第1章 神藤家の人々 晶和116年 3月
第1章 神藤家の人々 晶和116年 3月
神威省設立特機軍学校の卒業式が終わり、神藤洋一郎は自宅に帰る途中だ。4月からは軍務が始まる。それまではしばらくの休日となる。
とはいえ、通称特機校は、通常の軍学校と異なり、基本的に自宅通学であった。ここ北都宮周辺に自邸や別荘をもつ上流階級出身の生徒が多いせいもある。多くの生徒が自家用車で通学する中、わざわざ自転車で通うだけで、洋一郎は変り者であった。もっとも雪深い北都宮である。さすがに冬は諦めていたが。本当は寮に入りたかったと言ったのだが、母を始め、屋敷の者がそろって悲鳴を上げたのであきらめた。その特機校生活も終わった。
陸星の下弦四式。最新の電気自動車は、雪の多いここ北都宮の道路でも安定した走りを見せる四輪駆動車だ。運転手の軽井の技量もあるが。
洋一郎は、車内からまだ雪が多い街並みを眺める。特機軍学校の濃紺色の制服に似合わなそうな柔和な顔立ちだが、それを致命的なまでの違和感に仕立て上げているのは、黒縁の眼鏡である。そもそも特機校は航空兵の教練に準じた課程が多く、学生には良好な視力を課している。当然洋一郎も裸眼視力は左右とも2.0を超える。眼鏡は不要。かけているのは度のない伊達メガネである。が、この眼鏡をかけたところで、全く「伊達」には見えない。最近女子に流行のおしゃれ眼鏡ですらない。不要の上に、デザイン性皆無、とどめに不似合いな眼鏡をなぜ着用しているのか、本人もうまく答えられない。襟元の桜花章~成績優秀者に授与される~が意外なほどだ。当の本人は気にしていないようにふるまっているが。
北都宮は、100年ほど前、アメリゴ軍の空襲を受けた旧青林市だ。終戦翌年の大政復古の一環で、神皇陛下の座所として大規模な都市建設が行われた。市内には鉄道や道路が整備され、雪の多い都市のため、排雪用の水路が造られた。主要道路は融雪設備が設置されている。
それにも拘らず、対向車が少ない。というより、もともと自家用車を保有できる者が少ない。2年前の紛争で占領したアリューシャン列島が北洋漁業の拠点となり、民衆の生活が向上するという識者たちの見通しは甘すぎた。あるいは御用発言だったのだろう。
雪のせいでもあるが、それにしても幹線道路でこの交通量の少なさ。洋一郎には、民力の一層の低下が見て取れた。
車は、近道用の小路に入った。少し前方では、雪が残っているにもかかわらず、老婆が荷台に大きな荷物を・・・多分行商の売り物・・・を乗せたまま自転車をこいで、今、転倒した。
「軽井さん、ちょっと停めてくれる?」
「あ、はい。・・・どうぞ。」
洋一郎はドアを開けて、転倒した老婆に駆け寄っている。軽井は停車灯をつけて、洋一郎の様子をうかがっている。相変わらずお人よしだ、と思いながらも、つい見守ってしまう。洋一郎は老婆と次いでその自転車を起こし、何やら話しかけている。ケガがないか案じているのだろう。洋一郎は、老婆が元気に去っていくまで見守り、その後ようやく車内に戻った。曇った眼鏡をふく前に、軽井に話しかけている。
「すみません。軽井さん。時間とっちゃって。」
「大丈夫ですよ。洋一様。」
どうせよくあることですし、という言葉を軽井は飲み込んだ。このご時世にお人よしは損である。が、しかたない。こういう若君だから、屋敷のみんなが気持ちよく働ける。
下弦四式は、まもなく郊外の神藤家に到着した。
洋一郎は自邸である洋館の門を抜けながら、車内で、ここは広すぎて豪華すぎる、と思った。もっとも政都東府の本邸は平屋の和風建築のせいもあって更に広い。
過度に広い庭、自家用除雪車が作業中だ。過度に大きい館。雪下ろしは三崎の自動排雪器がやっている。子どもの頃はこの庭で無邪気に遊べていたのだが。
「ここでいい。後は歩く。・・・軽井さん、今日まで毎日、ありがとう。」
そう軽井に言い、玄関まで歩くことにした。数歩歩き、彼は立ち止まった。左足で地面を軽く踏みつけて首をかしげた。その間に、下弦は電気自動車特有の静音で走り去った。
玄関では、喃・・・ナンが出迎えてくれた。自分が入ってくるのを見つけたらしい。お行儀よくちょこんとお辞儀したまでは上出来だが、すぐに飛びついてきた。侍女見習になって2年ほどになる。躾としては注意するべきだが、どうも洋一郎はナンには甘い。
今年で11歳だろうと思われるが、まだ小柄で幼い。無邪気な笑顔には逆らえず
「出迎え、ありがとう。」
と言って、抱き返してしまう。やっと肩まで伸びてきた髪を優しく撫でる。洋一郎もさっきまでの屈託を忘れる。切れ長の目はやや垂れ気味で、撫でられてご機嫌の様子を見せている。そのうち満足したのか、ナンは少しだけ体を離して、洋一郎に目で訴えた。
「ん?何を言いたいの?」
洋一郎が、すかさず左の手の平を差し出すと、ナンが右の人差し指でそこに文字を書き始めた・・・。
「ご、 そ、 つ・・・・・ご卒業、おめでとうございます、だね。」
こくこくとうなずくナンを、洋一郎はもう一度優しく抱きしめ、
「ありがとう。うれしいよ。」
その小さな耳元でささやいた。が、近づいたスキにナンが洋一郎の眼鏡を取ってしまった。かわいいいたずらである。
「こら、ナン。」
あわてて取り返そうとする洋一郎相手に、ナンは微笑みながら後ろに眼鏡を隠す。
が、そこに別な声がかぶって響く。
「洋一様~、おままごと、禁止!ですよ~」
にこやかさを装った笑顔が怖い。そもそも次期当主を指さしているのはどうかと思う。
「ナンも、今はお仕事中です。公私をわきまえなさい!」
そういってナンを捕まえるのは、屋敷の侍女、黒峰百合華だ。ナンは抵抗せず、ぺろっと舌を出して洋一郎に眼鏡を返し、百合華にはお辞儀して謝った。
「百合華、ナンはまだ子どもだよ。大目に見ようよ。」
と甘いことを言う洋一郎だが、
「いつまでも子どもじゃないの。この子も、あたしたちも。」
とちょっと意味深なことを言い、百合華はナンを拉致していった。ナンは連れ去られながらも、笑顔で洋一郎に手を振る。どうせ、百合華も口で言うほどナンに怒っていない。いつも妹のように扱っている。去り際、百合華が振り返った。彼女の腰まで届く艶やかな黒髪がクルッとまわる。活動的な性格にふさわしく、細身のしなやかな肢体をしている。
「洋一様、百合菜がお茶の用意をしてお待ちしております。お早めにお願いいたします。」
今の優雅な仕草だけを見れば、「洋一様の首席侍女」という自任もうなずける。
「・・・ゴメン。遅れるって伝えてくれるかい?」
少し困った口調で言う主人に対して、百合華はつい足元に目に向けてしまう。
「・・・調子、良くないのですね。お茶の支度はナンにしてもらいましょう。ナン、できるよね?」
仕事を任されてうれしいのか、ナンはうれしそうにうなずく。
「よし。じゃ任せるよ。・・・洋一様、百合菜にはお部屋でお手伝いをさせますね。」
「いいよ。一人でできる。」
「ダメです。そう言ってこの前部品を変なところでなくして、探すの大変だったんですから。」
「この前って、いつのこの前だよ。二年も前のことで、過保護過ぎだ。」
「ダメよ、洋一!」
「こら、首席侍女!」
「今は幼馴染を心配してるの!」
「ち。都合のいい時だけ使い分けやがって・・・。」
それでも、ふと真剣になった百合華の表情に気づき、こいつら、まだ気にしてるのか、と思う洋一郎だ。
「わかった。百合菜に頼んでおいてくれ。」
と答えるしかなかった。眼鏡をかけ、ゆっくりと自室に向かうが、左足で時々床を踏む仕草をする。
その様子を、百合華は後ろから見つめていた。
神藤美津姫は、執務室で紅茶を喫していた。お気に入りの北紅玉茶だ。
息子が早々に帰宅した、と聞いて神藤美津姫は行儀悪く舌打ちした。わかってはいたけど、あの子は卒業式の後でも、一緒に遊ぶ相手がいないのか、最後くらいは・・・と思ってしまった。卒業式の後は弘岡の亀岡楼にくり出すのが、特機校の伝統だろうに。
美津姫は、若い。十代で洋一郎を出産していたが、外見は二十代半ば。洋一郎の姉くらいに見えるし、中身は自称「永遠の17歳」という面倒くさい設定を通している。夫である惣一郎を早くに亡くし、人生の半分近くは未亡人歴になるが、洋一郎が20歳となり、正式な当主になるまでは、当主代行である。そのせいか、自称する若さには不似合いな怜悧な面もある。
例えば、その一つに夫の弟、貢二郎を謀殺したことが挙げられる。彼は、洋一郎を暗殺し、神藤家を乗っ取ろうとしていた。美津姫はそれを知り、その計画を逆手にとって夫の弟を殺害した。片棒を担いだ先代の家令以外、知っている者はいない。
神藤家は、家祖である進藤直登の功績で、戦後受勲を受けた家だ。幸い、二代目真一郎、三代目惣一朗にも霊力が受け継がれ、代々伯爵機士を許された。もっとも、その夫は、自分の霊力は及第点、操縦は落第点と言っていたが。
霊力を持つ者は希少だが、航空機を操縦できる資質を持つ者も少数である。よって両方兼ね備え戦神機を自在に操縦できる者は、本当に少ない。そう考えると洋一郎は尋常学校時代には高い霊力を測定され、中等学校では、体育での滑空訓練の成績は抜群だった。家庭訪問に来た教師が、文部省主催の中等部飛行大会でもあれば、全国大会でも上位入賞間違いなしと惜しがっていた。その一方で・・・射撃訓練の成績が中の下。しかもここ数年は霊力の低下。
それでも、特機軍学校に入学したし、卒業した。成績は優秀と言っていい。霊力値の減少は気にあるが・・・。
何より無事卒業した。お祝いはしなければ、と思う。
「ところで、今日の賭け率は?何か変動する要素はなかった?」
話し相手は男装の女家令長谷つばきである。なにやら手帳を取り出して確認する。
「・・・いつも通りですね。リスが少し稼いだくらいです。」
神藤家の先代の家令が、引退する時に、二人の息子に家令を継がせず、やる気も資質も充分の娘を推薦した。それを美津姫が受け入れたのである。本家のブルトンでは知らないが、皇島国では、特に近年は家僕の女性が増えている。神藤家では、実質上の当主自身がまだ若い娘ということもあり、珍しい例ではあったが、家令も女の方が好都合だった。つばきは、家令として神藤家の資産運用、事業経営、家僕の統率を見事にこなしつつ、女主人の私的な相談相手も務めている。もっともこの「相談」は彼女も乗り気のようだ。
「総合してみれば、ウサギ、僅差でヤマネコ。伸び率はリス。現状が続けば数年後にリスが上がり、か と。正直、まだ勝負はわかりませんが。」
つばきが言う。女性にしては低い声だ。20代半ばの長身。少女歌劇の男役にしたらさぞかし人気が出るだろう。
「リスか~・・・あのお転婆のヤマネコがグズグズしてるから、ウサギやらリスやら競争相手が増えてくるのよ。はあ。」
椅子にもたれ、左手で顔半分を隠して、天を仰いだ。これでも伯爵夫人である。
「奥様、まさか・・・。」
「違うわよ、別にウサギがオリ人だとか、リスがハンハンだとかは、気にしてないわよ。ただ・・・最初の孫は純血がいいかなって・・・ちょっとだけ。ゴメン。」
「わかっております。この賭けへの参加をお認めになった、奥様の寛容さ。ただ、洋一さまには・・・。」
「言う訳ないじゃない。あの子、そういうところは家風を受け継いでるもの。あたしより。」
美津姫は、夫との間に洋一郎しか設けられず、その叔父を謀殺した。神藤家は、洋一郎にもしものことがあれば途絶えてしまうのである。当然早々に許嫁は決めている。ただ、その大伴家の娘はまだ幼い。皇島国民法での結婚年齢は男子16歳、女子14歳である。あと4年ほど待たなければならない。まあ、本人同士会ったこともない。毎年正月を過ぎると、その娘の写真が送られてくるが、それを見る洋一郎の何と言えない顔を見る度に、早まったか、と後悔している美津姫であった。もっと優良物件を探せばよかった。あの時は急ぎ過ぎた。・・・その娘が、無事母親になるまでは待ちたくない。
そういうこともあって、彼女はかなり以前から洋一郎の周りには愛人の候補者を送り込んでいる。何しろお家の大事なのだ。母親としてはモヤモヤするものがあるのだが。
そして、そのモヤモヤをごまかすために始めたのが、この「賭け」であるが・・・単に面白がっている、というのが本音かもしれない。
実は、屋敷のほとんどの家僕が「賭け」に参加している。今の一番人気はウサギである。
「洋一様のご卒業はおめでたいことですが、」
つばきが口調を改め、話題を変えてきた。
「ご出征はいつになるのでしょう?」
後継ぎと並んで、悩みの種である。軍人の家系である神藤家だ。次期当主には活躍してもらわないと困るが、戦死されたら最悪だ。
「直接あの子に聞いてみるわ。いろいろ考えてるでしょ。」
「そうですね。では気が早いですが、武勲も期待・・・あ。」
思わず口を押えるつばき。別に失言したわけではない。ただ現在の神藤家では「武勲」という言葉に過分な思い入れがある。
「そうね・・・二番目の武勲が、孫か戦功か、賭けよっか?あたしは孫。」
「・・・願望が強すぎでは?奥様。意外に戦功でしょう。」
洋一郎が自室に戻ると、すぐにノックされた。
「百合菜、だね。」
と聞くと、
「失礼します、ヨーイチ様。」
自称「ヨーイチ様の次席侍女」、百合菜・ジェニー・グリンウッドが入室してきた。
「やはり、おわかりになりますか?」
小首をかしげて、ノックで自分だとわかるのか、と聞いている。洋一郎は屋敷の者をノックの音で聞き分ける。
「それは響きが違うからね。ただ、今は百合菜が来るって聞いてたから。」
答えると、百合菜がすぐそばで工具一式を用意してくれていた。懸命に普通にふるまっているが、洋一郎の視線が工具の点検をしている間、じっとその横顔を見つめている。私室に戻ると、彼は眼鏡をはずしている。ホッと小さなため息をつくと、長い髪が小さく揺れる。髪型は百合華とおそろいにしているが、黄金色の髪だ。洋一郎を見つめる深く青い瞳。白磁のような頬は、今、かすかに上気している。豪州系帰化人である。
百合菜は、自分の想いに耐えかね、洋一郎から眼をそらした。ふと室内を見回す。相変わらず、ご身分にふさわしくない、簡素な・・・。
いつの頃からか、洋一郎は華美を避けるように、むしろ質素を好むようになった。
洋一郎は、百合菜の視線に気づかないまま、自分の左足首を外した。百合菜は、自分に差し出された主人の義足に気づかず、取り外された左足を凝視していた。
「・・・だからひとりでやるって言ったんだ。まだしも軽井さん、せめてナンのほうがいいのに。」
「あ、す、すみません。ヨーイチ様。わたし・・・。」
ぴくっと一瞬震え、口に手を当てる百合菜に
「その反応じゃ、僕はまるで暴君だよ。だいたいこれは僕の武勲の勲章だ。」
と、できるだけ軽く答える洋一郎だ。
「・・・はい。わたしの・・・誇りです。」
頬をピンクに紅潮させ、胸を弾ませて答える百合菜に、洋一郎は優しく微笑んで。
5年前。洋一郎は13歳で、中等学校に入学したばかりの頃だった。当時は眼鏡はしていなかった。百合華と百合菜は、まだ11歳で、仲良し姉妹の様だったが、この時期だけは不思議とケンカすることが多かった。きっかけは、百合菜が一足先に「大人」になったことで、体形でもかなり差をつけられていた百合華が嫉妬していたことなのだが、洋一郎は今も知らない。
ただ、その日の夕暮れに百合華はかなり強い口調で百合菜を罵っていた。挙句に
「黄色い髪の白ん坊、オリ人のくせに!」
と、普段は決して思ってもいないことを口に出してしまった。
それまでも屋敷の外でたびたび「敵性民族」なる差別を受けて我慢していたのに、親友とも姉とも慕っていた百合華にも言われ、百合菜はショックで屋敷を飛び出した。
夕食近くなっても百合菜の姿が見えないことに不審を感じた洋一郎は、様子のおかしい百合華に聞いた。百合華は泣き出して、自分がしてしまったことで百合菜が飛び出したことを告げた。
神都北都宮と言っても、郊外であり、近年治安が悪化している。洋一郎は懐中電灯を持ち愛用の自転車で百合菜を探しに行った。
日も沈み、暗くなり始めてようやく見つかった百合菜は、しかし、明らかにガラの悪い少年たちに連れていかれそうになり、抵抗しているところだった。
洋一郎は微塵もためらいを見せず、少年たちの中に飛び込み、百合菜を逃がした。洋一郎に何度も叫ばれ、ようやく逃げた百合菜は、周りに助けを求めたが誰も力にならず、結局全速力で屋敷に戻り、事態を告げた。
軽井が走らせた自動車で百合菜たちが現場に着いた時には、満身創痍で、左の足首を妙な角度にねじられた洋一郎が倒れていた。
翌日、病室で洋一郎が目を覚ましたのは、百合華の大声のせいだ。病室には百合華と百合菜、当時の家令たちがいたが、百合華が洋一郎のけがを百合菜のせいだと責めていたのだ。
責めている百合華も責められている百合菜も泣きそうだった。大人たちもどうしたものかという感じだ。心情的には百合華の味方なのだろう。
目を覚ました洋一郎は、自分の左足が失われた事実に衝撃を受け、顔は強張り、目は大きく開かれ、口はぎゅっと結ばれた。しかし口に出してはこう言った。
「これは、僕の武勲だ!この左足は、その勲章だ!」
震え、かすれた、まだ声変わりしていない声で洋一郎は言ったのだ。
「僕は、大切な屋敷の者を守ったんだ。みんな、僕を褒めてくれ!」
そう言って、右手で百合華を、左手で百合菜を抱き寄せて言い聞かせた。
「僕は、お前たちを守る。だから、お前たちもケンカをやめてくれ。・・・百合華、そんなイヤな言い方を大事な百合菜にするな。百合菜、仲良しの百合華のことを許してやってくれ。」
二人の少女は、互いに謝り赦しあいながら洋一郎にだきついたまま号泣した。病室の前にいた美津姫とまだ家令見習だったつばきは、洋一郎の声を聞いて涙ながらに喝さいを送った。
そして、以後、神藤家に仕える者たちは、頼りないと思っていた洋一郎に強く忠誠を誓い、「若君の武勲」に恥じぬよう、自分たちの日ごろの言動を戒めるようになったという。
実は、後日談がある。この前後、洋一郎や神藤家を快く思わない風評が多いことに疑問を持った先代の家令が調べたところ、背後に先代当主の弟の動きがあることを突き止めた。この年のうちに、神藤家は洋一郎を正式に次期当主とするのだが、その裏ではいくつかの表に出ない出来事があった。
「その工具、とってくれ。」
「はい。・・・やはり、冬は調子が?」
義足の調整をしながら、洋一郎は答える。
「まあ器械だからね。それなりに精密だし。」
「アメリゴだと再生医療が進んで、手足の再生も可能と聞いておりますが・・・。」
「百合菜。あまり外国のことは言っちゃ・・・ま、ぼくんちでは大丈夫とは思うけど。」
百合菜は、洋一郎と寝台で並んで座っている。何もないのにドキドキしている。
「くす・・・ぼくんち。その言い方、好きです。」
百合菜もこの屋敷が、ここで働く人たちが大好きだ。きっと屋敷の者もそう思っている。
着替えが住むと、百合菜は洋一郎を小広間に連れて行った。
別館であり、身分の割にはこじんまりしているが、それなりに長い廊下を歩く。
3度のノックの後、入室を告げた百合菜がドアを開ける。
小広間では、美津姫、つばき、百合華、ナンが待っていた。
一同の顔ぶれを見て、洋一郎は逃げたくなった。よく言えば、屋敷でも特に自分に親しい者、悪く言えば・・・。昔から危険を察知する勘はよかった。
が、後ずさりした彼の後ろで、百合華と百合菜がドアを閉めた。音は立たなかったが、何かを閉ざされた感が洋一郎を襲った。
「逃がさないわよ、洋一さん。」
美津姫がニッコリと笑う。なぜか母の笑みの奥に邪悪なものを感じた洋一郎であった。
この神藤家の小広間は、家族的な雰囲気を大切にするための小ぢんまりしたつくりにしている、というのが美津姫の弁である。洋一郎に言わせれば「どこが?」となるのだが、温かみのある、かつ抑えの利いた装飾、色合い、調度品は互いの距離を近くする。
小さな卓を挟んで、一人用のソファーで美津姫と洋一郎が向かい合う形になる。
「洋一さん、ご卒業、おめでとう。しかも、桜花章、素敵ね。」
息子に対して、微笑む。美津姫は息子を溺愛している。13歳までは優しすぎる性格を危惧していたが、意外な剛毅な面も見せた。さすがに息子も18歳であり、軍人になる身、過度の接触することは控えていたが、卒業を祝うという名目で、最近ふさぎがちの息子とゆっくり話そうと思っている。
その脇に女家令つばきが立っている。毅然と立っているだけなのに優雅さを感じさせる。その立ち姿を見た百合華と百合菜は、家令と侍女の違いを超えて、自分たちの未熟さを感じていた。自称主席侍女の百合華は洋一郎の右に、次席侍女の百合菜は左に控えている。
見習のナンが、百合菜が前もって用意していたワゴンを押して、食器を卓上に並べる。ナンは、うまくできたのか、終わると洋一郎の様子をそっとうかがった。手際の格段の進歩を見て、洋一郎は微笑んでうなずき、ナンを褒めた。愛らしく笑顔で喜ぶナンの様子を見て、つばきはさりげなく、リス更に加点、と心中にメモしていた。
「洋一さん、本当なら大勢の方をお招きしてお祝いするところですが、今日は身内だけでお祝いいたします。よろしくて?」
「・・・母様。ありがとうございます。」
洋一郎は、素直に母の心遣いに感謝し、先ほどの悪い予感はなんだったのだろうと思った。
まだ夕刻前である。本格的な祝いの会までは、紅茶と菓子で時間を過ごす。紅茶は、セイロンのダージリン、菓子は中立の東欧圏からやってきた菓子職人ワシエが造ったザッハトルテである。皇島国では洋菓子の需要は多くない。純国主義に反するからだ。一方で同盟国のインド連邦からは大量の茶葉が輸入される。紅茶に洋菓子という組み合わせも一苦労だ。
洋一郎は、茶会の中でもそんなことを考える。自然と表情が曇る。
「洋一様、また何かつまらないこと考えてるでしょう?」
と、その様子を百合華がたしなめた。
黒峰百合華は、腰まで伸びた長く艶やかな黒髪と均整のとれた肢体をもつ、少々活発な16歳の少女である。美津姫に言わせれば「お転婆娘」だが、以前は「じゃじゃ馬の男女」であったから、自身ではおしとやかになったと思っている。
黒峰家は、3代前から神藤家に仕える家で、忠誠心が厚い。というか熱い。両親ともに先代に仕え、母は洋一郎の乳母であった。
本人は、自ら洋一郎の「首席侍女」を自任し、「年下の姉」を僭称している。客観的な事実としては、洋一郎の乳兄弟として幼いころから付き従い、長じてからは公的には侍女として、私的な場であれば、幼馴染としてふるまうことを許されている。
今は私的な場に準ずる、と判断したようだ。次期当主に対する態度ではなかったが、美津姫も気にしていないようだ。
「ヨーイチ様は、考え事がお好きなのです。」
実は百合菜は、百合華に先を越された。そのせいで、ついフォローにならないフォローを入れた。
百合菜・ジェニー・グリンウッドは、第二次太平洋戦争で皇島国の支配地となった豪州出身の家系である。両親が皇島国に連れてこられ、困窮していたが、異常なほど開明的な家風も持つ神藤家に雇われた。
16歳の、金髪で百合華とおそろいの髪型、碧眼、透き通る白い肌、そして年齢不相応に豊かな体形をしている少女だ。百合華と一緒にいるせいで誤解されるが、自分一人の時は控えめで穏やかな性格だ、と思っている。
彼女の記憶では、6歳のころ初めて屋敷にやってきたとき、二つ年上の黒髪の男の子に優しくされたことが幸せへの第一歩だ。その子が彼女の故国に興味を持ったので、秘密で言葉や風習を教えたり一緒に本を読んだ。
そしてその男の子と一緒にいた、自分と同い年の女の子と仲良しになれたことが二歩め。それ以来、彼女は幸せな日々を歩き続けていた。彼女の皇島国での帰化名は、洋一郎の命
名だ。彼女自身も百合華もとても気に入っている。
普段から姉妹のように仲の良い二人だが、洋一郎を挟むと、時々緊張感を漂わせる。そんな時、百合華は妹分の金髪に青い目、なにより年齢に比して不似合いに豊かな体形を見て「反則だわ」と思い、百合菜は姉とも思う相手の、明るい性格と活動的でしなやかな肢体、その上主人とおそろいの黒髪を見て「卑怯です」と密かに嘆く。
つばきは、ヤマネコとウサギは加点か減点か考えあぐねて、目で女主人に問うた。美津姫は、親しさより愛情を重視する、として、ヤマネコ減、ウサギ加、と指示した。
その間、ナンは上手くおねだりして洋一郎から菓子を一口、二口とせしめている。食べる度に、本当に幸せそうに微笑む。
ナンは、2年前の9月から屋敷に引き取られた。父は皇島国人らしいが見たこともない。母は隣国の半島人だ。その3週間ほど前に死んだ。それ以来ナンは、ロクに食べ物もなく道端で死にかけていたところ、通りがかった洋一郎が、見かねて連れてきた。美津姫はじめ、屋敷の者は困惑した。犬猫でも、そうそう拾っていいものでもない。慈善事業を行っている神藤家では、援助している施設に預けようとしたが、少女になつかれてしまった洋一郎とその味方、百合華と百合菜が抵抗した。最終的に美津姫が妥協した。近年の皇島国では、以前にも増して民族差別が強まり、一度救った少女がその被害に遭うのを考えると、看過できなかった。屋敷の者たちも、最初はいい顔をしなかったが、ナンの愛らしい笑顔に次第にほだされ、現在はその存在を微笑ましく感じ、受け入れている。
しかし愛らしく無邪気なふるまいの陰で、意外にしたたかな一面がある。本人は無自覚であるが。
今は洋一郎に甘え過ぎということで、百合華と百合菜に引きはがされている。ナンも娘らしく成長してきた。最近は年長者二人が「危険よね」とつぶやくようになった。
その三人の様子を見て、つい優しい表情になる洋一郎。
「あの子の、ああいう顔、なかなか見ないわねえ。」
美津姫はこっそりつばきにつぶやき、彼女も同意する。
「少々頼りなげな時もありますが、こういうお顔は見ていて誇らしくさえあります。」
「でも、せっかくの機会だからね・・・。」
いつ話を切り出すか、美津姫は悩んだが、そろそろいいだろう、と思った。
「百合華、百合菜、ナン・・・つばき。しばらく席を外して。」
女主人として、美津姫が命じた。
「あなたがいろいろ思い悩んでいるのは感じていたし、軍学校が楽しくなかったことは知っていたわ。」
こういう時の母は、正直凄みがある。自分のことはお見通しなのだ。昔は単純に大好きな母親で、ある時期からその外見とは似合わない賢さを感じ、尊敬もしている。
「その軍学校は卒業した。せいせいすればいいじゃない?でも今日も何か抱えているわね?」
洋一郎も、どこまで話すべきか悩んだが、その一端はいいだろう、思った。
「今日、卒業式で・・・武内神威大臣がお見えになりました。」
「そう・・・あの方が。」
家祖に戦神機建御雷を与え、その功で竹内改め武内となった、あの・・・。未だあのころと変わらない姿をしているという、不老不死の一人。進藤直登の家系の者としては、単純な恩人とはいえない、正直複雑な思いを持ってしまう。
「いらっしゃること自身は、知っていたのですが・・・。」
卒業式の壇上で、武内は言った。実は近日中の大規模な出兵が決まっている、と。そして、
「次代の皇島国を支える諸君らも、この出兵に参加することになるだろう。」
あの時、武内大臣は自分を見ていた、洋一郎はそんな気がしていた。
「大規模な出兵?しかも近日中・・・。特機校の卒業生がすぐに参加、ね。それは大きな知らせね。画像機で放送していないかしら?・・・卒業式で言う?そんなこと。」
美津姫が、息子を案じると同時に、武内の発言の重要性に考えをめぐらす。その怜悧な有様を、息子としては愛情が半端なような気がしてしまうし、一方すぐに考えをめぐらす賢さに憧れすら持つ。おそらく出兵を確認し、各方面に手を打つのだろう。逆に言えば、そのことにまで考えがいたらず、今になって母親に話している自分の世間知らずさが情けなく思える。
美津姫は、洋一郎の複雑な表情に気づき
「・・・洋一郎さん、ご出征おめでとうございます。」
表情を改め、笑顔で一礼した。
「では、今日は出征の前祝も兼ねて、更に楽しくいきますか。・・・で、本当に言いたいことは何?」
まだ息子の顔が晴れていない。
「自分たち特機校の卒業生が参加する、つまり戦神機の大規模投入を意味します。ならば、出兵先は北アメリゴ大陸です。」
洋一郎の成績は、首席ではない。しかし、多くの科目で最も優秀だった。特に軍事そのものになると、特機に在籍するのが場違いなくらいだ。知り合いの軍人の誰よりも、息子の解説は正確で簡潔なことが多い。さすがに軍事そのものは深くは知らない美津姫は時々息子とこういう会話をしていた。
「西海岸か、アラスカ?どっちだと思う?神藤少尉としては。」
「アラスカでしょう。アリューシャン紛争で、後方支援の拠点を確保しましたから。」
洋一郎は間髪入れず答える。ただ、美津姫は軍事こそ詳しくないが、息子のことはわかる。だから、こう聞くことができた。
「でも、あなたは個人的には西海岸の方がいいと思っている。」
目を大きく開いて母を見つめる洋一郎。
「・・・僕は、早く戦争を終わらせたいだけです。まだ豪州の経営すら軌道に乗っていないのに、ここで アラスカを占領して、また土地を持て余して何十年もかけて、結局利益を得るのは一部の特定の階層。その何十年で、更にアメリゴとの国力の差がついてしまう。せめて占領に成功してもソ連に割譲して、敵の牽制になってもらった方がいいくらいです。その上で東と北から・・・もっとも、大規模な出兵そのものに反対ですが。」
「・・・戦うたびに、民の生活の水準は下がっているわ。あなたが思っている通り。」
そう、息子は平民の生活を知っている。そして自分の生活に罪悪感を持っている。しかし、この子は、いまの皇島国では自分たちが散財することが多くの人を豊かにしているという現実を見たがらない。・・・頑固な、いや、若いだけかしら?やはり、どこか偏り過ぎだ。
「なのになぜ戦うのでしょう?何のために?」
「洋一さん、気持ちはわかるし、そんな子に育ってくれてうれしい。わたしもその思いはある・・・でも、民の生活のために戦う国はないの。歴史的に、現実的に、ね。あのアメリゴですら、戦争の目的は民主主義じゃない。」
洋一郎は、軍人にならなければならなかった。軍人の家系。救国英霊の後裔。伯爵家の次期当主にして侍の爵位をもつ者。ただ、なぜか軍人として戦う覚悟・・・目的を見つけられていない。国を守るのならまだしも、外征になると途端にそれが露呈する。親としては、痛恨だ。目的があいまいで、戦場に不要なことばかり考える軍人は死ぬしかあるまい。
「母様の言ってることはわかります。でも今のままじゃこの国がいつか、いや、すぐにでも」
「洋一さん!あなたは、軍人でしょう。民の生活を考えるのは、政治家の仕事よ。あなたの仕事は違うわ。」
しばし迷い、そして美津姫が覚悟を決めた。
「洋一さん、あなた、軍人になりたくないの?」
つい詰問に近い口調になってしまった。母と息子はにらみ合う形になった。
わずかな沈黙の後、息子が折れた。うつむいてつぶやく。
「・・・僕は軍人にならなければなりません。」
美津姫は息子が予想より深刻な悩みを拗らせ過ぎていたことを、知る。それが、許されないことは、母も子もわかっていた。
「もう驚かせないでね。本当に。なりたくないって言われたらどうしようって母さん考えちゃった。」
美津姫は、敢えて明るく言った。
息子はなりたいともなりたくないとも言えなかった。ならなければならない、そう言っただけだ。それでも、その覚悟だけでよしとしなければならない。本音を言われたらお互いどうしようもなくなる。
美津姫は、今日はここで終わらなければならない、と思った。と同時に、息子を快く送り出そうと決意した。やはり、やるしかあるまい。あの計画を!母親としては、モヤモヤするものがあるけれど。
しばらく後、祝いの宴が始まった。と言っても本人の趣向を知っているので、身分を考えればこじんまりしたものである。それでも北都府の豊かな山海の恵みを、津軽塗を中心とした器に盛りつけ、見た目も華やかな料理が次々出された。
「山際さん、また腕を上げたわね。」
「はい。この岩木牛とサモダシの煮込みなど、すばらしい風味です。散らした菊花もきれいです。」
珍しく洋一郎も酒をたしなんだ。米酒である。昔は清酒と言っていたのだが、近年は
米、つまりアメリゴを飲む、というあおり文句が流行して米酒という言い方が一般的になった。度数を低く抑え、飲み口は軽く、香ばしくなった。それを切子細工の器で飲み干す。
美津姫は昔ながらの清酒派で、濃い甘口を好む。白磁を好む彼女は、職人に指定して器を作らせた。器は大きくないが、ペースが早い。
実は二人とも酒豪である。この親子で飲み始めると切りがない。洋一郎が米酒を所望した時、百合華と百合菜は密かに目くばせをしていた。今日は長くなるね、と。
二人は、主人の給仕が面倒でそうしたわけではない。むしろ一緒にいられる時間が長くなるのはうれしい。妹分はさすがに眠そうなので、二人が先に下がらせた。「勝った」というつぶやきを隠して。
一度深刻なやり取りをしたせいか、夜は祝いの席にふさわしく明るい話題が多かった。
しかし、夜もかなり更けた。そろそろ・・・という時に、美津姫があらたまった。今まで酒をたしなんでいたという雰囲気が霧散した。そして、使用人である一同に礼を言ったのである。
「百合華、百合菜、今まで洋一郎のためにありがとう。百合華、ナンにも伝えておいてね。」
百合華はようやく身についた優雅なふるまいを忘れ、直立不動になった。
百合菜は、感激のあまり、持っていた手拭きを落とした。
二人は一度見つめ合い、まるで打ち合わせたかのように同時に
「とんでもございません。わたしたちこそ洋一郎様のおそばにいられて幸せです。」
と答え、彼女たちなりに精いっぱい優雅な礼をしてみせた。
見ていた当の本人は何やら面映ゆげであった。顔が赤いのは酒のせいではない。
しかし、いい話では終わらなかった。美津姫は、更に続けたのだ。
「・・・実は、この子の出征が決まりました。」
先ほどつばきが神威省に確認した。各方面も動き始めた。間違いない。であれば、当主代行としては、万が一に備えて手を打たねばなるまい。
洋一郎は、それをここで言うか?と思ったが、表情は変えずに彼の幼馴染たちを見つめた。・・・ち、やっぱり。
百合華も百合菜も凝固していた。目は大きく開かれ、顔が強張っている。
「正式な出征祝いを、また後日行いますが・・・。出征まで、お互い、思い残すことはないように、ね。」
何やらかわいらしく微笑んだ美津姫を見て、洋一郎は悟った。最初の悪寒はこれだったか。美津姫は二人をけしかけたのである。出征前に自分を落とせ、と。そんなに後継ぎが大切か・・・理屈はわかるがわかりたくない洋一郎である。
しかし、百合華が、食い入るように洋一郎を見ている。
百合菜はうつむき、自らの襟元を必死でつかんでいる。
この雰囲気をどうしてくれるんだ、母様、と洋一郎は心中でつぶやき、即時撤退を決断する。ここは金ヶ崎だが藤吉郎はいない。より急がねば・・・。
無言、いや無音無気配、忍者顔負けの動きで退室した我が子を見て、美津姫は、ち、と舌打ちをした。
「でも、ボーナスステージはここからよ。」
今日の内に、まず一手。当主代行と、母親と、賭博師。3つの顔の内2つが言わせた。
「奥様、敵性語の使用はお控えください。・・・ちなみに総得点ではウサギです。」
つばきが、冷静に指摘した。
今夜は、百合菜の手番。そう美津姫は告げた。
「初陣で武勲を立てたら、すぐに退役しなさい。ホントはそう言いたかったわ。あの子に。」
つばきと二人になった時、美津姫はつい本音をもらした。
実は夫は早い時期に退役したがっていた。彼は、霊力はともかく、航空機の操縦者としては、あまり優秀ではなかった。しかし神藤家当主の伯爵機士となれば、周囲の期待も高い。30を過ぎて、ようやく面目を施すほどの武勲を積み重ね、退役して美津姫をめとった。ただ、その後若くして亡くなった。惣一朗さんも、民の生活は気にかけていて、生きていれば政治の世界に進出していたかもしれない。でもあの人、お人よしだったから、大成できたかどうか、と美津姫は夫のことを思い出してしまった。それが言わせた言葉であった。
「奥様・・・お気持ちは・・・でも」
「そう、難しい。無理と言ってもいい。」
真実は不明瞭な点も残るが、進藤直登がこの国の敗戦を覆したのは事実。その家系の者が軍にいるかいないかは大きな違いだ・・・正直息子にはつらい現実だ。あの子の霊力が下がっているのもその辺の事情があるのかも。
そもそもこの国の風潮は、洋一郎にとっては厳しい。義足というだけで差別的な者もいる。まして軍の中では。
せめて、あの子たちが息子の屈託をほぐしてくれれば・・・そう思いながら心中のモヤモヤを打ち消そうとする美津姫だった。
「百合菜、後片付けはわたしがするよ。だから・・・がんばって。」
自分自身の心中を隠して、明るく、少しからかい気味に励ます百合華。拳はグーだ。こんなところはかなわない、申し訳ない、そう思いながら百合菜はグーを返す。
「・・・うん。ゴメンね。・・・ありがとう。」
そう言って、姉とも親友とも思う恋敵に礼を言い、上気した頬で退室する。足元が危ういのは、乙女の身としては過分な覚悟をしているせいであろう。
半刻後、「次席侍女」の特権を活かして身につけた解錠術(洋一郎の私室限定)で、こっそり入室する百合菜。薄い絹の夜着をまとい、ごく軽く化粧をしている。
胸の苦しい鼓動を抑え、暗い室内を一歩一歩進む。
寝台の上に、しかし、覚悟を決めた対象が、いなかった。
「ふうっ・・・相変わらず、お察しがいいというか・・・。」
意気地なしというか。後半は心中にとどめ、彼女は気を取り直して、雲隠れした主人の寝台を大胆にも一夜占領することにした。そして、洋一郎の気配に包まれて、満足して寝入った。
洋一郎の部屋から出てきた百合菜の笑顔を見て、極めて複雑な笑顔を浮かべた百合華が、真相を聞いて激しく転倒したのは翌朝のことであった。
「いつもすまないな、軽井さん。みんなもこんなに遅い時間まで待たせて、すまない。」
神藤家でも、男の家僕はいる。洋一郎は時々彼らの根城に避難している。喫煙室である。ほぼすべての女の家僕が忌避する部屋で、利用する男どもが交代で清掃そのほか手入れをしている。自然と男同士が集まる場所となり、今は洋一郎の卒業祝いを運転手の軽井の声掛けで行っている。家令の補佐をする菅原から庭師の丹羽まで、おおかたそろっていた。
ホタテの貝柱やするめなど、乾物中心のつまみと安酒だったが、洋一郎は充分楽しみ、参加者に謝意を示した。
翌朝、煙草のにおいをまとわせた洋一郎が部屋に戻ると、百合華がこっぴどく叱りつけることになった。百合菜は、なぜか耳を赤くしてうつむき、さすがのナンも、鼻をつまんで、その日は洋一郎に抱き着くことはなかった。
「奥様、ウサギがしくじったようです。」
「ち。」
執務室で報告を受けた美津姫は、左手で顔の半分を覆い、天を仰いだ。
「詰めが甘いのよ、あのオリ人は。」
「奥様。」
差別的な言動をすかさずたしなめるつばき。美津姫を始め神藤家の者は、現在の皇島国には珍しく民族主義ではない。だが、なにしろ跡取り問題がからむと、必死過ぎとモヤモヤが合体して、時折逆上してしまうのだ。
「・・・つばき。わたし、不安があるの。」
深刻な主の様子に、真顔になる女家令。
「実は、あの子・・・あっちの趣味じゃ?」
「は?」
意外な発言に、せっかくの男装の美女も表情がおかしなことになっている。
「あのう~奥様?」
「最近、帝都放送でやってる、白昼劇場よ!」
「戦場での男の友情が、いつしか、というアレですか?」
「そうよ!」
「・・・そうじゃないと思いますけど。」
女主人と次期当主、どちらもいろいろ拗らせて大変。つばきは心中でため息をついた。
そして・・・出征の朝。
洋一郎は、特機軍特有の、濃紺に白線、襟高の軍服に少尉の階級章をつけていた。既に一人一人に別れを告げ、門まで来ている。最後まで残ったのはいつもの面々だ。
百合華が、小首をかしげながら主の様を堂々と批評した。しかし目が赤い。
「う~ん、洋一って、背が高いし恰好いいはずなのに、微妙に軍服も似合わないよね。」
百合菜は、すかさずフォローに入った・・・つもりである。
「百合華ちゃん、ちがうよ。軍服が似合わないくらい、仕草が優雅なのよ。」
要するに似合わないのだろう。こちらは、なぜか耳も赤い。
「どう思う、小娘どもの評価?」
美津姫としても気になるところである。月並みな別れは、みな既に済ませた後だ。
「そうですね。当たらずとも遠からず、でしょうか。・・・奥様、リス加点です。」
洋一郎と軍服の組み合わせについては、どうやら衆目の一致するところのようだが、
それには加わらず、ひたすら洋一郎にしがみついて泣きじゃくるナン。
それを見ていると、百合華も百合菜も、加わりたくなる。いや、押しのけて自分だけでも、とすら思う。が、出征の日に涙は不吉だ。互いの顔を見合わせて、かわいそうだがナンを引きはがすか、悩んでいた。うまれつき話せないナンとしては、こんな時は泣くしかないのだ。
結局二人は見守ることにした。
「んっく・・・あ・・・ん、んんう。」
ナンは顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「大丈夫だ。可愛いいナンの所に帰ってくるから。安心して。」
洋一郎は、腰をかがめ、ナンの頭を優しく撫でながら、耳元でささやいた。ささやかれる度に、ナンが懸命に頷いていた。洋一郎が、涙をそっとぬぐうと、ナンは指で洋一郎の手のひらに文字を書く。いつもの、二人だけのコミュニケーション。ナンが無理やり笑顔をつくる。
その様子を見た百合華と百合菜は再び顔を見合わせ「やっぱり、危険よね。」と言って結局強引にナンを引きはがしにかかった。そして、ナンにゴメンと言って百合華は、彼女を百合菜に預け、洋一郎に猛然と突撃した。彼女も「もしかしたら・・・」と思ってしまい、耐え切れなくなったのだ。
必死の表情になり、てんぱった声で洋一郎に訴える。
「ね、お願いがあるの。一つだけ。お願い!」
百合華のお願い。洋一郎は、以前は何でもお願いしていた百合華が、ある一件以来一度も「お願い」をしていないことに気づいた。苦笑いを向ける。
「写真、撮りたいの。みんなと一緒に。洋一と。」
大の写真嫌いの洋一郎に必死で頼んだ。
「うえっ。・・・他にないかな。百合華。」
「お願い。お願い・・・お願い!」
百合華は、半ば涙ぐんで必死に何度も頼み、ついに洋一郎を押し切った。
「・・・3年ぶりのお願いじゃ、な。」
正面に百合華に眼鏡を取られた洋一郎、その前にナン。右の百合華、左の百合菜は定位置だ。洋一郎は両の腕を取られて微妙な表情だ。単に写真機嫌いのせいかもしれないが。そしてやや後ろに並んだ美津姫につばきは、まるで洋一郎の姉たちの様だ。ふたりとも写真写りがすさまじくいい。
写真が趣味の軽井が大型の爾光の写真機で撮影し、みなに1枚ずつ配った。
一枚に収まった、大切な思い出。撮影の後、百合華はこらえきれずに泣いた。泣いて百合菜に慰められ、つばきにたしなめられた。
もっとも、そのつばきは密かにヤマネコ大逆転、とつぶやいていたが。
「最近、戦闘中に大切な人を思い出すと生きて帰れないっていう戦場伝説があるから、写真は見ないで、お守りにするよ。」
洋一郎は、もらった写真を見ないまま、大切にしまった。
「洋一さん、七夕とお盆だけでも帰ってきてね。」
「・・・軍務によります。すみません。お約束はできません。」
寂しげに微笑み、そして自分を愛してくれる人々に敬礼する。特機軍の敬礼は海軍と同じく肘をはらない。
「みなさま。お健やかで。では行ってまいります。」
今さら「お国のため」などと言う気もない。皆の幸せだけを祈るだけだ。覚悟は決めた。今は、この人たちを守る。ここに戻ってくる。そのために戦うのだ、と、洋一郎はそう思うことにした。
洋一郎を乗せた下弦四式は屋敷を去った。神藤家は、その日いつになく静かだった。
翌日、屋敷に憲兵隊が来た。昨日はめでたい出征の日だったのに、なぜ周辺住民を集め、万歳をして送り出さなかったのか、と問いただしに来たのだ。
まさか当の本人がそういうのが大嫌いで、とはおくびにも出さず、美津姫はこう答えたものだ。
「我が神藤伯爵家は軍人の家系です。常在戦場の心得の元、出征は当たり前のこと。わざわざ万歳なんて、侮辱ではないですか?」
憲兵隊は、何も言えず、帰っていくことになった。
「ふう。毎回のことながら、にらまれてるわねえ。うちは。まあ、一般の方々相手に職務熱心になるよりは、いいのかしら。」
「・・・それでも異常かと思います。また、どこかから、いらぬ手回しが・・・。」
美津姫とつばきは、早速対策を練ることにした。いつものことではあったが。