●9.5 ストーリーセラー(下)
――続きを書け。そう口にした哲太の声は呻くようだった。
なんとか絞り出した声は小春に届いたのか、問うような視線が哲太に向けられる。
「続きはお前が書けって言ったんだよ小説家。問答無用のハッピーエンドだ、それ以外は認めねぇ」
小春は言った、あの死神は不安定だと。
架空の復讐心を植えつけられただけの死神を望む結末へと導いてやればいい。だから、作者である河野に続きを語らせようとしたのだが、死神の瞳に囚われた状況ではそれは難しい。
しかし、続きを語るのが河野でなければならないという必要性はない。
より優れた語り手がいるのであれば、そいつが語ればいい。
「できるだろ、それくらい」
「……簡単に言ってくれるなぁ。他人様の作品の続きを書けなんてさ」
心底嫌そうに顔を顰める小春だったが、視線は死神に囚われた河野に向けられていて内心で逡巡しているのが分かる。
小春が小説家としての矜持と滅多には発揮されない良心の間で揺れている。哲太の人生を物語のように面白おかしく語る小春だが、根本的に情に脆いことを哲太は知っている。その優しさに何度も助けられたことを、哲太は決して口にはしないがいつだって感謝している。
だから、情に訴えかける。
いつだって、哲太は小春に願うのだ。
「この展開はいつもと同じだろ? 俺が都市伝説の前で身体張って、お前は好き勝手言いながらフォローする。ほら、俺一人じゃあいつを助けられねぇんだよ」
こうしている今だって、死神の鎌は河野を狙っている。
こんな状況で黙って見ていられるような奴じゃないことくらい、出会ってから半年も経てば分かってる。
はあ、大きなため息を一つ。
ただそれだけで小春は決断する。
「いいよ、やる。死神様は私の手で完成させる」
「ただ完成させれば終わりってんじゃねぇぞ。ハッピーエンドだからな」
「……ハッピーエンドは苦手なんだけどなぁ。まあ、今のままじゃバッドエンド直行だから哲太次第だよ。せいぜい頑張ってよね哲太」
不敵に笑う小春に精一杯の意地を張った笑みを返してから、哲太は一気に駆け出した。
目指すは死神に睨まれた河野の元へ。死神が僅かに振り返り、その目で見られただけで足が竦むが奥歯を噛みしめて耐える。
走りながら哲太は背負っていたバックパックから厳重に布でくるまれたある物を引っ張り出す。中には他にも財布などが乱雑に詰め込んであったが、残りは不要だとばかりに投げ捨てる。
必要なものはこれ一つだけ。本当は持ってなどいたくないものだが、実現した都市伝説相手にはこれじゃないと立ち向かえない。邪魔な布をはぎ取って哲太はその柄を強く握り締めた。
それは一本の包丁だった。刃渡り三十センチ以上ある出刃包丁だ。厚みのある刃から柄に至るまでどす黒い血がこびりついていて、見る者全てを畏怖させる呪いのアイテムのようにしか見えない。
当然だ。事実、それはとある都市伝説から譲り受けた逸品なのだから。
振り上げた死神の鎌が河野に向けて振り落とされる。
――その瞬間、ギリギリのタイミングで哲太は間に滑り込んだ。
ギィンッ、と硬質な音がして哲太の手に衝撃が走る。
あまりの重さに骨が軋んだが、例え死神の鎌であろうとも哲太の持つそれが壊れることはない。都市伝説になったばかりの代物とは歴史が違うのだ。
「――それはなんの変哲もない包丁に見えた。だが、こと切り裂くということに関してそれの右に出る物など存在しない」
小春の声が屋上に響く。
まるで小説の語り手のような淡々とした口調だったが、どこか耳に心地いい。
ほら、大丈夫だ。小春がそう言っているのだから、哲太は信じて動くだけだ。包丁を死神に向けて突き刺し切り払う。
『せん、ぱぁい……?』
「……悪いけど、こいつをお前にはやれない」
手応えはない。だが、裂かれた部分が霧散した。
影は再び死神を形作ろうとするが、上手くいかないのか、模索するように形をこねくり回して蠢き続ける。
気を抜けば背後の河野同様に腰を抜かしてしまいそうだったが、哲太は包丁の柄を握り締める手に力を込めてなんとか立て直す。生憎、目の前の死神よりもこの手の包丁の方が怖ろしいのだ。それを握り締めている以上、気を失うなんて事有り得ない。
何とか形を成してきた死神の虚ろな目が哲太を見る。
「死神は現れたもう一人の男に困惑していた。ここにいるのは先輩だけのはずなのに、もう目の見えない彼女にはそれが誰だか分からない」
小春が言葉を紡ぐ。
すると小春の言った通りに死神が困惑し、その目が塞がれて消えた。
生まれたばかりの都市伝説である死神は設定が固まっておらず不安定な存在だ。死神を生み出した河野によって捧げられた願いを叶えるということを決められていても、それ以外は定められていない。
そこに小春は目をつけたのだ。
不安定ならば安定させればいい。設定が固まっていないのであれば固めてやればいい。小春は小説家として、言葉の力だけで都市伝説を抑え込むつもりなのだ。
「ゆっくりと死神が近づいてくる。哲太は包丁を握る手に力を込めて唾を飲む」
死神は小春が描写する通りに動き、哲太までもが言われるがままに唾を飲んでいた。雰囲気に呑まれたのかもしれない。けれど、それは仕方ない。うるさいほど暴れる心音の中でも小春の声だけは哲太の耳に鮮明に届くのだ。
「分からない、分からない。死神には請われた男がどちらなのか分からない。内に宿した少女の声に耳を傾け、少女の願いを確認する」
小春の言葉に導かれ、死神のフードの中の顔がぐるんと回転して女性の顔へと変わる。
きっと、それは――。
「……いそじま、こころ」
河野の呻き声で哲太は彼女が五十島こころだと知る。
哲太が見てしまった、潰れた彼女からは想像もできないほど綺麗な女性だった。
「……せん、ぱい?」
きょろきょろと目を泳がせる。だが、その目は見えていないようでその視線が何かを捉えることはない。当然だ、小春が見えないと決めたのだ。
力のない、蚊の鳴くような声は弱々しく、声を出すだけでひゅうひゅうと辛そうな音が喉から聞こえてくる。
「わた、し……つた、えたい、ことが……」
苦しげに、けれども彼女は言葉にすることをやめない。
「すき、です……せんぱ、いと一緒に……いられて、楽しかった……」
それは彼女の本心だったのだろうか。
泣き笑いのような顔は不安げで、その姿は――一人の恋する少女でしかなかった。
「大丈夫だよ、ちゃんと届いてる。届かないはずがない」
哲太がそう言うと、後ろで河野がコクコクと首を縦に振る。
それはもうこころには見えない。それでも伝わったのか、よかった、と呟いてこころの手から鎌が落ち、消えた。
「初めから復讐心などなかった。少女はただ確かめたかったのだ。自分はちゃんと気持ちを伝えられたのかと、それだけが心残りだった。少女の本当の願いを知った死神はその姿を空に溶けるように消えていった。内に宿した少女をこのまま引き留めるわけにはいかないのだから」
小春の言葉に導かれ、死神は姿を消した。
それと同時に押しつぶされんばかりの恐怖心が消え、哲太の手からも包丁を取りこぼれる。拾うこともできず、そのままへたり込む。今更ながら息が上がっていることに気がついた。
「おつかれ」
素っ気ない言葉は小春のものだった。
哲太を見下ろす小さな少女はねぎらうように手を差し伸べる。
「怖がり哲太にしては頑張ったかと」
「……抜かせ。すっげー頑張ったんだよ」
その手を取りつつも哲太は自力で立ち上がる。
自分の身体を小春が支えられると思えなかったというのもあるが、何から何まで頼るわけにはいかない。ただの意地だ。
握られただけの手に小春は片目を瞑る。全く素直じゃない、と呆れたように呟いてくるので、うるせぇ、と返す。少しくらい格好つけさせろ。
それから哲太は河野へと視線を向ける。
放心状態で視線は定まっていない。まるで今目の前で起きたことを拒否するかのようにぶつぶつと何かを呟きながら河野は自らを抱き締めていた。どれだけ強く抱いても身体の震えは治まらない。恐怖で冷えた身体は一向に温まることはない。
「……有り得ない。有り得ないだろ、今の。なんなんだよ」
「何って見たとおりだよ」
哲太は言う。
「あの死神はお前が作ったあの子の残骸だ」
始まりは嘘だったのかもしれない。ただの作り話だったのかもしれない。
けれど、生まれた物語に本物も偽物もない。
物語は語られた瞬間、作者だけのものじゃなくなる。作者の手を離れて多くの人の手に触れて、彩られて形作くられていく。
「一度言葉にしたものは取り消せない。お前の都市伝説はお前の知らないところで生きていく」
けどな、と言葉を区切る。
虚ろな河野の目が哲太に向けられて、哲太も目を逸らさず見つめ返して告げる。
「あの子の想いを利用したことだけは、お前は背負わなきゃいけない」
哲太の顔はまるで自分が当事者にでもなったかのように、悲しげに辛そうに歪む。
「彼女は偽物で作り物だったかもしれないけど、最後の笑顔だけはきっと本物だったよ――」




