8. 言葉(3)
そういえばアルス達の姿が見えない。
どうしているのだろうか? もしかしてサインシャンドへ出発してしまったのだろうか?
「皇子ご一行はこの建物の裏手にある兵士宿舎にて、いろいろと訓練されているようですよ」
少し笑いをこらえながらヘレムが話してくれた。
それを聞いてユキは無意識にホッとした。
「皇子はここに来られた?」
今度はサラナが答えてくれた。
「皇子はユキ様がお倒れになってからは、いらしてません。……というかドアの外まではみえたのですが、エレノワ様に、『婦女子の寝室に入るとは何事か』と咎められて……」
へレムとサラナがその時の光景を思い出したのか、笑いを止められないようだ。
すごく面白そう
私も見たかったなあ
ユキは残念がって二人の話を聞いていたが、
寝室に入るどころか、一緒に眠ったこともあったんだわ!と知事宅での一件を思いだした。
エレノワにわかればどんな大目玉をアルスがくらうのか想像しただけでおかしかった。
ゆっくりと部屋の中で一日を過ごしたユキは、次の日、その兵士宿舎に行ってみることにした。
白亜の宮殿の裏手に回ると、レンガの二階建ての建物があった。その建物のさらに奥から声がする。
行ってみると、柵に囲まれた、広場の中で砂まみれになった上半身裸の男たちが取っ組み合いをしていた。みんな砂まみれで、真っ白だ。
よく見ると動きには規則性が見え、ある種の格闘技のようだった。
相撲の様にもレスリングの様にも見えたし、腕を取って投げる所は柔道のようにも見えた。
中央を見てみると、若い男が、自分の倍くらいある巨漢に投げ飛ばされている所だった。
「わっ。痛そう」
ユキは思わず目を瞑ったが、若い男は受け身を取ったのか平気そうだ。
それよりも悔しそうに砂を握って地面に投げつけている。
ユキが目を凝らして見るとそれはアルスだった。
「皇子!?」
ユキが大きな声をあげた。
皆が一斉にこちらを見る。
ユキの顔を見るやその場にいた兵士全員が集まってきた。
「大丈夫ですか?」
「もう平気なんですか?」
みんなが笑顔で声を掛けてくれる。
ユキがその声に明るく答えていると、兵士の間からアルスが顔を見せた。
「もう大丈夫なのか?」
アルスが神妙な面持ちで尋ねてきた。
「おかげさまで。すっかり元気よ」ユキはニコリと答えた。
話していると、周囲から兵士達もヘレムもいなくなっていた。アルスと二人だけだ。
「豪快に投げられていたね」
アルスが恥ずかしそうに顔を押さえた。
「何だ。見てたのかよ」
アルスを投げたのは第二小隊のテムだ。身長は2メートルくらいあるだろうか。
肩幅も広く、腕もがっしりとして筋骨隆々だ。
特に小柄でも無いアルスだが、到底敵うような相手ではない。
そんな人に正面から向かっていくアルスが、ユキにとってはいかにもアルスらしくて面白かったのだ。
「剣では負けないんだからな」アルスが付け加える。
「はいはい。わかりました」
ユキがあしらうと、今度はムキになって、
「ちょっと待っていろ」 とアルスは剣を取りに行こうとした。
「ホントに今度、絶対見せてもらうから!」
からかい過ぎたかな、とユキはアルスを慌てて止めた。
立ち止まり振り返ったアルスが、ジッとユキの顔を見つめる。
「……本当に大丈夫か?」
これは恐らく熱の事を言っているのではない。
ユキには察しがついた。
倒れる前に混乱して、大泣きしていた事を言っているのだ。
「うん。もう……平気かな。よくわかんないけど。……考えても仕方が無いし、考え過ぎないようにしてる」
そういえばあの時、アルスがずっと抱きしめていてくれたことをユキは思い出し、ジッと見つめるアルスから視線を外した。
「あの時はまだ話の途中だったでしょ? 最後まできちんとお話をお聞きしたいと思ってるの。アルスも着替えたら一緒に来てくれる?」
ユキは足元に目をやりながらアルスに尋ねた。
「無理しなくていいんだぞ? もう聞かなくても大丈夫だろ。何も変わらない。ユキはユキなんだから」
アルスがそう言ってくれてフッと心の重荷が軽くなったような気がした。
ユキは再びアルスの目を見つめる。
「でも。これは私が向き合うべき事なんだと思う。泣いても逃げても、きっと何の解決もしない。このままじゃダメだってことだけはわかっているんだもん。わかりたいの。私が何者で、どうしてここに立っているのか」
アルスは一心にユキを見つめている。
「着替えたら私に付き合ってくれる?」
「しこたま投げられたから、水も浴びてくるよ」アルスが頷き、ほほえんだ。
この前と同じ部屋にまた一同が揃っていた。
エレノワ、ヒリク先生、アルス、モリ、バトー。そしてユキだ。
「この前の話を覚えておるか?」エレノワがユキに確認する。
ユキは「はい」と頷いた。
「女神の伝説の事だ。アカンティには実際に存在していた。更に古くは黄麗国にも存在したと言われておる。その女神達がそれぞれの国に、……いや世界に神の知識を授けたという書物があるのだ。〈女神の書〉と言われる聖書だ。〈女神の書〉には既存の世界には無かった知識が書かれており、そこから発展していった技術や文化は数えきれぬほどある」
これにヒリク老人が頷く。
「ここへ来る前に、ユキが湖で少女を生き返らせたとアルスとモリに聞いた。それこそが神の御業と言われてもおかしくない。複数の言語を操るお前が女神だと言われれば疑う余地もないのだ」
ユキがすぐにエレノワに反論した。
「違うんです。神様とか……そういう事ではないんです。私の国では一般的な蘇生方法で、私の様に医者で無い者でも知っている事なんです。私はこれを学校の実習で習っただけなのです。この国に与えるような知識なんて、他には何も持ち合わせていないんです。言葉が通じても、『伝えるもの』を何も持ち合わせて無いのですから」
言うべきかどうか迷った顔で、顎に当てていた手を下すと、モリが口を開いた。
「ユキ様。ユキ様は、その……何か重い書物をお持ちでした。私には何が書かれているのか、よくわかりませんでしたが。」
モリのこの一言で、ユキは目を大きく開いた。
脳裏に閃光がほとばしる。
「『医療基礎学』……」
「イリョウキソガク? それは何だ?」エレノワが尋ねる。
「医学の……医術を示した本です。たぶん人体の構造とか、病気とか、薬だとか……」
そう言うと「ちょっと待っていて下さい」と言い、ユキは部屋を飛び出した。
二階の部屋に置かれたリュックからその重たい本を取り出すと、また下の階へと走った。
ハア。ハア。
息を切らせながら皆の前にある大きな円卓の上に本を置き、適当なページを開いた。
ユキが読み上げる。
『呼吸。気体の圧力は高い方から低い方へと移動し、身体の外気圧は大気圧であり……』
そこまで読むと顔を上げた。
「今私が話している事わかった? 日本語ではなく、サマルディア語だった?」
「呼吸について読まれていましたぞ」ヒリク老人が答える。
まさか、これを?
これが女神の与える知識?
「……つまり、この書物こそが〈女神の書〉ということだな」
エレノワは顔を上気させユキの顔を見た。
自分にはわからない――――
でもこの本の内容をこの国の人、この世界の人に伝える事はできる。
――――この世界の言葉で
ユキは本を抱きしめた。これは看護学科のマリカが必要としていたものだ。
大学の図書館から借りるのを忘れていたので、ユキが代わりに借りたに過ぎなかった。
こんな偶然があるのだろうか?
黙り込むユキを見て、そこにいる誰もが思っていた。
やはりユキが数百年ぶりに現れた女神なのだと。




