●1 不幸で幸福な帰り道
「……鬱だ、死のう」
何の思い出もなく夏が終わり、やって来た九月終盤の登校日。
哲太は大学の自転車置き場でしゃがみ込ん両腕に顔を埋めていた。
その腕に隠された顔は絶望に染まりきっている。目は焦点が定まらず、意識すら定かではない。哲太の精神はそこまで追い詰められていた。
ははは、と無意識に乾いた笑い声さえ漏れてくる始末である。腕に強面な顔が隠れていようともこれでは別の意味で近寄り難く、誰もが哲太を遠巻きにして近づく者などいなかった。
「……あれ、テツくんどうしたの? そのままだと顔だけじゃなく完全に危ない人だよ」
かけられた声に導かれるようにして哲太は顔を上げる。
たまたま通りかかった陽菜が苦笑する。その顔が少々引き攣っているのは哲太の目にも明らかだった。巨体の男が俯いて縮こまっているという光景は、旧知の仲であっても苦笑以外に反応しようがないらしい。
「ひ、ひなぁ」
「わぁ、情けない顔に情けない声だぁ。話しかけるんじゃなかったって後悔しか湧いてこないけど、話しかけちゃったから聞くしかないか。何かあったの?」
「……ご丁寧な説明台詞ありがとよ。でも、聞いてもらうぞ、俺に起こった不幸の数々を。つーか、お前しか聞いてくれる人がいないんだよぉっ!」
うわぁ、とあからさまに嫌な顔をする陽菜だったが、そんなことに構えるほど今の哲太には余裕がない。
今すぐ誰かに吐き出さなければ、もう立ち上がることすらできない。こんな重圧を一人で背負うことは出来なかったのだ。
そうして哲太が語り始めたのは、この夏休み中で哲太の身に起こった不幸の数々である。
「クソ暑い夏の間、必死にスーツ着てネクタイもきちんと締めて何社も何社も面接に行ったのにその結果はいつも通りのお祈りメールだよ! 今日だって、唯一最終面接までいった会社から落とされたんだよ。内定いくつもらったかって? 一社もねぇよこんちくしょうがっ!」
誠に残念ながら、という始まりの言葉で書かれた見飽きた文章のメール画面を開いた携帯を哲太は陽菜に押し付ける。
陽菜は携帯を受け取ってから躊躇いながらも受信ボックスに入った他のメールもチェックする。ざっと数えただけでも二十通はくだらないお祈りメールの数々に――と言うよりもそれしかない受信ボックスに、流石の陽菜も言葉を失った。こんなに落ちる哲太もどうかと思うが、この量ではおかしくなったのも分かる気がした。
しかし、これで終わりではない。
残念なことに哲太の不幸にはまだ続きがあるのである。
「どんどん求人情報が無くなっていってそれだけでも焦るのに、教授が卒論の進捗状況なんか聞いてきやがる。なに見てんだよどこ見てんだよ、俺はそんな器用じゃねぇんだよ。んなもん、就活が終わってから取りかかろうとしてるに決まってるんだろうが」
「あー、なーる。つまり、まだ何もやってないと。それは追い詰められるねぇ、十月からの中間発表の存在を忘れてたわけだ」
コクリ、と哲太は機械的に頷く。
哲太の所属するゼミでは十月から十一月に一度卒論の中間発表が行われる。今のところ笑って誤魔化している進捗状況をそこでは本格的に報告することになる。
もちろん、中間発表が成功しようと失敗しようともそこで評価が決定するモノではない。
しかしながら、何もやっていないのでは何も発表が出来ないのであり、確実に印象は最悪である。のらりくらりと教授を騙していた全てが無駄になるのである。
それに、ここで見限られたりしたら精神的に落ち込んで確実に卒論を完成させることができないという確信がある。
「……とりあえず、中間発表を乗り切る。そんなで内定一社でももらって卒論を仕上げる。そう決めた矢先にコレだ。もうダメだ、世界が俺に諦めろと言っているんだ」
コレ、と哲太が指を差したのは自転車だった。
より性格に言えば、哲太の愛車である自転車のタイヤをである。
陽菜が指でタイヤを押せば、ふに、と柔らかい感触。つまり、空気が入っていない――パンクしているのである。
「信じられるか、それ後輪だけじゃなく前輪もなんだぜ。両方一遍にパンクとかありえねぇだろ。こんなの厄日とか厄年とか神の怒りとか、そういうのじゃなきゃ説明できねぇよ」
「うーん、パンク以外はわりと自業自得じゃないかな? 就活だって数打ちゃ当たるってわけじゃないんだからそれなりに対策しないと。それに卒論だって予定立てて少しずつでもやってれば――」
「やめろぉっ、正論なんか聞きたくないっ! 今俺がしてほしいのは共感だけだ、それ以外いらねぇんだよ!」
「あー、はいはい。運とか神様とかのせいにしないと進めないくらいキちゃってるのね。そういうことにしとこうか。でも、ここで絶望に浸ってても何も始まらないと思うな。悪いことばかりじゃなくていいことにも目を向けよう」
「……いいことってなんだよ?」
うーん、と少しの間陽菜は考えてからにっこりと笑った。
「チャリがパンクしたおかげでわたしと一緒に帰れるとか」
哲太はまじまじと陽菜の顔を見る。そして、こいつ本気で言ってやがる、と理解する。
はあ、と大きなため息が出た。
「ちょっと待って、そのため息は聞き捨てならない。どういう意味なのかな?」
「いや、俺の幸運要素は絞り出してもその程度かと思ったらちょっと冷静なった。答えは得た。大丈夫だよ陽菜。俺もこれから頑張って行くから」
「それどう見ても現実逃避だよね! もう人がせっかく……」
ブツブツと拗ねたように唇を尖らせる陽菜を見て哲太は少しだけ笑った。
本当は分かっていた。陽菜の気遣いも思いやりも。
それはこんな憎まれ口を言っても陽菜ならば許してくれるだろうという信頼であり――甘えだった。
「で、茶番はこれくらいでいいかな? こんなところで管を巻いていても時間の無駄だと思うんだけど」
「ああ、分かってるよ。でもなぁ、チャリのパンクは痛すぎる。俺の財布的にもこれからチャリを引きずって帰るかと思うかな……」
やだなぁ、と哲太の仏頂面が告げていた。
しかし、このまま自転車を置き去りにしてもパンクが直ることはないわけでいつかは持って帰らなければならない。それならば早いほうがいい。いい、と思うのだが、行動には中々移すことができなかった。今日はこのまま帰って明日にしようか、などと既に思考が逃げ道を作り出している。
一向に決断できない哲太を見て何を思ったのか、陽菜が大袈裟にため息をついた。
「もう仕方ないなぁ、テツくんは」
陽菜は小さく呟いてから肩にかけていた鞄を地面に置く。
そして、手首につけていたヘアゴムで長い髪をひとまとめに束ねにかかる。
陽菜の突然の行動に哲太は目を大きく見開いて――露わになった白い首筋に目を奪われていた。ごくり、と唾を飲み込んだのは不可抗力だと声を大にして言いたい。
「……おい、陽菜?」
「仕方ないから直してあげるって言っての。サークル棟に行けば一通り修理道具はあるし、何度かやったことあるもん。前輪後輪ともなると、ある程度時間はもらうけど」
「え、すまん。意味が分からん。お前、今何言ってんのか分かってんのか?」
「テツくんの怠けクセと万年金欠な懐事情のためにわたしがパンクを直してあげますよって言ってんの」
よし、と軽く腕まくりをして陽菜は携帯を取り出した。
哲太が一言「頼む」と言えば陽菜はその顔の広さを活用し必要な道具をすぐさま手に入れるだろう。そして、いとも簡単に哲太にできないことをやってのけるのだ。
陽菜はそれができることを哲太は知っている。昔からいつもそうだった。
だから――。
「……すまん。これ以上、お前の有能さを見せつけられたら劣等感で本当に死にたくなる」
首を横に振り、全力で断った。
うだうだと悩んでいたこと全てを投げ捨てる。むしろ、陽菜の鞄を拾うとすぐさまカゴに入れて自転車を押して歩き出す。
「さ、帰ろう。今日の俺はこんな美人と帰れるんだからツイてるなぁ」
「現金だなぁ。ま、いいけど」
するり、とヘアゴムを外して髪を解いた陽菜が哲太の横を歩き出す。
少しだけ惜しいことをした、と思う。髪型を変わるだけであんなにも印象が違ったのだから、もうちょっとちゃんと見ておけば良かった。
山を切り拓いて建てたことだけあり大学の校舎までは地獄の上り坂が続く。
しかし、それは大学に向かう場合であり、大学から帰る場合は下り坂となる。独りでに進んでいきそうになる自転車をなんとか抑えながら哲太は陽菜と帰路に着く。
「そういえばさ、テツくん」
「んー?」
「先週、誕生日だったよね」
「まぁな。誰かさんってば今年は当日にメールもくれなかったけどな」
「いやー、ごめんね。当日に会う約束してたからその時に直接言おうと思ったんだけど、まさかドタキャンされるとは思ってなかったんだよねー。しかも、寝坊したとかいう最悪な理由で」
「……う、それについてはすまんとしか言えん。起きたらもうバイトの時間だったんだ」
「そうだねー、仕方ないよねー。だから、はい」
陽菜は鞄から取り出した包みを哲太に差し出す。
綺麗にラッピングされたそれは、まるでプレゼントのように見えた。
「まるでじゃなくてプレゼントそのものだよ。遅くなっちゃったけど、誕生日おめでと」
にっこりと笑って手渡されたそれを哲太は顔を強張らせたまま受け取った。
あまりの不意打ちに哲太は反応らしい反応が出来ず、ただただもらった包みを眺めてしまう。手のひら大の小さなそれをどうすればいいか分からない。
「どうしたの、開けてくれないの?」
「あ、いや、そうだよな。開けてもいいか?」
もちろん、と頷く陽菜にぎこちなく頷き哲太は慎重にラッピングを解いていく。
少しも傷つけることのないように全神経を傾けている哲太を見て陽菜がくすりと笑ったが、哲太はそれには気づかず細心の注意を払って中身を開けた。
「……これは、イヤホンか?」
「そう、正しくはワイヤレスイヤホンマイク。ブルートゥースでハンズフリーで通話ができる優れものだよ」
ほー、などと相槌を打ってみたが、カタカナが多すぎて哲太にはよく分かっていなかった。哲太は機械にはあまり強くない。携帯すら必要最小限の機能しか使っていないのだ。使いこなせる気がてんでしなかった。
それでも、なんだかすごいイヤホンと思っておこう、と大切に鞄の中にしまう。音楽すらほとんど聞かないのであまり使い道はないだろうが、哲太は陽菜がプレゼントを用意してくれたという気持ちが嬉しかった。
だから、使わなくても大切にしようと心に決めるのだった。




