●1 始まりの都市伝説
――繋がった。そんな感覚に目を覚ます。
どうやら少し――いつの間にか、眠っていたらしい。
「お待たせいたしました」
声をかけられて橘哲太はゆっくりと目を開ける。
すると、丁度持ってきたコーヒーをテーブルに置いたばかりの女性店員と目が合った。
――ああ、やばい。これは非常にまずい。
ひっ、と目が合った途端に身体を竦ませた店員に哲太は自身の大柄な身体とは裏腹に繊細な心が傷ついたのを感じた。ちょっと顔立ちが好みのタイプだっただけに、いきなり引きつった顔をされるというのは存外にダメージが大きい。
ご、ごゆっくり、とぎこちない笑みを浮かべて足早に去っていく店員の背中を見送ってから哲太は指で自分の眉間を弾く。
そこに刻まれているのは深い皺。これに生来の目つきの悪さと仏頂面、一九○センチ近いでかい図体。しかも、哲太には幼い頃から急に話しかけられると反射的に睨んでしまう癖があった。そんな男に睨まれたのだ、怯えるなと言う方が無理がある。哲太にその気がなくとも、ただいるだけで相手に威圧感を与えてしまうのだ。
いったいどうしてこうなったのか。幼い頃は身体が小さく、気はもっと小さかった。ただひたすら大きくなりたいと思っていた時期があったが、正直これは大きくなりすぎたと言わざるを得ない。この顔と身体のせいで、悲しいことに生まれてから一度も女子には縁がなかった。ただの一度たりともだ。
ちょっと振り返るだけでも悲しくなるほどの女っ気のない人生に頭が痛くなる。だが、哲太が今頭を抱える理由は自分の容姿についてだけじゃない。
顔を上げる。眩しく感じられたのは、白を基調とした店内のせいだろうか。
十年ぶりに帰ってきた故郷の町は、記憶の中の面影を感じさせないほど変わりきっていた。
ため息を漏らしながら哲太はコーヒーに口をつける。
苦い。コーヒーなのだから覚悟はしていたが、思った以上に苦かった。
メニューを開いた時、そこにはコーヒー豆の種類だけという哲太には理解できない世界が広がっていた。大好きなオレンジジュースもココアもない。
そのため哲太としては本日のコーヒーという無難な選択をしたつもりだったが、そもそもコーヒーがそんなに得意じゃない時点でこの選択は間違いだった。チョコレートのような後味なんて言葉、もう二度と信じないと心に誓う。
軽く舐めただけのカップを置き、哲太は周囲を見回した。
ここ、待ち合わせ場所に指定された駅前のコーヒーショップは哲太が今まで入ったことのないオシャレな空間だった。
パリッとアイロンの効いた制服に身を包んだ店員に天井の高い広々とした店内は開放的だ。都心で有名なコーヒーショップの二号店とのことだが、まさか故郷の町にそんな大層な店ができているとは思わなかった。一番安くて一杯八百円のコーヒーなど、哲太がいた十年前では信じられない。
そう、十年前。哲太はこの町に住んでいた。
しかし、この町を離れたのは劇的な理由が存在するなどということはなく、親の仕事の都合からである。引っ越し先も電車を使えば訪れることのできなくはない距離ではあったが、生活拠点が他に移るとその理由はなくなり、戻ることもなくなっていった。
また、戻った理由も特にはない。
ギリギリで引っかかった大学がこの町にあったのはただの偶然であり、最寄り駅も隣駅の方が近かったためにきちんと訪れたことは今の今までなかったのである。
変わったと人伝に聞いてはいたが、ここまで変わっていたとは思わなかった。実際に変わった様子を目の当たりにしたことで初めて思い知った。
この町が変わったのはそれだけじゃない。
開かずの踏切はなくなり、駅ごとが地下へと潜った。綺麗に整備された地上は華やかな店がひしめき、駅前はドーナッツ屋やクレープ屋といった過去の茶色の印象しかなかった故郷の景色にはないものばかりが並んでいる。
そのおかげなのかせいなのか、今この場にいても哲太にはあまり帰って来たという感覚がない。知っているはずなのに全く知らない場所にいるような、違和感ばかりが湧いてくる。
この気持ちは、地上に戻って来たばかりの浦島太郎とでも言うべきか。
まるで帰ってきてはいけなかったような、そんな錯覚に陥ってしまう――。
「しわ」
ちょん、と。唐突に眉間を突かれて驚くと、目の前には一人の女性がいた。
それは哲太の待ち人で幼馴染である相川陽菜だった。
一瞬、誰か分からず哲太が睨むように目を顰めてしまったのは、今の陽菜が記憶の中の彼女と結びつかなかったせいだ。陽菜がすっかり大人の女性になってしまったせいで、同じ大学に通っていたにも関わらず、お互いの存在に気づいたのはつい先日だったりする。
今日の陽菜は淡いピンク色のコートに身を包んでいた。薄くではあるがしっかりと化粧もしていて、男友達のようだった彼女が容姿も服装も女性になっていることを目の当たりにする度に哲太は驚いてしまう。
すっかり綺麗になった。幼馴染の欲目などなくそう思う。
「相変わらずの仏頂面、昔から変わんないねぇテツくんは」
くすくすと笑う陽菜に哲太の眉間に刻まれた皺が深くなる。
その言い方だと、子どもの頃から全く成長していない、と言われているようだった。陽菜の方はこんなに変わって大人っぽくなったというのに俺はちっとも成長がないのか、と絶望すら感じてしまう。小柄だった身体だけは大きくなったのが、もっとこう、大人になったという実感が欲しい。格好いいとか素敵とか、一度でいいから言われてみたいのである。
後から来た陽菜に店員が注文を取りに来る。
陽菜は哲太が頼んだコーヒーを一瞥してからメニューを開くことなく言う。
「わたしはコーヒー……フラットホワイトで。あと、今日のケーキって何ですか?」
「チーズケーキになります」
「じゃあ、それとモンブランを」
かしこまりました、と店員が下がっていく。
スマートすぎて哲太には真似できない注文だった。そもそも値段を確認せずに注文するなんてこと、恐ろしくて哲太には絶対に真似できない。
てか、二個も頼むのか二個も。そう思ったことを口にしたらいけないことは哲太にも分かったので口を噤む。
「じゃ、これ渡しとくね。先に届いた荷物は部屋に突っ込んどいたから」
陽菜は昔と変わらない単刀直入さで話を切り出した。
差し出される小さな金属片。それは哲太が十年ぶりにこの町に帰って来た理由だった。
それは陽菜の祖父が管理しているアパートの鍵であり、今日からは哲太の部屋の鍵である。築五十年以上のボロアパートだが、ボロいだけあって家賃が安いという学生の強い味方なのだ。
ましてや駅から徒歩十分、大学までは自転車で二十分という好条件。これまで度重なる寝坊が原因で数々の単位を落とした哲太としては逃すことができない。これから就職活動が始まるというのに、就職先は決まっても単位不足で卒業できないなんて醜態だけは何としてでも避けなければならない。
その話を陽菜にしたところ、ちょうど良く空き部屋が出来るとのことで優先して回してもらったのである。
サンキュ、と渡された鍵を手の中で転がしながら哲太は無意識に違和感を口にしていた。
「変わったな、この町」
「まあ、見た目はね。商店街も目まぐるしく店が変わってくからずっとこの町に住んでるわたしにだって把握し切れてないし。けどね、町並み自体は変わってないから安心していいよ」
テツくんなら道に迷ったりしないよ、と断言する陽菜に哲太はそうだろうかと首を傾げる。少なくとも店の窓から見える範囲だけでも、町は一変してしまったように思える。
帰ってきてはいけなかったような気さえしてしまう。
お待たせしました、と店員が注文を運んでくる。
反射的に視線を上げた哲太だったが、店員が哲太と目を合わせまいと伏し目がちにしていることにさらに傷つくことになる。
陽菜が注文をしたコーヒーとケーキの二つを受け取ると、店員はごく当たり前のように哲太の方へと伝票を置く。
確かに、陽菜を呼び出したのはこちらであり男として払う気ではいた。だが、心と財布のダメージが比例するなんて聞いていない。高い店なんかもう二度と入らない。
「ん」
店員が去ったことを確認すると、陽菜はモンブランが乗せられた皿を哲太の前に差し出す。そして、哲太のコーヒーと自分のコーヒーを交換した。
ハートのラテアートがされたそれは大変可愛らしく、とても自分のような大男が飲んでいいものとは思えない。
哲太は真意を問うように陽菜の顔をまじまじと見てしまう。
「……なんのつもりだ?」
「それはこっちの台詞。苦いの苦手なくせにブラックとか似合わないことしないの。それならミルク感強くてテツくん好みだよ」
「なら、このケーキは?」
「ケーキぐらい男の人でも頼むって。どうせ他人の目を気にして頼まなかったんだろうけど、テツくんモンブラン大好きじゃん。ここのケーキ、すっごく美味しいから食べないのは勿体ない」
それだけ言うと、陽菜は哲太が注文したコーヒーを飲む。
ブラックのままコーヒーを飲める陽菜に驚いたが、それ以上に哲太の脳を占める言葉があった。
おい、ちょっと待て。待ってくれよ陽菜さん。
それは――間接キスというものじゃなかろうか。
二の句が継げないほど驚いた哲太は無意識に陽菜が注文したコーヒーを口にする。
「……あ、美味い」
陽菜が注文したコーヒーはミルクが多く、砂糖とは違う優しい甘さがド直球に哲太の好みだった。生まれて初めてコーヒーを美味しいと思ったほどだった。
「でしょ? ほらほら、ケーキも食べよ。半分食べたら交換ね」
陽菜に促されるままにモンブランも口にすると、これまた哲太の好みにドンピシャである。
マロンクリームは栗のコクがたっぷりと感じられて、中の生クリームとふんわりとしたスポンジが口の中で合わさると最高としか言いようがない。
ケーキが美味しいというそれだけでもう間接キスだとかそういうものは哲太の頭にはなく、仲良く半分こしたケーキに舌鼓を打つのだった。
「あ、そういえばさ――ねぇ、知ってる?」
んー、と心はケーキに向けたまま哲太は生返事する。
チーズケーキも美味い。口に入れた瞬間は濃厚なのに後味は驚くほどさっぱりしている。底のクッキーがサクサクなのも哲太の好みだった。
「――最近この町にはね、口裂け女が出るんだよ」
哲太は最後の一口を味わいもせずに飲み込んでいた。
遅れて持っていたフォークが甲高い音を立てて皿の上に落ちる。
一瞬、陽菜の言った言葉の意味が哲太には理解できなかった。いや、脳が理解するのを拒否したと言ってもいい。
聞こえない、聞いてなどいない。怖くて不吉な単語など俺には聞こえなかった、と現実逃避に走る。美味しいケーキで幸せな気分だったのに、それを台無しにするようなことが起こるはずがない。
だが、哲太がこの手の話題に対し逃避を選択することを知っている陽菜は笑顔のままで追い打ちをかけることを忘れない。
「うん、あの口裂け女だよ。子どもの頃流行ってテツくんが会わないようにって毎日全力ダッシュで帰る原因となった口裂け女」
「連呼すんなっ、しっかり思い出しちゃっただろうが!」
えへへ、と子どもの時のような悪戯が成功した顔で笑う陽菜の顔を呆然と見つめながら哲太は幼心に封印したその単語の意味を思い出す。
――口裂け女。
それは過去に幾度となく世間を騒がせた都市伝説であり、哲太の幼少時代にもその脅威を振るっていた怪異である。
長い黒髪に赤のコート、顔の半分以上をマスクで覆った女性。彼女は一見美人だが、『私、綺麗?』と尋ねてきてマスクを外すと、耳まで裂けた大きな口を見せつけられるという多くの子ども心にトラウマを作った都市伝説である。
もちろんただの都市伝説なので実際に存在することはないのだが、お化けやら怪談といった一切が苦手な哲太にとっては実在していようといなかろうとも恐怖の対象でしかない。
「ばっ、馬鹿言ってんなよ! 口裂け女なんているわけねぇだろ、ありえねぇっ!」
「テツくん」
「だいたいな、噂とか怪談話とか信じる方が馬鹿なんだよ。ありえねぇんだって、口裂け女なんかいねぇんだよばーかばーかっ!」
「テツくんテツくん、とりあえず落ち着いて、カップも置いて。手が震えすぎてて中身こぼれそうだから」
お、おぅ、と哲太はカップを持った右手を左手で抑えてからゆっくりと下ろす。
中身が少なかったために大事にはならなかったが、尋常じゃない哲太の手の震えように煽った陽菜ですら安堵したように息を漏らす。
「本当に、変わんないねテツくんは。相変わらずこの手の話は苦手なんだ?」
「……うるせぇな、そんな一朝一夕でどうにかできるようなもんじゃねぇんだよ。普通に考えても怖いだろ、お化けとか幽霊とかって」
「そうかな、物語の一種だと思えば好きになれるかもよ。さすがに自分が体験するなんてことになったらそんなこと言ってられないだろうけど、自分の知らない世界ってのは面白くない?」
むぅ、と陽菜の言葉に哲太は顔を顰めることしかできない。
この手のことで陽菜に何を言っても無駄だ。怖がりとそうでない人間は一生分かり合えない。少なくとも、哲太には幼馴染みのオカルト趣味だけは理解するなんて無理だと断言できる。
「あ、でも今回の口裂け女には今まで聞いたことのない――」
「わあ、わあーっ! だからもういいってのっ、それ以上言うなよ聞きたくない!」
「えー、ここからが面白いのに」
「面白いのはお前だけだ! 怖いわっ、俺はその単語を聞くだけで怖いんだよ!」
半泣きになりながら耳を塞ぐ哲太を見て陽菜はくすくす笑いながらしみじみと言う。
「本当、テツくんは変わらないなぁ。目つき悪くて怖い顔してるくせに人一倍怖がりで、しかも泣き虫」
「……ああ、俺も思い出したよ。陽菜も見た目以外全然っ変わってないよな。ちょっと大人っぽくなったかと思えば、怖がりの俺にわざと怖い話して面白がるなんつー昔から変わんねぇ嫌がらせしやがって」
「ただの怖がりじゃなくて、超怖がり、でしょ? いくら幼馴染といっても、再会した女の子に可愛くなったの一言も言えないテツくんにはこれくらいの意地悪は許されるのです」
はっ、と哲太は鼻で笑う。そんなの言えるかバカ。
再会した幼馴染みにそんな歯の浮いた台詞が吐けるほどの女性経験など、哲太が積んでいるはずがない。
「ま、テツくんを怖がらせるために言ったけど、口裂け女が出るっていう噂があるのは本当だからね。気にしすぎることはないけど、どうせいずれ聞いちゃうならわたしの口からの方がいいかなって」
「ほー、気遣ってくれたと。どっちにしろ聞いちまった時点で俺の気分は最悪だよ」
渋面を隠すようにカップに残っていたコーヒーを飲み干すと陽菜もコーヒーを飲み終えた。店内も混んできたので席を立つには良い頃合いだろう。
軽いアイコンタクトで了承を得ると哲太はせめて年上としての威厳を保とうと伏せられた伝票を手にする。
が、寸前で陽菜が先に取った。
「今日は驕るよ。引っ越し祝いってことでさ」
陽菜は中身を見ることもなく、綺麗なウィンクをする。
なんだそれ格好良い。年上としての威厳とバイト代が入る前の財布の中身を天秤にかけ、哲太は甘んじて受け入れることにした。
「あ、そういえば言い忘れてた」
先に店の外に出て待っていると、会計を終えた陽菜が小走りに駆け寄ってきて言う。
「お帰り、テツくん」
おう、と哲太は素っ気なく頷くだけで返事に変えた。
ああ、くそう。その顔は反則だ。
それは特別でもなんでもないと分かりきっているけれども、子どもの頃から変わらない全幅の信頼を寄せているような笑顔は眩しすぎて直視できるはずがなかった。




