1. 鳥と空と太陽(1)
藤城雪にとって一週間で一番辛いのが金曜日だった。
朝からキッチリ五コマ全てに講義を入れていた。最後の五コマ目はゼミ担当の池田先生の授業だ。やたらと多いレポートを他の講義とのバランスを取りながら毎週何とかこなしているのが実情だった。しかも少人数の授業のおかげで90分の間もずっと集中していないと、急に「藤城どう思う?」なんて質問が飛んで来るのだ。
だから週の一番最後の講義こそが雪にとっての最大の苦行だった。
やっとその難関講義も終わり、ようやく平穏な週末を迎えられる――――
ヘトヘトになった頭を抱えながら親友の真理香の家に向かっていた。明日の土曜日はたまたま二人ともバイトが休みだったので、泊りがけで女子会をやる計画だった。
学校の近くのコンビニに着き、楽しい夜のお供になる、ジュースやら缶チューハイ、スナック菓子を買う段になり、ようやくそこで気づいたのだ。
『医療基礎学』が入っていない。
道理でリュックが軽いとは思っていたが、心は一コマ早く自宅に帰った、真理香が作る得意料理や一晩を友人と過ごすわくわく感で、あまり深くは追及しなかったのだ。
大学の構内は広い。そこを出て国道沿いの初めの角にあるコンビニで気づくなんて。
歯がゆい気持ちが襲ってくるが、雪はなるだけ冷静に、前向きに考えた。
これが真理香の家のチャイムを押すときに気づいていたら?
そう考えれば、広い学内の端にある校舎まで向かい、現在修理中のエレベーターを横目に教室まで四階分、階段を駆け上がるだけで済むのだ。
充分近い!
「はあぁぁぁ」
ため息ともボヤキともとれる曖昧な息を吐き出して、コンビニを出ると泣く泣く今来た道を駆け戻りだした。四階まで続く階段を頭から追いやりながら。
そんな雪がようやく四階の教室に辿り着いた時、スマホが鳴った。
「もしもーし。雪? もう家に着く? コンビニ寄れそうだったらチョコか何か買ってきて欲しいんだけど。家に甘いものが何にもなかったのよ。スイーツでもいいんだけどなあ。欲しいでしょ? 甘いの」
少しハスキーな真理香の明るい声が電話口から聞こえると、誰もいなくなった教室に響いた気がした。
「ハア。ハア。ハア」
「何よ? 走ってんの? どうしたの?」
「ハア。走ったの。4階まで。教室にさ。忘れちゃってさ。図書館で、借りてたのに……真理香の、頼んでた本。ハハハ…ハア」
真理香に答えながらユキは跳ね上がり式になった椅子を倒すと全体重を一気にその椅子にかけた。
無理して走らず歩けばよかったなあ
真理香の言葉を待ちながら、どうして自分が馬鹿みたいに階段を走ったのか考えていた。
すると明るい真理香の声がまた響いた。
「図書館で『医療基礎学』借りてくれたんだね。サンキュー。でも悪いんだけど週明けレポート提出なんだよ。取りに行ける?」
吐く息に紛れて聞き取れなかったのか、真理香は申し訳なさそうに言った。息が整ってきたユキは笑いながら答える。
「聞こえなかった? だから可愛い真理香様の為に取りに来たんでしょうが」
よし! 休憩終わり
跳ね上げ式の椅子から立ち上がると、机の上に置き去りにされた本を手に取り、今度は確実にリュックの中に押し込んだ。それからさっき買ったコンビニ袋を片手に。もう一方の手でスマホを耳に当て教室の隅のドアへと足を向けた。
「もう夕飯できてるよ。今夜はさ、女子らしくエビとトマトの冷製パスタにしてみました」
真理香は夕食のメニュー公開で雪を励ました。
「何? 凄い! カフェみたいじゃん」
雪が感嘆の声を上げる。
「10分もあれば着くと思うから!」
雪の声にみるみる生気が溢れ、真理香が電話口で笑った。
雪は真理香のおかげで強い目標を持つと、廊下へ続くドアへと手を伸ばした。
ギギ……ガチャリ
古いドアは重く、少し軋んだ音を出してスルッと開いた。一瞬光がまっすぐに差し込みユキは目をつむった。風がヒョオッとユキの黒く長い髪を巻き上げた。
「あっ! それとさ――」
マリカの声はそこで途切れた。
目をつむったユキは、
「何? 何て言った?」
一瞬吹いた風で聞きとれなかった言葉を、マリカに問いかけながら目を開けた。
あまりの明るさに目がくらんだが、そこにはカビ臭く、暗くて進むのも億劫になる、あの狭い廊下は無かった。
今まで見た事のない突き抜けるようなコバルトブルーの空と強烈な太陽の降り注ぐ、赤茶けた大地が広がっていた。
ユキは今出てきた教室を探して思いっきり振り返る。見ていたはずの物は何一つ見当たらない。全てが忽然と消えさり、ただ赤い土だけがユキの目で捉えられなくなるまでどこまでも伸びているだけだ。
「ふぇ?」
間抜けな声を出してユキはようやく電話口のマリカの存在を思い出した。
「ここ……どこ? あれ? もしもし? マリカ? 聞こえてる? マリカ!」
電話の先に居るはずの親友は応えない。スマホの画面を見ると真っ暗な画面が太陽を反射し、かろうじて自分の顔が映っているのが見えた。何度もタップしながらようやく気付いた。
電源が落ちてるんだ
「とりあえず落ち着け、落ち着け」
自分の頭に言い聞かせながら、スマホのサイドについているボタンを長く押しつづけた。画面は再び光を放ち始め企業ロゴがキラキラと舞い始めた。
良かった
携帯が壊れたのかと思った
汗ばんだ手でスマホを握り締めるも、こんな状況で携帯が壊れることを心配する自分が「冷静」とは程遠いような気がしていた。
私――――寝てる?
まず思いついたのはそれだった。
夢だとしか思えない。実習にレポート、バイトに追われて万年寝不足。しかも自分らしくもなく、校舎の階段を駆け上がってしまったのだ。
教室に着いた途端、尋常じゃない眠気に襲われても不思議じゃなかった。
――――というかそれしかない。
それしか説明がつかなかったのだ。
起動画面に意識を集中させる。周囲を見渡すのが怖かった。夢にしては乾いた風も、ギラギラと焼ける大地もリアルに肌で感じた。スマホを食い入るように見つめてはいるものの、そのスマホの向こう側に、教室にあるツルツルの大理石調の床材ではなく、赤茶けた泥がチラついていることに気付かないふりをした。
たぶん夢だから、マリカに電話して、話せば落ち着くはず
夢の中で・・・・・・起こしてもらうのよ
そんな素っ頓狂な事を考えていた。
長い長い起動時間を抜けてようやく通常の画面に戻った。ユキは履歴からスルリとマリカの番号をタップした。
〈ツ・ツ・ツ・ツ・・・・〉
繋がらない。画面の上部を見ると電波は一本も立っていない。
「冗談でしょ!」
思わず口にしてやっと周囲を見やった。どこまでも、どこまでも続く赤土の大地。
こんな場所知らない。自分は古い校舎の中にいたんだ。間違いない。
さっき思いっきり走ったから疲れたんだよ。
頭の中で自分自信を説得しながら、ユキの人生で初めて見る地平線を遠くに見つめた。