12. サマルディア皇国(3)
アルスの心は悲しみと怒りで満ちていた。
廊下を歩いていたググンを見つけると、アルスはググンを呼び止めた。
「なぜあんな事をユキに言った!? ユキをこの国の政治に巻き込むな!!」
アルスがググンに怒りをぶつける。
「お言葉ですが、皇子。ユキ様を政治の世界に巻き込もうとしているのは、あなた様ご自身ですよ?」
ググンに痛い所を付かれアルスが黙り込む。
「ユキ様は『女神の書』を書き上げられ、ニホンへ帰る道を探したいと仰っています。静かにそれに協力する事がこの世界の者のユキ様にできる恩返しだと思いますが」
『ニホンへ帰る』と言ったググンの言葉がアルスの心をえぐる。
「……そんな事は知ってる。……百も承知だ!」
「それがわかっていて……それでもお側に置かれるのですか?」
「悪いか?」
「はい、お悪うございますね。傷口がどんどん広がって深くなってゆくばかりです」
「俺に傷など無い!」
「……私の目には既に皇子は傷だらけのように見えますが」
ググンの言葉にアルスの顔がカッと赤くなった。
「……ああ、そういえばこの書類に署名をいただきたいのですが……」
ググンがいつものマイペースさでその話を打ち切ってしまうと、
「貸せ!」とその手から書類を引ったくり、アルスは自室へと戻って行った。
部屋に戻ったアルスは、書類を机に叩きつけ、ベッドにドタンと横になった。
またか……
アルスは目を瞑り考えていた。
自分が大切にしている女はいつも目の前からいなくなってしまう。
子どもの時、母上は病に倒れるとあっという間に自分の目の前から消えてしまった。そして、初めて愛しいと思った女も、今にも目の前から消えてしまおうとしている。
アルスは自分の運命に嫌気がさした。
まず考えるのは「民」のこと「国」のこと――――
そう教えられ、それが当然として生きてきた。
それに疑問は無い。誇りでもある。
それでも自分の毎日が――自分の人生がそれだけだと気がつくと、いい知れない孤独がアルスを締め付ける。
全ての人間が、自分を「皇太子――アルス=ブレングル」として扱う。
でもある日出会った黒い髪の女は、ちっともそんなそぶりを見せない。自分の正体を明かしても、結局接する態度を変えてしまう事はなかった。
全てを飛び越えて、懐の深い所に入ってくる。いつの間にか自分は虜になっていて、ユキのいない日常になど戻れなくなっていた。
それでも……最後に自分を〈皇太子〉として扱ったのはユキだった。
最も近づいたあげくに、最も遠くに離れていく――――なんて残酷な女だ。
こんな思いをするくらいなら、ユキと出会わない方がよかった……
自分の人生に何の喜びも見出せない。まるで灼熱の砂漠を、水を求めて彷徨う旅人にでもなったような気分だった。
この渇きにどうやって耐えたらいいのか、もうわからなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
ユキが暁の宮殿を去る日が来た。
見送りに出たのはググンとハセル、そして身の回りの世話をしてくれた数人の侍従達だけだった。
「昨日には皇子はお戻りの予定だったのですが……」
あの日から顔を合わせなかったアルスは、遠方の町に出向いたまま、とうとうこの日まで、戻る事は無かった。
「いいのよ、ググン。もう話はついてるんだもん。――それよりハセルこそ休暇中だったんじゃない?」
ググンの横に立つハセルに話かけた。
「ユキ様がいなくなられると寂しくなります。せめてお見送りでもと……」
そう言うとハセルは小さな黄色い花のブーケをユキに差し出した。男の人に花をもらうなんて、ユキは初めてだ。
「すごく嬉しい。ありがとうハセル」
ユキが満面の笑みを浮かべる。
ハセルの顔がポッと赤く染まった。
「……実は私、ハセルには嫌われてるんじゃないかと思ってたんだ」
ハセルは驚いた表情を浮かべる。
「滅相もありません」
ユキがプッと吹き出した。
「それそれ、いつも『滅相もありません』なんだもん」
「そうですか? あの……自分は女の人と話すと緊張してしまって……」
そう言うハセルの額からは汗が噴き出す。
「ハセルめ、抜け駆けして! 花を準備するなら私にも声をかけてもらわないと困るじゃないか。 私が考えの回らない男みたいだろ?」
「……すみません」
ググンがオーバーに手を振り回す。
「花くらいいいの。気持ちなんだから。ググンにはたーくさんいろんな事してもらったんだから、感謝してるし」
ユキが笑う。
「ユキ様……。いつでもご用命があれば、はせ参じます。どうかお体をいとわれ、お勤めを果たして下さい」
ググンが深々と頭を下げた。
「なんだか永久の別れみたいだね」
ググンのかしこまった挨拶にユキは急に心細さを覚えた。
「近いんだし……大宮殿には遊びに行くよ。その時にね」
ユキはスノウに跨がると見送りの者達に手を振った。
もしかしたら、もうアルスに会うことは無いのかもしれない――――
ユキは最後に、砂漠の中の赤いルビーと謳われる、美しい宮殿を振り返った。




