている女がいるんだ。こんな結末になったが、愛していると伝えてくれ」
「分かった。たしかに伝えよう」
「それと、もうひとつ……」
「何だ?」
「俺を殺してくれ。情けない話だが自分で死ぬ度胸がないんだ。安らかに死にたい。眠るように死ねればそれ以上は望まない」
小屋みたいな狭い部屋に押し込められる。
天井付近にいくつもの噴気孔が見える。
あそこからガスが送り込まれる仕組みになっているらしい。
ってことはここは動物実験もやっているのだろうか。
今となっては調べようがないし、知ったところで意味のないことだ。
頑丈な鉄扉に嵌めこまれたガラス窓の向こうから、俺を見つめる4人。
「そんな目で見るのはやめてくれ」
マスク越しだから表情はよく分からない。
だがこれから死ぬ人間に向ける顔なんてだいたい決まっている。
その口がゆっくり動く。
「 さようなら 」
互いの声は聞こえないが、口唇はそう言っているように見えた。
まあ、それ以外にかける言葉なんてないか。
俺は強がりのつもりで手を軽く振ってやった。
親しい間柄でもないんだ。
別れがそこまで悲しいワケでもないだろう。
壁の向こうから不愉快な音がして、噴気孔から白いガスが流れ込んできた。
あれを吸えばたちまち眠気に襲われてそのまま……か。
まさか自分がこんな死に方をするとは思わなかったな。
せめて最期は親しい者に看取られたかったが――。
こんな仕事を引き受けたのだから仕方がない。
それもこれも金に目がくらんで組織に身を置いた自分が悪いんだ。
ガスは床を舐めるように這い寄ってくる。
4人はまだ扉の前にいた。
心なしか泣いているように見える。
泣きたいのはこっちだよ。
ふと視線を落とすとガスは腰のあたりまで迫っていた。
おいおい、これじゃ眠る前に窒息死するんじゃないのか?
「………………」
どっちでもいいか。
どうせ死ぬんだ。
苦しくなければそれでいい。
それで――。
それで…………。
強烈な睡魔に襲われ、俺は意識を失った。
・
・
・
・
・
変な痛みで目が覚めた。
さっきから頭がズキズキする。
たまらず、俺は体を起こした。
ぼんやりした視界の中に大きな扉があった。
ここはどこだ?
何か大事なことがあったはずなのに、なかなか思い出せない。
たしか俺は、組織からの命令で……。
思い出したぞ。任務の途中だ。
ある研究所の様子を探りに行くところだったんだ。
それで車の中で寝ていて……。
いや、ちがうな。
研究所には入ったはずだ。
それで誰かに会ったんだよな。
そうか、今度こそ思い出したぞ。
ウイルスが漏れていて、俺はそれに感染したんだった。
それで症状が進行する前に死を選択したはずだが……なぜ俺は生きてるんだ。
「……どうなってる?」
俺は部屋を出た。
あの4人は……たしか扉越しに俺を見ていたな。
だが彼らの姿はなかった。
催眠ガス発生装置ももちろん停止している。
どうなってるんだ。
「ん…………?」
足元に何か落ちている。
折りたたまれた紙だ。
手紙だろうか?
俺はゆっくりとそれを開いた。
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君がこれを読んでいる頃には、我々はもうこの世にはいないだろう。
手荒い真似をして悪かったが、そうするより他はなかった。
我々は、きみより一日早くここの調査に来た。
調べを進めているうちに危険なウイルスが漏れている事を突き止めた。
慌てて防護服を着用したが、もはや手遅れだった。
すでにウイルスは体内に侵入していた。
施設内に蔓延していたウイルスは全て駆除したが、一度、人体に入り込んだウイルスを取り除く術はない。
きみが一日遅れてやって来たのは幸運だった。
そうでなければ、今ごろは我々と同じ運命をたどっていただろう。
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そうか……。
そういうことだったのか……。
俺は目を閉じてここに至るまでを振り返った。
この鉄扉を通して、あいつは言ったハズだ。
『さようなら』
どうやら俺が思っていたのとは意味がちがっていたらしい。
そのことが分かっていれば――。
いや、分かっていたとして俺には何もできなかった。
俺が一度はそうしたように、あいつらだって死を決心したのだ。
「…………」
彼らに手を合わせておこう。
居場所は分かっている。
思ったとおり、4人はここにいた。
ずらりと並んだカプセルの中。
新たに加わった遺体は横一列に並んでいる。
こう見ると本当に棺として作ったのではないかと思ってしまう。
実際、どのカプセルにも犠牲者が眠っていた。
奥にひとつだけ空きがある。
もし一日早く来ていたら、今ごろは俺もあの中か――。
俺はもう一度、手紙を見た。
症状が出始めたのか、それとも死へに恐怖によるものか。
乱雑な字は震える手を必死に抑えながら書いたものだろう。
どんな気持ちでこれを書いたのだろうか……。
俺は4人の前に跪いて合掌した。
そして彼らのことを忘れないようにと、そっとカプセルを覗きこむ。
もう必要なくなったからだろう。
防護服は着たままだったが、マスクは脱いであった。
額のあたりに黒い斑点が浮かび上がっている。
マスクをしていたのはこれを俺に見せないようにするためだったのかもしれないな。
「どうか安らかに眠ってくれ――」
4人の冥福を祈った俺は本部に報告するため、一旦施設を出ることにした。
離れに停めてある車に無線機が積んである。
ウイルスが漏れ、先発隊が全滅となっては本当に施設を焼き払えと言うかもしれないな。
もしそう命じられたら……それを遂行する勇気は俺にはない。
それをすれば彼らの存在を消してしまうことになる。
焼き払うにしてもせめて犠牲者は丁重に葬ってほしいところだ。
「着いたぞ」
無線機は助手席の下に隠してある。
車に乗り込んだ俺はふと、何気なく見上げた。
ルームミラーに映る顔はげっそりと窶れている。
まるで一気に10年くらい歳をとったような感じだ。
頬はこけていて、目つきも悪い。
さっきまで眠っていたせいもあるだろうが、たぶん精神的な疲労によるものだ。
いつもの癖で前髪をかき上げると、額のあたりに黒い斑点があった。