13. 見たいと願うもの(2)
ユキは立派な彫刻のほどこされた、扉の前に立っていた。
考えてみると自分はここにいる間、この部屋の前にすら来たことが無く、ましてアルスの自室を訪れることなど一度も無かったのだ。
少し緊張して扉をノックした。
返事は無い。
もう一度ノックしてみる。
中からアルスの声がした。
ドキンと胸が鳴る。
ユキは覚悟を決めて扉をそっと開けた。
「アルス……?」
窓辺の桟の所に腰かけて、外を見ていたアルスが驚いた顔で振り返った。
「あの……近くまで来たから寄ってみたのよ。元気?」
気の利いた言葉が浮かばない。
モリの言葉を思い出し、ユキにできうる精一杯の笑顔を浮かべる。
振り向いたアルスは、いつもと変わらないような気がした。強いて言えば少し痩せたようにも見えなくは無い。だがモリやググンが心配するような感じはしなかった。
ユキがもう一押し扉を開ける。
「帰れ!」
アルスが大きな声でユキを止まらせた。
ユキは金縛りにでもあったようにビクンとして扉から手を離した。
鋭いアルスの目がユキを見据える。
「何しに来た? お前に用は無い」
アルスが冷たく言い放つ。
「そうだよね。ごめんなさい」
ユキはアルスの拒絶の言葉に凍り付いた。
なんてバカなんだろう……!
浅はかな自分に嫌気がさした。
「……もうここへは来るな」
そう言うとアルスはユキの眼前で扉を思い切り閉めた。
――――取りつく島も無かった。
ユキは立ち尽くす。
アルスのあんな目をユキは見た事がなかった。
あの明るい空色の瞳には何も映らない。まるでユキがそこに存在しないかのようだった。
そのままとぼとぼと階段を下りると、モリとググンが心配顔で待っていてくれた。
「私、何にもできなかった。二人の力になれなくて、ごめんなさい」
ユキは努めて明るく振る舞うが、声が震える。
モリとググンはユキに声を掛けられない。
おそらく、上での会話が聞こえていたのだろう。
「……まあ、でも、きっと時間が解決してくれるわよ」
そう言うとユキは「今からヒリク先生の所へ行く約束があるの」と有りもしない予定を言って暁の宮殿を出た。
逃げるように馬車に乗りこむと、溢れてくる涙を止められなかった。
ユキはそれから〈女神の書〉作成に没頭した。
余計な事を考えない為だった。
季節は少しずつ変わり、秋の空気が漂う。
サマルディアには冬は無い。しかし秋ごろからずいぶんと涼しくなり、雨期に入ってくるという。人々の装いも袖の無い物から、薄手の長袖へと変わっていった。
そんな日々の中で、丘の離宮ではちょっとした事件があった。離宮を囲む白い塀に泥が投げつけられていたのだ。
兵士たちが偶然話している所に出くわしたので、ユキは知ることができた。
彼らが言うには、近所の子どものいたずらだったそうだ。
ユキは大して気にも留めず、それからまた数日が経った。
いつものようにヒリク先生の所へ出掛けていた。
その帰り道事件が起こったのだ。
ユキの乗る馬車に向かって、泥玉が投げつけられた。
警備の兵士たちが緊迫している。 周囲を囲む人垣も騒然としている。
――――結局犯人は捕まらなかった。
ユキには思い当たる事が何も無かった。
街へ出たり、誰かと会うとユキに優しく接してくれる人ばかりだ。
多くの街の人の前に出ることがあっても、祈られたり歓声を聞いたりするものの、それ以外の声を聞いたことすら無かったのである。
ユキは初めて正体の知れない悪意にさらされて、気持ちが悪かった。そして恐ろしくなった。
どうして自分に悪意がむけられるのか?
平凡な自分が女神だと扱われている事に、不満を持つ者がいても確かにおかしくは無いとも思えた。
そう言えば最近、スノウに乗ることを止められていた。
ヒリク先生の家に行く事さえも、止めれる事が多い。
ヘレムは「雨が降るかもしれないから」と言うだけだった。
宮にもあまり見かけない兵士が増えている。
――――何かがおかしい
ヘレムとサラナに聞いても、宮にいる警護の兵士達に聞いても、皆、一様に「気のせい」だとか「よくあるいたずら」だと言うのだ。
これでは埒が明かない。ユキは大宮殿へ行く事を決めた。
大宮殿にはきっとググンが来ている。
それでググンに問いただそうと思ったのだ。
翌日朝からユキは大宮殿を訪れていた。対応してくれた侍従に「ググンが来たら、自分の事を伝えて欲しい」とお願いし、応接間で待つことになった。
しばらく待っているとググンが部屋に入ってきた。
ユキは開口一番ググンを問いただした。
「一体何が起きているのか教えて!」
ググンはユキの剣幕に気圧された。
「――何のお話でしょうか?」ググンが一つ息を吸って尋ねる。
ユキにはこの間が怪しいとすぐに分かった。
「……教えてくれないのなら、ここから丘の離宮まで歩いて帰るわ。馬車には乗らない。誰かがその理由を教えてくれるかもしれないものね」
ググンがひるむ。ユキは更につけ込んだ。
「陛下にお会いしてもいいのよ? きっと私がお願いすれば、教えて下さるはずだもの」
ググンが顔を押さえる。
そしてため息をついた。
「……わかりました。お話いたします。確かに…最近ユキ様の周囲には、少しですが怪しい動きをする者がおります。集団なのか個人なのかはわかりません。しかし……恐らく女神の信仰を良しとしない者たちであろうと思われます」
「女神の信仰?」
「これという宗教ではないのですが、我が国の国教である〈サン・サル教〉とは交わりつつも、一線を隔しているのが女神の信仰です。強いて言えば、世界中に浸透している土着の信仰です。なんだか矛盾していますがね」
ググンが両手を開いて首をかしげる。
「そして民が女神を崇拝するのは、大いなる知識を万民に与え、富と豊穣をもたらすからです。言い伝えなどではなく、こうして実際に存在されているのですから」
そう言ってググンはユキをチロリと見る。
「ただ…世界中にはいろんな思想があり、宗教が存在しております。その中には発展を快く思わない考えの連中もいるのです。(成すがままの、自然を受け入れる)という考え方ですね。そういう連中には女神は必要ありません。寧ろ――――」
そこまで言うとググンは言葉を詰まらせた。
「言って!」ユキはググンを見据えた。
ググンは絞り出すように言葉を続ける。
「――――寧ろ、女神は人を堕落させる『悪』だと考える過激な者もおります……」




