エピローグ
働き始めてから、すでに二週間が過ぎようとしていた。毎日が充実している。覚えは悪い方ではないけれど、覚えなければいけない事は山ほどある。
でも、美冬さんが親身になって教えてくれるから安心だ。そして、僕とすみれさんの武勇伝はオーナーから全てのスタッフに伝えられていて、僕は店の中で一目置かれている。
さらに、僕の病気の事は美冬さんがみんなに伝えてくれているから安心して働けた。
でも、実はあの事件以来僕の病気は一度も出ていない。
何故かと言うと、多少の事では驚かなくなったからだ。確かに考えてみれば、拳銃を向けられると言う非現実的な出来事に比べれば、その他の現実的な出来事なんて驚くほどの物ではない。
すみれさんは、あれ以来ドラマの撮影で一度も店には顔を出していない。たまにメールは届くが、有名人のだれだれと共演しただの、どこどこの有名レストランに行っただの、自慢話しばっかりだ。
まぁ、楽しそうなすみれさんのメールを見るのも悪い気はしないから、それなりの返信はしている。僕達は言わば戦友みたいなものだから。
今日は、水槽の掃除当番だ。かなりの数に上る大小の水槽が展示してあるから、今日はこれに掛りっきりになりそうだ。
「銀一郎君、先にご飯にしようか?」
その声に振り向くと、美冬さんが笑顔を浮かべていた。その後ろにも笑顔を浮かべている女性が立っている。
新しいスタッフの人かな?
それともお客さんかな?
しかし……かなり可愛い。
さらに出る所は出て、引っ込む所は引っ込んでいる、抜群のスタイルだ。スタイルだけで言えば美冬さんよりも上だ。あまりに可愛いので、気になって聞いてみた。
「新しいスタッフの方ですか?」
「実はね、この方は銀一郎君の働いている姿を見て、一目惚れしちゃったみたいなの。それで、どうしても紹介して欲しいって頼まれちゃって」
その女性は頬を少し赤らめて、軽くお辞儀をした。
「えっ! ぼ、僕にですか? ひ、一目惚れ?」
そうか、僕も一目惚れされるほどに成長したんだな。確かにあの事件以来、男らしくなったような気もするし。あり得ない話ではないな。
でも、僕には美冬さんと言う好きな人が、それも目の前にいるからな……しかし、この子も捨てがたいほどの可愛さだ……。
美冬さんとは仲良くしてはいるけれど、上手く行くのかどうかわからない訳だし。
取り敢えずお友達として……。
「銀一郎さん! あなたの事が好きなんです! だから……私と、お付き合いして頂けませんか!」
えぇ! いきなりですか!
どうしよう……美冬さんを諦める事は出来ない。でも、こんなに可愛い子が告白してくれてるのに、断るのはもったいない気もする。
どうしよう……。
「好きで、好きで、もうどうしようもなく好きなんです!」
と言いながら、走り出した彼女が僕に抱きついてきた。バラのような香りが、僕の鼻腔を刺激する。
大きくて柔らかな彼女の胸が、僕の全身を強く刺激している。頭がクラクラしてきた。
僕の胸の辺りから、押し殺したような泣き声が聞こえる。すっと、彼女は僕の体から離れて、下を向いて小刻みに体を震わせている。
「私じゃ駄目なんですね……」
僕がなかなか返事をしないから、振られたと思って泣いているんだ。そこまで、僕の事を好きでいてくれているんだ……。
彼女の体の揺れが大きくなってきた。彼女の後ろに立っている美冬さんも、顔を後ろに向けて小刻みに体を震わせている。
美冬さんまでもが泣いている。
僕が彼女を選んでしまうかもしれないからか?
それとも、彼女の痛切な思いに心を痛めたのか?
いったい僕はどうしたらいいんだ!
二人同時だった。
「ギャハハハ! アハ、アハ、もう駄目、もう我慢できない。こいつ、真剣に悩んでんだもん。ククク、駄目だ、笑いが止まらない。ギャハハハ!」
さっきまでの可憐な声が、一転してガサツな声に変わった。そして、笑いが収まった彼女は、僕をじっと見つめ右眉をピクリと上げた。
「も、も、もしかして……すみれさんですか?」
僕の体は、ピクピクと痙攣している。
「あんたねぇ、お姉ちゃんの事好きなんだったら、いくら可愛かろうがスタイルが良かろうが、スパッと断りなさいよ。ちょっと私の胸が当たった位で舞い上がって。バカじゃないの?」
「ちゃんと、断るつもりでいましたよ! タイミングが合わなかっただけでしょうが。美冬さんも美冬さんですよ! ちょっと酷くないですか? 二人で僕を騙して」
僕は、まだ笑いこけている二人に、口を尖らせて抗議してみた。
無駄な抵抗だとは分かっているけれど……。
「ま、これだけ美しい女優の私から攻められたら、あんたじゃなくても大抵の男はコロリだから仕方ないわよ。今回は多めに見てあげるわ。ね、お姉ちゃん」
「ごめんね、銀一郎君。悪気はちょっとしかないから気にしないで」
また、二人でお腹を抱えて大笑いし始めたから、なんだか僕も可笑しくなってきて、一緒に笑い出してしまった。
店内に響き渡る僕らの笑い声は、そのまましばらく続いていた。
それを耳にした店長が、慌てて駆け付けてお叱りの言葉を受けるまで……。