11. シャシン(4)
どれくらい経っただろうか。そろそろユキのペンを持つ手が疲れて痺れてきた。
おそらく時間としては真夜中だろう。
ユキはペンを置くと、隣でまだ本を読んでいるアルスを見た。
この状況ってなんだか懐かしい感じがする――――
ユキはそんなに遠くない日本での事を思いだしていた。
そうだ! 大学の図書館だ
こうやって隣り合って同じゼミの友達とよくレポートを作ったっけ……
アルスの横顔を眺めていると、本を読みながらパチパチと動く長い睫毛に目がいった。
アルスって長い睫毛でうらやましいな
それに髪の色も綺麗
何色だろう?
オレンジ? よりも透きとおった感じ
金色? よりももっと主張してる色味だし……
太陽の色――――
うん、これが一番ピッタリくるな。
あ……でも太陽の色の髪に空色の瞳だなんてほめ過ぎだわ
自分の考えにユキは心の中でクスリと笑った。
その視線に気づいたのか、アルスがユキの方を見た。バチリと二人の視線がぶつかり合う。
「何だ? 何か俺に付いてるか?」
ずっとアルスを見ていた事に気付かれたような気がして、急にユキは恥ずかしくなった。
「ううん。付いて無いよ。髪を見てただけだから」
「髪?」
「いや、えーっと何ていうか、アルスの髪の色が……」
『太陽の色』だなんてこっ恥ずかしくて言えない!
ユキは頭をフル回転させる。
「そう! アルスの髪の色が飴の色に似てるなあって」
「飴?」
「うん。べっこう飴っていう、黄色の透きとおったような色の飴なの」
口からポロリと落ちた言葉にユキはおおいに安堵した。
『太陽の色』だなんて言わなくて良かった
「へえ、それはつまり俺の髪を見て『美味しそうだわあ』なんて思ってたんだな」
アルスが笑った。
「違うわよ。もう!」
膨れ面をするユキの横でアルスはふと笑うのを止めた。
「ユキの髪は黒くて、細くて、まっすぐで……絹糸みたいだな」
「え……そお?」
ユキが自分の髪を右手ですくってマジマジと見つめた。
糸ねえ……
「……触ってもいいか?」
「まあ、こんなんで良かったらどうぞ」
『髪』くらい別に……
特段の事でも無いと思いユキは答えた。
アルスの手がスッとユキの頬の側を通過してユキの髪に触れた。アルスの手の中をサラサラとユキの長い黒髪が流れる。
頬のすぐ側にある腕からアルスの体温を感じる。息遣いがすぐ側だ。
こ……これは……!
ユキは顔がカッと赤くなった。
これは思っていた以上に恥ずかしい。たかだか「髪」だと思っていたのに、髪を触られる行為というのは余程接近しているし、もしかしたら直接肌に触れるよりも、相手を近くに感じる行為なのかもしれない。
「もう終わり!」
あまりの恥ずかしさに勢いよく立ち上がると、ユキの髪はアルスの手に絡みつき、ピンと引っ張られてしまった。
「痛っ!」
よろけたユキをアルスが片手で支えた。
「いきなり動くなよ。ユキは意外と落ち着きがないよな」
アルスが髪を引っ張られ少し涙目のユキを見て笑った。
誰のせいよ! 誰の!
心の中で悪態をつきながら、今度はゆっくりとアルスの手の中から立ち上がった。
「失礼ね。落ち着いてるわよ。これでもアルスより大人なんだから!」
「わかってるよ」
とにかくもうこの場から逃げ出したくなったユキは本や散らばった紙を強引に寄せた。
「そんなにわかりやすく逃げるなよ」
引き上げようとした紙の束の上にアルスが手をついた。
「ユキ……やっぱり中途半端にはしたくない。俺の事をどう思っている?」
アルスの眼差しが痛い。全てを見透かされているような気がした。
「無かった事にしようとしたり、気持ちを言わないっていうのは……俺なりにいろいろ考えたんだよ。つまり……」
アルスの口からため息が漏れる。
「アルスの事は嫌いじゃ無いよ。嫌いなわけ無いのよ」
ユキは下に落ちた本から手を離した。覚悟を決めてアルスの瞳を見つめる。
「…………アルスの事が好きなの」
アルスのその青い瞳が蝋燭のようにゆらめいた。
「でも……その先には何もないのよ。私がその先を望んでないの」
「ユキ……」ユキの頬にアルスの指先が触れた。
「だめ。触らないで」
ユキがアルスから視線を外した。
「私はずっとここにはいないもの。日本に帰る方法を探してる。家族も友達もみんな私が帰るのをきっと待ってる。やる事もたくさんある。勉強もあるし、試験とか就職とか将来の事とか……」
もう一度ユキはアルスの顔を見た。瞳には強い光が宿る。
「だから私にはこれ以上近づかないで」
拒否されたアルスの手は空中を彷徨った後、そっと落ちていた本を拾い上げた。
『近づかないで』の意味は……?
心の距離なのか?
体の距離なのか?
その両方なのか……?
それを言葉にしようとしたがアルスは止めにした。
「側にいて欲しいんだよ。ユキにはずっとここに居て欲しいんだ。俺の隣に」
ユキの心臓がうるさいほどに鳴り続ける。
これ以上アルスの顔を見ていられない。
「ごめん…………」
顔を伏せたままユキは答えた。
アルスが息を飲み、ゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ……この国にいる間だけでもいい……。この世界にいる限りはここにいろよ。お前が望まないのなら、何もしないから……たぶん」
「たぶん?」
ユキが眉をしかめる。
「絶対だよ。それならいいんだな?」
「ありがとう……。むしろ居てもいいんだね? あー良かった」
ユキは落ちていた物を拾いながら笑顔を見せた。
「良かったって……」
ずいぶんと軽い反応にアルスは少しムッとした。
「だってほら、私無一文だからね」
「なんだよそれは? ここは下宿か何かか?」
「うん。そうだよ。そんな感じね。住み込み翻訳家よ。ただの居候。うん、そういうこと」
アルスはユキが自分との間に懸命に線を引いていると感じた。
「女神の書はまだまだかかるんだろ?」
「まあね。これでも急いでるんだけどさ」
「それならいい。慌てて書いて間違いだらけなんてゴメンだからな」
「せいぜい気を付けます」
そう言うとユキは両手に荷物を抱え立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
アルスはユキが出て行った扉を見つめると静かに開いていた本を閉じた。
「ふられた……って事か……?」
アルスの口からため息と一緒に言葉が滑り落ちた。本に体重を乗せ立ち上がると大きくのびをした。
「でも……」
当分の間はここにユキはいるんだ
時間はまだまだある
時間があれば考えなど変わる
変えてみせるさ
少なくとも……
「ユキは俺の事が好きなんだ――――」
言葉にするとアルスは部屋の中が一気に加熱されたように感じた。額が汗を吹き、顔が火照る。
あまりの暑さにアルスは書庫の窓を開いた。夜風がふわりと汗ばんだ肌をなでつける。
「今日は曇りか……」
夜空を暗闇と同じ色をした雲が覆い尽くしている。そこにあるだろう月の周囲だけが墨色の空をいくらか明るくしていた。




