13. 見たいと願うもの(3)
ユキにとってこの話は衝撃的なものだった。
〈女神の書〉は手放しで世界中の人々が喜んでくれるものだと思っていた。
疑いすらしなかったのだ。
自分の存在自体が悪いものだと考えられるなんて……
「ユキ様! ユキ様がお心を痛める必要は全くありません。この国の……いえ、この世界中のほとんど全ての人間がユキ様のいらっしゃったことを歓迎していますし、ありがたい事だと祈っているのです。砂漠にある数多の砂の中のほんの一握りの連中なのですから」
ユキは急に恐ろしくなった。
日本の生活では考えられないほど、自分の存在が重く・息苦しく感じられたからだ。
自分は今まで、誰かにこんな悪意を向けられた事があっただろうか?
否、自分の存在自体を「悪」であると決めつけられ、排除される経験などユキには無かった。
そこにあるのは、もっと本質的に暗い――――別の闇だ。
ユキは一人きり、不安定な断崖を歩いている気分だった。
アルスに会いたい――――
強い衝動がユキを襲った。
でもすぐに勝手な考えだと自分を恥じた。
アルスに頼ってはいけない。アルスはいない。一人で乗り切って行くのだ。
いつか日本へ帰るまで――――
それでも一度心に去来した思いを、ユキには止められなかった。
「……あれから、皇子はどうしてる?」
ググンがユキの目の奥を見つめた。
「……皇子は少し元気を取り戻されたようで、最近では一心に剣の稽古を行っていらっしゃいます」
ユキは縁談の話も聞きたくなった。ずっと我慢していたことだ。
今にも出そうになる言葉を押しとどめ、ググンにそっと伝えた。
「この事皇子は?」
ググンは首を横に振る。
「それなら、皇子には言わないで」そう言い残し、ユキは大宮殿を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
丘の離宮に戻ってもユキの心は晴れなかった。
あの日からどこへも出かけず、離宮に籠ることが多くなった。
ヘレムもサラナもそんなユキを心配して、
「庭園を散歩しませんか」と誘ってくれるのだが、外へ出る気がしなかった。
ユキはここ最近〈女神の書〉を書くことすらしていなかった。どうしてもペンが動かないのだ。
これが正しい事なのか自分でもわからなくなっていた。
誰かにとっての『悪』を成し遂げる意味などあるのだろうか?
夜になると、寝室から続くバルコニーに出て、空を眺めていた。
早く日本へ帰りたい――――
あの荒野で願った時よりも、それはずっと強く感じられた。
月が雲に隠れてしまった。雨期が近いせいか最近は雲が多く、月を満足に見られない夜も多かったのだ。
ユキの心にも薄雲が広がっていった。
こうしていると、後ろからアルスが声をかけてくるのではないかと錯覚してしまう。
何を期待しているのだろうか?
アルスはいないのに……。
あの時大宮殿で、自分の現状をアルスは知っているのかユキはググンに尋ねた。
そしてユキは「伝えないで」とググンにお願いした。
それは決してアルスに心配をかけたくないと思ったからではない。
立ち直りつつあるアルスを気遣ったものでもなかった。
――――いやその気持ちもあるにはあった。
しかしユキが恐れたのは――――
ユキの危険を知っても、アルスが心配してくれなかったら?
駆け付けてくれなかったら?
会ってくれなかったら?
追い返されたら?
ユキは本当に孤独になってしまう。
絶望に囚われてしまう。
……ただ怖かったのだ。
自分の存在がアルスの心の中で失われてしまう――――その事を突きつけられるのが、一番恐ろしかったのだ。




