4. 暗闇の月(3)
暗闇から何かが手を伸ばしてくる。
ユキはもがいた。
立ち上がろうとしても、足がいう事を聞かない。
下を見ても自分に足がついている事すらわからない。
闇を掻いて逃げる。
暗闇なのに追ってくる手が、ごつごつとした男の手であることがユキにはわかった。
ユキの髪の先を男の手がかすめる。
あの手に掴まったらもう終わりだ。
誰か助けて!
口の周りだけ重い空気に囚われて、声を発してもユキの耳にすら届かない。
来る
すぐ後ろに来ている!
歯の根がかみ合わずカクカクと音を立てる。
もうダメ!
「……お母さん!!」
ユキは自分の叫んだ声で目を覚ました。
額から無数の滴が垂れる。それらを手の甲で拭くとゆっくりと上半身を起した。辺りはまだ深々と闇に包まれている。
今何時頃なんだろう?
ここには時計が無い。
この部屋にというわけではなく時計というものが存在していないようだった。
代わりにこの町ではカーン。カーン。と定刻になると鐘が鳴り響いていた。
つまり時の概念もあり、時計のように時を刻むものも鐘の側にはあるのだろう。
ユキは少し震えていた。
どんな夢をみていたのかはもう思い出せない。
ただその夢の残滓が暗い影となってユキの中に漂っていた。
ここへ来てどれくらい経っただろうか……?
初めの夜は深く眠っていたようで覚えてもいなかった。昨夜はメリノが隣で眠っていて、その規則的な寝息を聞いてユキもトロトロと眠った。
でも今夜は一人きりだった。
数えるとここへ来てもう三日が過ぎようとしている。
お母さんもお父さんもきっと凄く心配している。今は転勤で大阪に住む姉の薫にもユキの事は伝わっているに違いない。
マリカは?
あの日私が現れなくて怒ったかもしれない。
でもすぐに心配してくれただろう。
みんなに事情も聞かれたに違いない。
警察にも行方不明者として届けられた事だろう。
もしかしたらテレビのニュースで、私の顔が流れているのか……も?
とりとめのない考えが次々と浮かび、ユキの心にズシリと重くのしかかった。完全に頭の冴えてしまったユキは部屋の鬱屈した空気から逃れたくて、ソロリと外へ出た。
宿中が眠りについている。
温泉の手前に小さな中庭があったことを思い出し、そこを目指した。
中庭には灯りが無かったが、今夜は満月なのか月の光で足元はかなり明るかった。
建物のヘリに少しくぼみがあったので、そこに体を預けた。
静寂に包まれた中庭には何者の気配も無い。
ユキ一人がポツンと存在しているだけだ。
ユキはゆっくりと目を閉じた。
まぶたに降り注ぐ月の光は、ベルベットを撫でつけたような漆黒の闇を煌々と照らしだす。
その夜の空間を通過すると、柔らかくユキの元に届いた。
目を閉じたまま深く呼吸をする。
日が沈むと途端に日中の熱気は収まり、涼しさを越えて少し肌寒くも感じる。空気は乾燥していてとても軽い。ジトジトとした湿気をはらむ日本の夏とは比べものにならない。
ここが自分の故郷で無い事は、頭で理解するよりも素早く、毛穴が、鼻腔が、肺が感じ取る。
目を開き、夜を照らし出す月を見上げる。するとそれは日本で見る景色とあまり変わらない気がした。
他の感覚を失い、視覚だけが生きているとすれば、この場所を日本だとさえ思える。
月だけは何もかわらずにぽっかりとユキの頭上に浮かんでいるのだ。
その月の模様の中に、見慣れたウサギを探してみる。左の曲線に沿ってウサギの背が続き上部には長い耳が見える。
やっぱり月は同じだ――――――
食い入るように月を見つめた。
ユキの渇望している答えがそこから降りてくるような気がした……。
瞬きするのも忘れてジッと月を見上げていると暗闇から突然声をかけられた。
「おい、ユキ。お前何やってんだ?」
不意に声を掛けられたものだからユキはビクンと飛び上がった。
「……アルス? ……お…驚かさないでよ」
まだ心臓が跳ね上がっている。
暗闇から突然声を掛けるなんて悪趣味もいいところだ。
「何をしている? 寝たんじゃなかったのか?」
何事もなかったように続けるアルスに、ユキは答えた。
「あんまり早く寝ちゃったから目が覚めて……。アルスこそこんな夜更けに何やってるのよ?」
「……まあいろいろ……」
アルスはユキから視線を外し、ぼそりと呟いた。
「もしかして……心配してついて来てくれたの?」
アルスはそのユキの問いかけには答えず、ユキがしていたように夜空を見上げた。
「月が面白いのか?」
アルスは話を変えたいのか、茶化すようにユキに尋ねた。
ユキもアルスから視線を外し、また夜空を見上げた。
「月にあるクレーターが陰影になって、日本ではウサギに見えるというのよ。だからここからも見えるんじゃないかと思って、ウサギの形を探してたの」
「??? くれーたー?」
「そうよ。クレーター。月の表面は凸凹していてその巨大な穴をクレーターと言うの。地球から見れば模様に見えるでしょう?」
「俺には月は丸くて凸凹しているようには見えないけどな」
「私が生まれる何十年も前に行って確認した人がいるから、間違いないわよ。月は凸凹しているの」
月から目を離して、アルスは今度はユキの顔をジッと見つめた。
「……人が月へ?」
「人が月へ」ユキも繰り返した。
アルスはまた月を見上げた。
「へえ。俺も月へ行ってみたいな。そのクレーターとやらがあるのかどうか見てきてやる」
ユキはギョッとしてアルスを見やった。
軽口を叩いていると思ったのだが、意外やその横顔は真面目に見える。
ユキの戯言だと思っているのか、夢物語だと思っているのか、ユキには判断がつかなかった。
まさか信じてる?
「そう。……もし月に行けたら、写真を撮ってきてね」
そう言うとユキは立ち上がり、大きく伸びをすると、「おやすみ」とアルスに声をかけた。
明日も朝が早い。
変な夜だと思ったけれど、ユキを不安にさせた暗い影はどこかへ消え去っていた。




