8. 言葉(2)
大きなテーブルの上にエレノワが赤い本を置いた。
「ユキ。これは読めるか?」
見た事のない文字が表紙に並んでいる。
ユキにはミミズがのたうっているよう見える。旅の途中も看板などで、よく見かけた文字だ。
……まさか……
今まで風景の一つとしてしか認識していなかったユキは、意識を集中させた。
「……サマルディア皇国の史記。ブレングル皇家の隆盛……」
みんなが息をのむのが聞こえた。どうやら正解だったらしい。
ユキは文字を読むことで、自分が違う言語を話している事がようやく理解できた。
日本語ではない、英語ですらない言葉をスルスルと読めるのだ。
意味も理解できていた。話す言葉はユキには全て日本語にしか聞こえない。
でも文字を読むとそれが違う言語なのだと一目瞭然だった。
ただそれすらユキの耳に届く頃には、日本語にしか聞こえなかったが……。
ショックで震えているユキにエレノワが続けた。
「ユキ。女神の降臨伝説を知っておるか?」
「女神……ですか?」
ユキにはわからない。
でもヨデル湖で、あの愛らしい少女がそんな言葉を言わなかっただろうか?
「そうだ。この世界には月の女神の伝説がいくつかあるのだ。文献も数多くあり、世界中で語りつがれておるな。有名なものだと、アカンティ国や黄麗国の物語だろう。それ以外にも起源の定かではないものもあるが、全てが土着の女神信仰となっている」
何の話だかわからず、ユキはとりあえず頷いた。
「『女神はこの世界の光。水面を揺らす一滴のしずく。叡智を備え国を潤し、その美しさで民を照らす――――』女神は我らの知らぬ知識を持ってあらゆる言葉を司るそうだ。このような伝承の言葉は知らねども、この国の者なら小さき頃より、おとぎ話として聞いたことがあろう。しかしこれは神話でも、伝説でもなく、『女神』と言われる女人は確かに存在しているのだ。アルスやモリは知らなかったようだが」
老人が口を開いた。
「さようでございます。アカンティには実際に数百年前、女神が降臨されました。確かな史記として残っております」
ユキは老人の言葉がアカンティ語なのかサマルディア語なのか判断できなかった。
みんなに伝える為なのだから、おそらくサマルディア語なのだろう。
「つまり伯母上はユキがその月の女神なのではないかと?」
アルスが重い口を開いた。
ユキの頭は真っ白になった。
そんな訳はない。
答えは簡単だ。
自分はごく一般的な日本人で、知識人でもない唯の学生だ。
「女神」だなんて馬鹿げている。
そんな神々しいものに私が見えるとでも?
ユキは再び、この世界に来た時のように混乱していた。
――――もう止めて
「ユキ様も急なお話でお疲れの様です。少し休憩されてはいかがでしょうか?」
ユキの様子を見ていたモリが、そう声をかけた。
モリの言葉にユキは顔を上げると、自分の心の震えが幾分収まるのを感じた。
「……そうしていただけると嬉しいのですが」
ユキは言葉を絞り出した。
部屋から出ると、先ほど案内してくれた侍女がいて、今度は二階の客間に通してくれた。
淡い黄色で統一された部屋はとても豪華な造りだったが、何もかもがユキの心を素通りしていく。
部屋に入ると数歩も歩かないうちに全身から力が抜けた。
ユキは足元から崩れ落ちた。体がブルブルと震え出す。
自分には何が起こり、どこへ来てしまったというのだろうか?
結局ユキの思考はそこへと帰り着くのだ。
ひどい孤独感がユキを襲ってきた。
この世界には唯の一人きり――――
あの初めにいた赤土の荒野と何も変わらなかった。
「ユキ……」
背後からアルスの声がした。心配して部屋まで来てくれていたのだ。
いつ扉が開いたのかもわからなかった。
床に崩れ落ちているユキにそっと近寄るとアルスはユキを抱きしめた。
(どうしたの? どうして抱きしめるの?)
声に出したかったが、喉がぎゅうと縮んでしまったかのようで言葉にならない。
ユキはアルスにしがみつくと堰を切ったように泣きだした。
どれくらいそうしていたのかわからなかった。
ようやく泣き声が止んだので、アルスが耳元でそっとユキに声をかけた。
「大丈夫か?」
全然大丈夫じゃなかった。
やっぱりこれは夢だとしか思えない。
自分もアルスもこの部屋も宮殿も、サマルディアという国さえも幻で、今にも虚無の世界へ帰ってしまうような気がした。
「アルス……。アルスは本当にここにいる?」
ユキが震えながら尋ねる。
「ここにいる。大丈夫だから。ずっとお前の側にいる」
そう言うと更にきつく抱きしめてくれた。
アルスのトクトクトクという心臓の音がユキの耳に響いていた。
アルスの体がユキから少し離れ、アルスがユキの顔をそっと覗きこむ。
涙で濡れていたユキの頬に手をやった。
「ユキ。――――お前、熱くないか?」
「……なんだか熱いかも。頭がグルグルする」
アルスがユキの額に手を当てた。かなり熱が出ているようで焼き焼きしている。
ユキはアルスに抱き上げられて、奥の寝室へと運ばれた。
それからユキは高熱を出し、丸三日眠り込んだ。
「慣れない環境での疲れと、精神的に衰弱していたのが原因でしょう」と、医者は話した。
四日目の朝、医者がユキの様子を見に部屋を訪れた。医者はあのアカンティ語を話していた、白髭の老人、ヒリクだった。
「ようやく熱も下がり、顔色も良くなりましたな」
ヒリクはユキの額に手を当てた後、脈を診ている。
「ありがとうございます。ヒリク先生、ご迷惑おかけしました」
ユキもスッキリとした表情でヒリクに答える。
「まだ今日一日はベッドに居て、様子をみたほうが良いでしょう」
そうニコリと微笑むと部屋を出て行った。
ユキの側には部屋に案内してくれた侍女と他にもう一人いて、彼女達が付きっきりで看病してくれた。
「へレムさん。サラナさん。二人ともありがとうございました」
ユキは丁寧に二人にもお礼を言った。
「いいえ。ユキ様が元気になられてよかった」
とへレムが明るく返すと、横にいたサラナも、
「本当に。お熱が下がらない時は心配いたしましたが、治られてよかったです」と優しく答えた。
へレムは今年27歳になる。ユキよりも6歳年上で、切れ長の瞳、細面で手足もスラッとしたお姉さんだ。長いチョコレート色の髪を一つにまとめてくくり上げていた。
サラナはユキと同じ年でヘレムよりもふっくらとした顔立ちをしている。栗色の髪をへレムと同じく一つにまとめ上げている。
コンコンと部屋がノックされた。
扉が開くとエレノワが部屋に入ってきた。
ユキが慌ててベッドから立ち上がろうとすると、そのままでいるようにと言う。
「熱が引いてほんに良かった。気分はいかがか? ユキ」
もうすっかり平気だと伝えると、エレノワが突然頭を下げた。
「かような目に合わせて悪かったな。いささか事を急ぎ過ぎたようだ。もっとお前の境遇も考えて話をするべきだった……」
「いいえ、そんな事ないです。もう大丈夫ですから」
ユキが腕をぶんぶんと振り回す。
エレノワがくしゃりと笑った。
「何日でも良いから、たっぷりと休養するのだぞ」
「ありがとうございます」
ユキがそう言うと、エレノワが侍女の2人に頷き部屋を出ていった。




