●序 名探偵は振り向かない
「――空から女の子が降って来た、って言ったらどうする?」
あまりにも突拍子もない言葉だった。
だが、橘哲太は敢えてそれを使った。元から口が上手い方ではない。それに弁を弄することができるほど知恵の回る方ではないことなど自分自身が一番よく分っている。それでも男にはやらねばならぬ時というものがある。哲太にとってはそれが今なのだ。
だから、これが名探偵を丸め込むための第一声として相応しいかどうかの自信などこれっぽっちもなかったが、ともかく口火を切ったのだった。
「んー、書き出しとしては悪くないんじゃないかな? 冒頭に唐突な言葉を使って興味を引くっていうのは王道だ。使い古されて目新しさはなくても王道にはそれだけの強さがある。これで降ってきたのが美少女だったら完全な少年は少女と出会うだ」
名探偵は少女の形をしていた。
それも制服を来た女子高生。見る者が見ればそれがかのお嬢様高校と名高い有名私立校のものだと分かるだろう。何かと優秀な生徒を集めているあの学校ならば、名探偵の一人や二人くらい居てもおかしくない。
真っ白な壁に囲まれた部屋で名探偵は机に向かっている。彼女の定位置だ。ちょうど来客用のソファに腰掛けた哲太に背を向ける形で、向かったパソコンから目を離すことなく返答だけが返ってくる。その間、小気味よく響くキータイプ音は一瞬たりとも止まることはない。
「問題はそこからどう話を繋げていくかだね。Why、女の子はなぜ空から降って来たのかという部分が重要だ。飛空挺から脱走する際に落ちて来たとか、そもそも少女は人間ではなく宇宙人だったとか。いくらでも転がしようがあるわけだけど、哲太はどれを選ぶのかな?」
くすくすと笑う楽し気な口調。名探偵はいつだって哲太を茶化すように試してくる。哲太としてもこの五歳も年下の少女にからかわれるというのには思うことがあったがもう慣れた。口ではどうやっても勝てないことはとっくのとうに身に染みている。
けれども、だからと言ってこっちが真剣な時にからかわれるというのは良い気分がするものではないわけで、無意識に哲太は名探偵の背中を睨んでいた。勿論、背中越しに睨まれても名探偵はものともしない。
いや、違う。一九〇センチ近い大柄な体躯を持つ上に強面な顔立ちをした哲太のことを初対面から怖がらなかった彼女のことだ。例え、真正面から睨んだとしてもこの名探偵は少したりとも動じたりはしないだろう。
哲太の抗議の視線など気にもかけず、名探偵は続ける。
「でも、哲太が言うんだからどれも違うんだろうな。これは妄想でも空想でも何でもなく実際に起こった話だね。となると、現実的に起こりえない状況は排除されるから、空から降る、つまり女の子は高いところから落ちたと考えるのが妥当か。これで状況はかなり絞られるわけだけど、その中でも哲太が引き当てたくらいだから遭遇する可能性は限りなく低くありながらも有り得ないことじゃない。差し詰め――運悪く飛び降り自殺の現場を目撃した、そんなところかな?」
お得意の推理でも披露するかのように諳んじた言葉はまさにその通りだった。哲太がどう話したものかと悩んだ時間が馬鹿馬鹿しくなるほどあっさりと、名探偵は真実に辿り着く。
「……ご名答だよ名探偵」
お手上げだと言わんばかりに哲太が肩を竦めてみせると、そこでやっと名探偵は忙しなく動かしていた手を止めた。
「哲太、何度も言ってるけど私は名探偵なんかじゃないよ」
くるりと椅子を回してやっと名探偵――少女は哲太と向き合う。
肩の辺りで切り揃えられた短めの黒髪に意志の強さを感じさせる大きな瞳。初めて出会った時から哲太と目を合わせても彼女が視線を逸らしたことは一度もない。
背後に見えるパソコン画面には膨大な文字の列。本来であればそれは今も書き続けられるはずだった文章。
彼女が手を止めてまで振り返ったのは、それだけ哲太の発言が聞き捨てならないことだったからだ。
「――私はただの小説家だよ」
胸を張って堂々と、誇るように少女は言った。
そう、彼女――結城小春は小説家だ。女子高生や哲太が使う名探偵、自らを示す名はいくつかあるが小春が名乗るのは小説家ただ一つ。
「さて、哲太。今回はどんなネタをくれるのかな?」
嬉しそうに楽しそうに、何かと厄介事に巻き込まれる哲太の体質を小春はネタと称して愉しむ。哲太は小春が本当に自分を小説のネタにしているのかは彼女の本を読んだことがないから知らないが、哲太の荒唐無稽な話に耳を傾けるような物好きは小春くらいであり、それに巻き込んでも良心が痛まないというのも小春くらいなものなのである。
だから、今日も哲太は小春の元にいる。
この物好きな小説家に、自分が出会ってしまった都市伝説を解決してもらうために。