11. シャシン(3)
ユキは最近馬に乗れるようになるべく、午前中の涼しい間は、乗馬の練習を行っている。コルトに乗って旅をしたおかげで、この高さにも馬に触れる事にも慣れた。
でもユキの練習に付き合ってくれている、白毛の牝馬のスノウはまだユキのいう事を聞いてくれなかった。優しい性分の女の子なのだが、ユキとのコミュニケーションがまだ今一なのか、なかなか思うようには動いてくれない。
〈スノウ〉だなんてユキと同じ名前なので、シンパシーを感じているのだが、それはユキだけのようだった。その為ユキの日課にはこの白馬のお世話も入ってきたのだ。お世話することで、信頼関係を築きたいと思っていた。
それから数日が過ぎた頃、朝から乗馬の練習をしていたユキの所にアルスがやって来た。
今朝は仕事が空いているので、兵士の訓練場で剣の稽古をすると言っていた。もう終ったらしく、柵の所でユキの乗馬を見ている。
アルスの側まで戻ってきたユキは声をかけた。
「剣の練習は終わったの?」
「ああ、もう終了した。クタクタだ」
そう言うと、スノウから下りるユキに手を貸してくれた。アルスの手を掴むのをほんの一瞬だけ躊躇したが、いつも通りに借りることにした。
「午後はまた大宮殿に行くんでしょ?」
ユキが言いながらスノウの手綱を引こうとすると、体がグンと引っ張られた。アルスが手を離してくれなかったのだ。
「……あっぶなー。何よ? どうかした? 手を離して」
それでも手を離してくれないアルスにユキは強く言った。
「もう……ふざけてるの?」
「ユキは結構短気だよな」
アルスの返答にユキは当惑する。
「それによく泣く」
アルスが何を言いたいのかよくわからず、ユキはイラついた。
「……そうだよ。私、すぐに顔に出るタイプなの。だからわかるでしょ? 今はちょっとムカついてる」
そう言って自分の手をアルスの手の中から引き抜こうとしたけれど、その手はしっかりとユキの手を掴んだままだ。
「じゃあ。どうして普通にしている? 『可愛い』と言った時はあんなに混乱していたのに、『好きだ』と言っても、口づけしても、お前は普通にしている。何も変わらない」
ユキは急にそんな話を始めたアルスにビックリして、目を見開いた。
「ユキ……お前もしかして無かった事にしようとしてないか?」
「ええ???」
「…………図星だろ?」
目がフラフラと宙を泳ぐユキに、アルスはため息をついた。
「……俺が嫌いか?」
ユキが慌てて首を横に振る。
「嫌いじゃ無いよ。嫌いなわけ無い」
アルスの険しい顔が幾分和らぐ。
「そうか……じゃあユキは俺のことどう思ってるんだよ?」
空色の瞳がまっすぐとユキに問いかけた。
「あの……私は……その……」
グイッとアルスの顔がユキに近づく。
「……ちょっと! 近い!」
肩を押し返してくるユキに渋々アルスは距離を取った。
「それで? 俺の事好きかどうか早く言えよ」
ユキの目が丸くなる。
この人こんな時にもなんて偉そうなの?
ユキの中で何かがフツフツと沸き立った。
「……知らない。言いたくない」プイっとユキは横を向いた。
「はああ?! 何だよそれ!」
「それが答えよ」
ユキは何となく勝ち誇ったような気分になった。
「答えになってないだろ!? 俺は白黒ハッキリさせたい性質なんだよ」
ユキが息を吐いた。
「……わかった。それじゃあハッキリ言ったらいいのね?」
意志の強そうな黒い瞳がアルスを見上げる。
「私はアルスの事……」
「いや! ちょっと待て」
かぶせるようにアルスが寸前で止めに入った。
「……やっぱり今度でいい」
「え?? 白黒ハッキリさせたいんじゃないの?」
「……やっぱりまだいい」
こんな消極的なアルスを、実は初めて見るのかもしれない。ユキはそんなアルスの様子を見て「ぷっ」と吹き出した。
「何だよ……! 笑うなよ」
少し顔を赤くしてアルスが抗議する。
「だって面白くって」
ユキは今度はお腹を抱えて笑い出した。
「おまえなあ……」アルスが恨めしそうにそんなユキを見る。
◇ ◇ ◇ ◇
夜になるとユキはヘレムとサラナに下がるよう伝えてから、書庫へ向かう事が多くなっていた。もともと夜型のユキには、実は昼間よりもこの時間にやる方がはるかに効率が良かった。
皆が寝静まった後に、書庫へ行くと落ち着く。
その日も夜、書庫へ行くと、〈女神の書〉の続きを広げながら、書棚で資料を探していた。見つけた書物を手に取ろうと、背伸びをするが届かない。
踏み台を持って来れば早いのだが、面倒くさがりのユキはあと一歩を精一杯背伸びしていた。
スルッと突然後ろから手が伸びて、その本を抜き取った。
振り返るとアルスが立っていた。
「驚いた。黙って夜に背後に立つの止めてよ」
「そんなに驚くとは思わなかったけど……しかし、何だ? その恰好……。そんな姿でチョロチョロするなよ」
ユキは自分の服装を確認した。最近は部屋着として着用していた、Tシャツにショートパンツ姿だった。もう夜更けだし誰にも会う事は無いと思い、そのまま書庫まで来たのだ。
「別に、この服装って日本じゃ普通の格好なんだから!」
と言いつつも指摘されると何だか恥ずかしい。
「……見ないでよね」
「見てない!」アルスがそっぽ向く。
「とりあえずありがと」
ユキが手の平をアルスに差し出した。
「ほら、本よ。ちょうだい」
言われてアルスはその本をポンとユキの広げた手の中に置いた。
「今からこれやるのか?」
ユキが本を広げていた机の上を見てアルスが尋ねる。
「夜型だからこの時間が一番頭が冴えるのよ」
「そうか……。じゃあ俺も少し勉強するかな」
アルスも書棚からいくつか本を選び、ユキの隣に腰かけた。
「何の本?」
「治水関係。サマルディアは常に水問題を抱えてるんだよ。雨が少ないからな」
アルスが見せた本の表紙を「へー」と言いながらユキは眺めた。サマルディア語で「灌漑と地下水」と記されている。
「難しそ……意外と勉強家なのね、アルスって」
感心してユキはアルスの顔を見た。
「本は好きなんだよ。時間が無いだけで」
そう言うとアルスは本を開いた。
アルスが読み始めると、ユキも「女神の書」に向き合った。




