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都市伝説と作家と振り回されるだけの俺  作者: スズハラ
口裂け女
16/29

●3 初めましての再会



 ――ねぇ、私ってキレイ?


 その一言で全身が総毛立つ。

 まるで氷の手で心臓を鷲づかみにでもされたかのように哲太は息ができなくなる。

 目の前の女から視線を反らすことができない。反らせばそれが最後だ、何かが決定的に決まってしまう。

 女は硬直する哲太の一挙手一投足を見逃さないとばかりに見つめてくる。全身を舐めるようにねっとりじっくりと、哲太の口が答えを紡ぐのを待っている。


「ねぇ、答えて。私ってキレイ?」


 重ねられる問い。

 その瞬間、哲太は逃走を選択する。このまま女の目に見られ続けることが耐えられず、背を向けて一目散に逃げ出したのだ。


 疾風迅雷、脱兎の如く、何でもいい。

 逃げろ逃げろ逃げろ――っ!


 細胞が命じるがままに無我夢中で走る。

 住宅地をあべこべに、立ち止まることは死を意味することを哲太は無意識のうちに理解していた。鬼ごっこの必勝法は速く走れることではなく、如何に鬼の目を欺くかである。あの女の目から逃れるまで走れることができれば――この悪夢からきっと逃げられると信じて走る。

 そして、幸いなことに哲太は逃げ道を知っていた。

 しばらく離れていたとはいえ、子どもの頃は庭のように駆け回った町なのだ。どこをどう行けばいいかなど、混乱した頭では考えられなくとも身体が覚えている。


「な――っ!」


 ただ一点、その記憶が十年前という難点を除けばの話だった。

 角を曲がった瞬間、行き止まりにぶち当たり哲太は愕然とした。子どもの頃に哲太が愛用していた抜け道は、住宅が改装されたのに伴い行き止まりと化していたのだ。

 まずい、と思うと同時に反転する。追いつかれる前に違う道へ――。


「言ったでしょう? 私、この辺りには詳しいって」


 だが、女はすぐ背後にいた。

 息一つ乱さずに、哲太の抗いを褒めるように目が優しげに微笑んでいる。


「ねぇ、答えて。ただ一言、答えてくれるだけでいいの。――私ってキレイ?」


 三度重ねられる問い。もう逃げることはできない。

 身体が固まる。呼吸が止まる。――心臓が、止まりそうになる。

 顔面を蒼白とさせる哲太に女はまるで愛の言葉でも囁くように告げてくる。


「イエスかノー、返事はそれだけでいいの。簡単でしょ?」


 それは死刑宣告だった。

 口裂け女にとってそれは代名詞と言ってもいい質問だ。

 思い出せ、思い出さなければ殺される。

 バクバクとうるさいほど脈打つ心臓の音に急かされるように哲太は記憶を探る。口裂け女は哲太が子どもの頃にも流行っていた都市伝説だ。出会ってしまった時の対処法はいくつもあったはずだ。


 確か、口裂け女の問いに答えてはならない。

 イエスと言えばマスクを外してその大きな口を見せつけられて殺され、ノーと言ってもやっぱり殺される。賢い選択としてはどちらも答えない、もしくは普通と答えるというものだが、それは本物を前にしたことのない奴が言い出したに違いない。

 イエスかノー。それ以外の返答を求めていない女の取り憑かれたような目を前にして、そんなこと言えるはずがない。

 だが、もっと簡単で決定的な弱点が口裂け女にはある。


「ぽ……ポマード!」


 哲太は恐怖で引きつる喉を必死に動かして叫ぶ。

 それは魔法の言葉だ。どんな逸話があったかまでは哲太は覚えていないが、口裂け女はこの言葉が嫌いで三回唱えると逃げ出すと言われている。


「ポマード、ポマード、ポマード――っ!」


 哲太の叫び声が静まり返った住宅地に響き、女は魔法の言葉を真正面から受けた。

 だが、それだけ。

 女の目は相変わらず哲太を見つめたまま、小首さえ傾げながら言う。


「欲しいのはイエスかノーだけよ、他の言葉はいらないわ。……それにその言葉、あんまり好きじゃないのよね」


 やめてくれないかしら、と不機嫌そうに顰められただけの目元を哲太は愕然としながら見つめた。


 効いて、ない、だと? 何故だ、これは口裂け女にとって必殺技とも言える伝家宝刀のはずなのに。

 唯一覚えていた対処法が効かず、哲太の混乱はピークに達した。

 どうしてこんなことになった? どうして、現実には存在しないはずの化け物がここにいるのか。これは夢なのか? 夢なら今すぐ覚めろ、頼むから覚めてくれ!


 膝がガクガクと震え、自身の歯がカタカタと打ち鳴らされる音が哲太を追い詰めていく。

 必要以上に怯える哲太を不思議そうに見ていた女だが、やがて合点がいったように頷いた。


「あなたと会うのは初めてのはずだけど……そう、あなたは私を知っているのね」


 女が、ゆっくりとマスクを外す。

 真っ白のマスクが隠していた口元を晒す。

 そこにはにんまりと大きな三日月が寝ころぶように笑っていた。


 赤い口紅が引かれた口は耳まで届くほどに裂けている。その口は大きく、僅かに見える白く鋭利な歯が何であろうとも一飲みにする怪物のそれを思わせる。

 だが、何よりも目を引くのは口を大きくさせている歪な裂け目だ。左頬を刃物で無造作に裂かれたかのようなそれは口紅よりも赤い、痛々しい血の色をしていた。


 ああ、やっぱり。口裂け女だ――。


 突きつけられた恐怖に耐えきれずに哲太は膝から落ちる。

 終わった、死んだ、どうやら俺はここで死ぬらしい。本物の口裂け女に出会って生きていられるはずがない。


「……は、はは……なんだよこれ」


 恐怖が振りきれたのか、哲太の口から笑いが漏れる。

 久しぶりに帰ってきた故郷の町で、都市伝説の口裂け女に出会って死ぬだなんて、なんて間抜けなのか。

 でも、それもいいのかもしれない。

 何となくで通っていた大学も惰性で単位を落としてばかりで、これから始まる就職活動が嫌で嫌でしょうがない。あと一年足らずで社会に出て働く大人になんてなれるのかという不安から解放されるなら、口裂け女に殺されるという結末もいいのかもしれない。


 顔を上げる。

 口裂け女は哲太をじっと見下ろして答えを待っていた。


 哲太はゆっくりと口を開く。

 イエスかノーか。これが最後の言葉なら、どっちがいいだろうか。


 そう思った瞬間、パシャリとフラッシュの光を見た。


「――見ーつっけた」


 フラッシュの強い光に目が眩んで顔を背けると、この場にそぐわぬ子どものような声が耳朶を打つ。

 戻ってきた視力で口裂け女を見ると、その後ろ、そこに仁王立ちでこちらを指差す少女がいた。

 肩にかけたスクールバックと制服に身を包んだその姿は明らかに学校帰りの女子高生であり、携帯のカメラをこちらに向けてくるその顔には怖いもの知らずの好奇心が隠しきれていない。


 突然の乱入者に口裂け女の顔が歪む。そこに哲太を見ていた時の愉快気な様子はなく、明らかな嫌悪の表情だった。

 口裂け女の意識が哲太から少女に移る。


 まずい、このままでは彼女を巻き込んでしまう。

 震える脚に力を込めて哲太は無理矢理立ち上がる。動け動け動け、自分が死ぬだけならまだしも、無関係な少女を巻き込んでしまうなんて絶対に駄目だ。


 口裂け女から向けられる冷たい視線にも、その異様な裂けた口を見ても少女は驚くどころか怯みもしない。それどころか真っ向から受け止めてにっこりと不敵に笑ってさえ見せる。


「やっと会えた。ずっと探してたんだよ、都市伝説の口裂け女さん」

「……私、あなたに用はないのだけど」

「そんなつれないこと言うなよ。私はずっとあなたに会いたかったんだから」


 口裂け女は大きなため息を吐く。

 会話の通じない生物に出会ったかのようにため息とともに疲れを吐き出してから、そっとトレンチコートのポケットに手を入れた。

 そして、次にポケットから手を出した時――その手には大きな鋏が握られていた。


「もう一度だけ言うわ。私、あなたに用はないの」


 ジャキリ、と不吉な音を立てて鋏を開閉させる。

 その刃に挟まれれば指どころか手首くらいなら簡単に切り落とされてしまいそうな鋭利な鋏をジャキジャキと鳴らして苛立ちを露わに少女を威嚇する。

 突き出された凶器に絶句したのは哲太だけで、少女は事も無げにそれを受け入れる。


「その程度で何を驚けって? 口裂け女が鋏を持ってるなんてことは有名だ、有名すぎて意外性がない。私を驚かせたいならもっと面白いことをやってくれないと」


 挑発するように鼻で笑う少女に哲太は確信する。

 こいつ、一人でも勝手に生き残るタイプだ――と。

 たった一言で口裂け女の怒りを買っておきながら少女の平然とした態度は崩れない。まるで自分のステージか何かのように語ることをやめない。


「だけど、これは私にも言えることだな。会いたいと思ってはいたけど会えると思ってなかったから準備万端とは言いがたい。それに今日は――そこのお兄さんも、死なせるわけにはいかないからね」


 少女はスクールバックに手を入れて中からとある袋を取り出した。


「それでは、どなた様もこちらに注目! こちらに見えますのが、老舗飴屋が作りしべっこう飴でございますっ!」


 芝居がかった口調で袋から取り出したのは、飴が詰められた手のひら大の瓶。瓶の中では鼈甲(べっこう)の名を示すように赤みを帯びた半透明の飴が外灯の光を集めて輝いて見える。


 口裂け女の視線が、瓶に――飴に向けられる。

 その姿を見て哲太は思い出す。数ある口裂け女の対処法の一つに、べっこう飴を与えるというものがある。べっこう飴は口裂け女の好物であり、夢中になって舐めるためその間に逃げ出すことができるというものだ。


「最近、めっきり見なくなってしまったこちらの一品。コンビニでは手に入りませんぜ。これを逃がしてしまったらもう二度と手に入らないかもね」


 ごくり、と口裂け女が唾を飲む音。

 そこで初めて少女が哲太を見た。ちらり、と一瞬だけ。

 合図だ、と哲太は直感する。次に少女が何かをした瞬間、すぐにでも走り出せるように重心を前に向ける。

 哲太の反応に満足げに頷き、少女は大きく振りかぶる。


「――走れっ!」


 少女は瓶を放り投げる。

 口裂け女に目がけてではなく、高く高く空に向かって投げた。

 飴の入った瓶に釘付けとなっていた口裂け女の視線は夜の空へと向けられて、その瞬間に哲太は一気に口裂け女の横を走り抜ける。


「止まるなっ!」


 やった、と気を緩めそうになった哲太を少女が一喝する。

 そう、まだだ、まだ終わりじゃない。止まりそうになる脚を叱咤して、哲太は勢いを止めることなく走り続け、少女の手を取った。


「どの説でも口裂け女は身体能力が高いと言われている。百メートルを六秒で走るとかね。飴一瓶くらいじゃ、きっと五分も持たない」

「五分!? たったそんだけかよ!」


 つまり、ピンチは未だ変わらず。

 飴を天高く放り投げることで少しでも時間を稼ごうにも、そんなものは微々たるモノにすぎないのだ。


 落ちてきた瓶をキャッチした口裂け女が蓋を開けて、飴を一気に口へと突っ込む。

 そして、その鋭い歯で飴をガリバリと噛み砕き始めた。

 舐めるよりもはるかに早い、噛み砕くだった。大きすぎる口から飴の欠片が飛び散ることも構わず、一心不乱に噛み砕いている。


「……いやはや、参った。こうくるか」


 さすがにこれは少女も想定外だったようで、頭痛を抑えるようにこめかみに触れると素直に前言を撤回した。


「――訂正する。三分も持たないわこれ」

「んな流暢なこと言ってる場合かよ――っ!」


 哲太は握った少女の手を引いて走り出す。

 だが、それでは遅い。一九○センチ近い哲太と一六○センチ程度の少女では身長差から脚のコンパスに差があった。手を取り合って一緒に逃げるというのは根本的に無理がある。


「悪い。担ぐぞっ!」


 哲太は少女の返事も聞かずにその身体を抱き上げて肩に担ぐ。

 体裁は悪いが、お姫様抱っことかよりは効率がいいし何より恥ずかしくない。


「……うわー、いきなり荷物運びとか。お兄さんモテないでしょ?」

「うっさいわ! 今は逃げるのが先決だろ! 俺が走るから、お前はどこに行けば逃げ切れるか考えろっ!」

「言ったでしょ、口裂け女の脚は速いの。三分のインターバルくらいで逃げ切るとか無理。でも、ここからなら走って私の家までは行けるよ。人ひとり担いでとなるとかなりキツいけど、行けると信じて走るっきゃない」

「家だぁ? んなとこ逃げ込んでも、あいつが押し入ってきたらどうするんだよ!」

「かもね。でも、口裂け女は建物の二階以上に上れないと言われている。例えこれが通用しなかったとしても私のとこは、最新式オートロック、防犯セキュリティ完全完備のマンションなのだぜ。逃げるならどこよりも安全じゃないかな」


 あれ、と少女が指差したのは住宅地のどこからでも見える高層マンション。なるほど、現代技術が結集した強固な城に逃げ込むというのはこれ以上ない上策だろう。少なくとも、哲太の新居である木造立てのアパートに帰るよりは絶対にマシだ。

 やるべきことは分かった。目的は定まった。なら後は、全力で突っ走るだけである。


「……う」

「う?」

「うおぉぉぉ――っ!」


 叫ぶ。恐怖を、後ろから追ってくるだろう存在を思い出さないようにするためにも叫びながら哲太は走る。目指す高層マンションまでの案内は不要。あれだけ大きければ、どこからであろうと辿り着ける。


「あ、来てる」

「そういうの言うなよおおお――っ!」


 マンションまでの坂道を駆け上がり、エントランスへと続く階段を二段飛ばしで駆け上がる。その段階でもう哲太の体力は限界だった。

 哲太が倒れ込みそうになってもエントランスのガラス扉は開かない。住人以外は入れないようになっているのだ。

 少女は担がれていた肩から降りると持っていた鍵をかざす。ピピ、と軽い音がしてゆっくりと扉が開く。完全に開くまでたった数秒もかからないはずなのに、それすらももどかしい。


 ――早く、早く、早くっ!


 怖くて後ろは振り返れない。心臓の音がバクバクとうるさすぎて周囲の音が上手く聞き取れなかった。息が苦しい、酸素が足りない。苦しくてたまらないのに、哲太は自分が息を止めていることにすら気づけない。


「開いたよ!」


 少女の手を取り、哲太は走り抜けるようにして中に入る。

 人が通ったことを感知してゆっくりと閉まる扉。しっかりと閉まった扉を見てやっと哲太は息を吐けた。

 助かった、と心の底から安堵する。少女の小さな手を握り締める手はまるで縋りつくかのように震えていて膝も笑っていた。


「はっ……はは」


 隣にいる年下の少女は冷静だというのに馬鹿みたいに震えている自分がおかしくてたまらなかった。顔から玉のような汗が流れている。それが安堵で流した涙だと哲太が気づいたのはしばらくしてからだった。

 だから、それは完全な不意打ちだった。


 ガンッ、とガラスが立てる鮮烈な音に哲太は顔を上げてしまう。

 鍵がなければ開くことはないガラス扉の向こうに、それはいた。


 ガン、ガン、ガン――ッ。


 握った鋏を振り下ろし、ガラス扉を何度も何度も叩く。


 ガン(あけろ)ガン(あけろ)ガン(あけろ)――ッ!


 一定のリズムでガラスを叩く音とともに声が聞こえてくるかのようだった。その大きな口で今にも食い破らんとする勢いで、口裂け女がガラス扉に張りついているのだ。

 ガクン、と膝から力が抜けて哲太はもう立っていることができなかった。

 それは夢でもなく幻でもなく、悪夢はまだそこに続いていた。


「大丈夫だよ、あの強化ガラスは鋏じゃ壊せない。それに扉がもう異常を感知して警備スタッフに通報がいってる。すぐに駆けつけてくるだろうから、あの女はそう長くはここにはいられない」

「……警備スタッフって、まずいだろそれ! あんなのの前にのこのこやって来たら、確実に殺されるぞ!」

「そこは都市伝説としての矜持を信じよう。次から次へと手を出すんだったらアレは都市伝説じゃない、ただの怪物だからね。……でも、きっとあの(ひと)は他の人は狙わないよ」


 どういうことだ? そう目で問うと少女は真っ直ぐに前を向いたままで言った。


「だって、ほら。あの(ひと)、あなたしか見てないもの」


 ガラス扉の向こう、一心不乱に鋏を振り上げる口裂け女はただただ真っ直ぐに哲太だけを見つめていた。


「……ここにいても仕方ない。とりあえず、私の部屋に行こう。あの調子で続けられて、万が一食い破られたりなんかしたら困るし」


 少女に促されるままに哲太は立ち上がる。

 エレベーターに乗り込む前、裂けた口を三日月に笑わせた口裂け女が何か言った。声は聞こえなかったが、その言葉が哲太には分かった。


 ――また来るわ。


 そう言ったような気がした。








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