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卵の泡

 ふと、部屋の隅に置かれている六つの機材がごちゃごちゃに詰まった段ボールへ目を移した。

 備品として部費で購入したはいいが、結局数えるほどしか使用しなかったまだ真新しいカメラ。

 被写体の半径数十メートルを哨戒するように飛び回り、あらゆる角度から画像や動画を撮影できる立体性能。

 よく解らないが、結構流行っていた物らしい。最近は携帯のカメラだって十分すぎるほど綺麗だけど。

 だったら写真くらいもっと撮っておけばよかったなと思った。

 溜息まじりに頬杖を突き、ノートPCの画面で流れる写真と映像のスライドショーを眺める。

 犬が義足を付けて懸命にこちらへ向かって走ってくる。男性の優しい声、子供の頃の私が楽しそうに遊具に乗ってはしゃいでいる姿。

 浜辺を歩く少女。

 「先輩」と、その背中に呼びかける私の声。変な声。

 振り向くと彼女はそれに応えるように微笑んだ。

 久しぶりに彼女の笑顔を見て、私も微笑を浮かべる。

 この期に及んで、ここへ来たのは最期をこの場所で過ごしたかったからだ。

 もう一度、あの頃の思い出や雰囲気に浸りたかった。

 携帯をステレオ代わりにボサノバを流し、パソコンから外の景色へ視線を転じた。

 物は試し。これは賭けだ。それでこの世の悪事がなにもかも一掃できるかもしれない。

 私の愛する者達。まじりっけのない彼らはまるで夜空に小さく瞬くお星さまみたい。いずれは暗黒に呑まれて消える運命。憐れで儚い存在。

 しかし、だからこそ星の輝きは闇を裂いて夜を彩る。影が濃いから、光はよりいっそう眩く。

 苦痛の反動は快楽を昇華させ、繰り返しの愚かさは刹那に真価を見出し、命の果てにある死は憂いを帯びる。

 ヒトの歴史は、この世で最も美しい陰陽の風景と同じ。

 人類が歩む道をまばゆく照らし続けてきたその恒星を、その光を標に、天を仰ぎながら私たちは進み続けた。

 己が穢れていると自覚しているからこそ、諦観して届くことのない星屑を見上げているのだ。

 それなのに、地獄を彷徨う咎人を救うため、舞い降りた天使たちを、我々は無惨に殺してしまった。

 歯噛みをして、遠くの地平線に目を凝らす。夕暮れの空を点描で塗りつぶすように、黒色で少しずつ染め上がっていく。

 ああ、良かった。時間は掛かったけど、上手くいったようだ。

 白は避けろ。同じ黒だけ狙え。

 湧き上がる憎悪を内に仕舞い、また自動でめくられていくアルバムを見つめながら腕に顎を乗せる。

 もし、死んだ後であの人たちにまた会えたなら、こう問い掛けたい。

 ――あなたたちは、この世界に生まれてきて、良かった?


 私、『暮間(クレマ)クグツ』は物心が付く以前に両親を亡くした。

 どうしようもない人達だったらしい。あまりにも酷い昔話が多いから悲しむことなんてできやしなかった。

 親戚の家に居候して、数年ほど虐められていた。

 そこから救い出してくれた人、それが私の育て親である叔父。

 オジさんは、この最低の家系と同じ血筋ではないからだろうか、底なしにいい人だった。

 困っている人を見棄てられない情に厚い性格で、たとえ自分が害を被っても誰かのためにいつも必死に頑張れるヒーローみたいな熱血漢。

 貧乏だけど旅が好きな人で、若い頃に日本各地を巡った記録をよく私に見せてくれて、得意気に当時を嬉しそうに語る話が、私も楽しい気分になれて大好きだった。

 アルプス山脈のモンブランだかなんだかを朱色に染める夕焼けがいつか見たいなと、遠くの夢を見つめるように言っていた。

 小学生の時から中学生まで飼っていた犬、ナナは人間に虐められて、車に轢かれて片足を失い、保健所で処分されそうになっていたところを引き取った。

 ナナは人に虐められていたから力の加減を知らない犬で、なかなか心を開かなかったけど、少しずつ懐いてくれた。

 動物はヒトの心が解る。ナナは安心できる一人ぼっちを好んだけど、本当は私と同じように、友達がほしかったのだ。

 二人と一匹だけの家族。それでも楽しかった。

 オジさんは、交通事故が起きた現場で人を助けて死んだ。オジさんは誰かを救える人間になりたいとずっと言っていて、自分の目的を果たして死んだ。

 それでも私は、生きていてほしかった。お金を稼げる歳になったら、旅行に連れて行ってあげたかった。恩返しをする暇も与えられなかった。

 ナナも、私が高校生になる前に病気で死んだ。私の大切な彼らは、私を置いていった。


 空虚になった心のまま、高校へ入学した。

 その頃から世間でも嫌な時代が始まっていた。たくさんの人が現実と己に絶望して死んでいく。

 気持ちは解らなくもないけど、オジもナナも死にたくて死んだんじゃないのに、どうしてそんなことをするのだろう。

 学校でもほとんどの人がマスクを着用していて、一人一人が自分の殻に閉じ籠もっていた。

 それは高校でも同じなのかと思っていた。だけど、部活動説明会で、そうじゃない人と出会った。

 ジャージの上からさらに白衣を羽織った私より一つ年上の小柄な女子高生、響先輩は、自然科学部の部長だった。

 なんだかとてもイタい人に思えたのが正直な第一印象。自分の本性を隠す仮面代わりのマスクもしていない。

 科学の力で困っている人を助けるヒーローになろう!

 と、好きらしい漫画のキャラクターを用いたプレゼンを行い、この部活は理科の総合的な勉強にもなるし、なにより実験は楽しいよと、本当に楽しそうに思える紹介をした。

 私はなんの気の迷いか、彼女の自然科学部に入部した。自然科学部は多くの卒業生を送った後で、他人同士が関わり合いになりたくもないという悲観的な時代でもあり、残っている部員は先輩一人だった。

 私の他にもう一人だけ希望者がいた。男子で、名前は股離(マタバナレ)インケイといった。

 自己紹介で何故入ったのかとか、やりたい分野は何かと目を輝かせて訊いてきたが、私はなんか楽しそうだからと、明らかにふざけているふわっとした理由を述べ、股離くんも似たようなモノみたいで、響先輩の背後にある説明会でも題材にしていた漫画の並んだ本棚をチラッと見て、……別に、と呟き答えるだけだった。

 最初は花で実験をした。これがどう考えても科学には関係ないだろうといった内容で、ただ花に話しかけて元気になれ元気になれと呼びかけるだけ。

 こうすれば元気に育つらしいとかなんとか。その話はどこかで聞いたことがあるけど、単に刺激を受けると伸びるだけじゃないのか。

 最初だから、子供扱いされていたのかな。

 せっかく入ったので、私は一から薬学、解剖学、生物学を勉強し始めた。ナナのような動物を救いたいと、可能なら獣医を目指したいなという、漠然とした目標もできた。

 私の手に届く範囲でもいいから、ナナのような動物たちを助けたいと思った。

 在籍して二ヶ月が経った頃、響先輩のとんでもない才能が発覚した。

 その日の朝にケガした小鳥を拾ったのだが、動物病院に持て行く間もなかったので部室に置いていた。

 響先輩は昼休みまで付きっきりで、どうしたのかというと、放課後までに完治させて逃がしたのだ。

 一体なにをやったのかと訊いたら、取れた羽根に言葉をかけてまた小鳥に付けて、それでおしまいとのこと。

 小さい頃からそんなふうに動物を治していたと言った。

 半信半疑どころか、まったくありえない話なので、冗談かと思った。

 しかし、実際に他の動物を治した現場を何度か目撃して、信じるしかなくなった。

 これは大問題ですよと先輩に言った。なんでもっと早く先輩の研究をどこかで発表なりしなかったのか、責めるように問い詰めてしまった。

 そしたらナナは……。勝手な八つ当たりまでして、さらにその場で泣き崩れた。頭のおかしい人みたい。

 響先輩は教えてくれた。誰にも知られたくなかったらしい。ちゃんと勉強をして、これがどんな理屈で病気を治せるのか証明してからでないと、他人には見せられない。そう言った。

 私は先輩の研究を手伝うことにした。協力者が必要に決まっている。

 獣医を志すよりも先輩の研究を手伝う方が、動物どころか人間でさえ救えるだろうと考えたから。

 まずは人を集める努力をした。人嫌いな生徒が多くて苦労したけど、私は目的のため十数名を半ば無理矢理入部させた。

 響先輩はどんな立場で何をやっていようが、そこに一つでも楽しみを見出すような人。

 彼らも響先輩と会うごとに明るくなっていった。快活な彼女の人柄は、不思議とみんなを楽しい気持ちにさせるのだ。

 学校の認可を得て開始する。実験は、響先輩の研究資料を参考にして行った。皮膚だろうが毛だろうが、まあなんでもいいなら全身を隈無く巡る血液を対象にするのが一番効率的であると私は考え、そうすることにしてシャーレーに入れて言葉をかけながら放置し、しばらくして被験体に戻す。

 私たちの結果は芳しくなかった。が、響先輩だけ成功。以降、言葉をかける過程は彼女のみに任せた。

 あらゆる種類の動物実験において副作用が発生しないか安全性の確認をし、懸念事項をクリア。

 

「実に興味深いね。僕にも見せてくれないか」


 成果を国家機関に提出した時、私は馬鹿だから審査の手順を間違えていた。人間での実験をまだ行っていないし、しかもただの高校生だから全く相手にされなかった。

 人間に適用するまでに至るプロセスは、幾十年の歳月を要する。

 しかし予めサイトも開設し、研究レポートも世界中に公開していた。それを聞きつけてやってきた日本在住のイタリア人、臼斗(ウスト)ハジメ教授は大金持ちで、私たちに出来得る限りの投資をすると約束してくれた。

 その言葉通り、高校に入学して一年が経ってからは本格的な研究ができるようになっていた。

 人を助けるためなら一切手を抜かない。

 私たちなら自殺者多発の、世界中で病んでいる人を救えるのではないかという、大それた確信にも後少しで近づきそうな気がした。

 非臨床試験から治験に移った。血液を用いての実験と同時に、入念な試みで細胞として培養し、損傷が酷い患者の傷口に細胞シートを定着させる。

 被験者自体から細胞を採取して精製し、初期化因子を送る必要もなくあらゆる治癒効果を発揮する、響先輩と存在を証明させた新たなこの万能細胞を、仮に英雄性幹細胞(Heroic Stem cells)、『HS細胞』と名付けた。

 夏休みに入る前、股離くんが退部、次いで退学した。

 気分が悪いというだけの理由で。

 これだから骨のない奴は……。

 この一年で少しだけ話をしたこともあるが、人の役に立ちたいと言っていた。

 そう言いながら、何も役に立ちやしない。どころかいい人と、少しでも嫌な人に対する態度があまりにも違う。

 言葉にはしないが、顔や態度に表れる。

 人を寄せ付けない暗い性格で、友達もいない。集団の中にいたら、何をやっても上手くいかないといった姿勢。

 人は協力する動物なのに。ここまでよくしてあげたのに、友達の一人も作れない奴はいなくていいよ。人間失格だ。

 群れに順応できない動物的な欠陥だ。人づてに彼の噂を聞いたら、家庭環境がどうとか。

 しょうもないなと思った。

 社会において何よりも大切なのは、他人の信頼である。難しいことじゃない。少し頑張れば手に入るモノだ。

 響先輩のように。

 この裕福な国で生まれたら、誰でも可能。股離はただの甘えだ。

 貧しい国で頑張っても報われずに死んでいく人らがたくさんいる。そういった人たちに比べたら、私たちはほんの少し努力をするだけで道を切り開ける恵まれた位置にいる。ずっとずーっと幸せじゃないか。

 まあ、あんな名前付けられたらそりゃ性格歪むよな、とか、みんなは納得していたみたい。

 まあ私も彼が自分で離れていって、不謹慎にもホッとしてしまった。

 最近はああいう人が増えているらしい。

 何が可哀想な家庭環境だ。家族が生きているだけ十分に幸せじゃないか。そんなに嫌いなら逃げればいい。ちょっと行動するだけで可能な話だろう。

 私はどんなに苦しくても胸の痛みから逃れられない。

 私はナナをもっと散歩や遊びに連れて行きたかった。

 ……オジさんと一緒に、夕焼けに照らされたモンブランの景色を見たかった。

 それはもう二度と叶わないのだ。喋ることもできない。どれだけ願っても、たとえ生まれ変わりがあったのだとしても、私が私として、彼らが彼らとして、再会する機会なんてこれから先の未来で訪れることなど絶対にありえないのだ。

 この途方も無い悔しさは、股離になど一生理解できない。

 いまは困難を乗り越えようとしている最中なのだ。側にいるだけで腹立たしくなる。あんな奴はいらない。

 羨ましいよ、あんたには大切な人が一人もいなくて。


「目指している場所が高いほど、頑張っているみんな以上に頑張って、きちんと結果を出さないと、嘘っぱちになっちゃうからね。アタシの言うことなんか、誰も信じてくれないよ」


 また一年が経ち、先輩が卒業する日がやってきた。

 臼斗教授の協力もあったのに、結局、私たちの研究が認められることはなかった。

 先輩がいなくなった途端に、部員は全員いなくなった。あいつらも股離と同類だ。裏切り者共。

 先輩は大学へ行っても、研究を続けると言った。みんながこれまで貸してくれた力と時間は無駄にしたくないんだって。

 門を出ようとした瞬間、私は叫んだ。

 

「響先輩、好きです!」


 泣きながら告白した。女なのに女の子を好きになってしまった。

 周りの視線が私に集まっているのが肌身で感じる。それでも構わずに言葉を続けた。

 もう大好きな人がいなくなるのは耐えられないと、先輩の袖を掴んでへたり込んだ。

 優しい先輩は、一方的な私の恋心に応じてくれた。その日から交際を始め、先輩はOBとして定期的に部室へ通ってくれるようになり、今までどおりそこで研究を続けることになった。

 そうして私は高校三年生になった。

 五月に最大の転機が訪れる。

 自殺願望者たちが事件を起こした。猛毒を私と響先輩がデートしている街中で放ち、大勢の人達がその被害を受けた。

 そのときに響先輩はHS細胞を使って、私を含めた全員を治したのだ。

 事件と響先輩の功績はニュースとして大きく取り上げられ、実際に人命を救ったことが実現までの過程を早めるいいきっかけになった。

 HS細胞の存在は大々的に発表され、国は承認をせざるを得ない状況となった。

 ついにやったのだ。響先輩の努力が報われた。これから再生医療が発展して、大勢の人達を救える。

 オジさんとナナにも報告をした。オジさんが生きて叶えられなかった人助けの道は、私が受け継ぐ。これから響先輩と一緒に歩んでいくと誓った。

 響先輩は有名人になって、融資も多くもらい、専属の研究所も設けられた。


「やあ、見てくれ。これが、『DS細胞』だ」


 舞い上がっていたのも束の間、駆け上がってきた階段は一気に崩れて私たちは地の底へと堕とされた。

 響先輩と共に連れてこられた地下室。腫瘍がぶくぶくに膨れ上がった馬、猿、猫、羊、など様々な生物をまぜこぜにした肉の塊がそこにはあった。

 臼斗教授がHS細胞に続く、新たな万能細胞を生み出したのだ。

 悪性幹細胞(Darkness Stem cells)、通称『DS細胞』は、HS細胞とは逆の理論で生み出された代物。

 癌に酷似していて、HS細胞を遥かに超える増殖能力を持ち、融合するためのサイトカインを放出させ、宿主の体内を蝕みながら支配していく。

 臼斗は世界にさらなる混沌を望んでいた。彼には協力者も大勢いて、そのために響先輩を利用していたのだ。

 その場では何も言えず、私は臼斗にまんまと欺された自分を責めていた。だけど響先輩は諦めていなかった。

 アタシの責任なら、アタシが解決しなきゃいけないんだと臼斗に立ち向かう構えだ。相手は映画に出てくる冗談みたいな悪い組織かもしれないのに。


「本当は怖い……だけど。私は先輩と一緒に、あなたたちと闘います!」


 恐怖に打ち勝ち、奮い立ったのが拍子抜けするほど、臼斗はあっさり捕まった。

 あいつは何が目的だったのか、はっきりしないまま全てが片づいたのだ。でも、DS細胞に侵されていた動物たちは、HS細胞を使っても助からなかった。

 それだけでなく、私たちが今まで築き上げてきたHS細胞の研究は承認審査を通らず、まるで事前に描かれたシナリオのようにあっけなく抹消され、私と響先輩は共に医学の界隈から永久追放をくらった。


「そりゃそうだ」


 臼斗がおかしいジョークを聞いてるかのように無邪気に笑う。

 追い出されてからすぐに刑務所へ足を運んで、彼と面会をした。

 遥かな目上の存在として今まで頼りにしてきた分、その呪縛から逃れられず、解らないことをどうしても彼に訊かずにはいられなかった。

 誰よりも憎むべき相手なのに。

 

「いいかな。そもそもHS細胞が前例のモノと比べても倫理的に問題があるんだ。あれを作れるのは響くんだけだったろう? それは彼女自体がHS細胞だからだ。所詮は自分の細胞から増やしているに過ぎない。僕が思うに、人間を含めた全ての生物はHS細胞とDS細胞のいずれかで構成されている。後者はほぼ全員が持っているが、前者は限りなく少ない。僕がやったのは単に元からあるDS細胞の性質を底上げしただけだ」


「……それで、何故、HS細胞までなかったことにされるんですか?」


「だから倫理的問題だよ。この事実が発覚しないようにするため。キミはまだ高校生だから考えたくもない可能性だろうけど、あのままだと科学的な根拠に基づいて善人と悪人を決定付けてしまっていたからね。あの人はHS細胞だから立派なんだ、お前はDS細胞だから最低だな、って差別が生まれる。ただでさえ自虐的思想が浸透し始めているこの社会に拍車をかけてしまうんだ。それを危惧しての対応さ。実に懸命だと思うね。それに響くんが亡くなったらHS細胞はもう作れない。彼女以外にHS細胞を持つ人物を捜すのは、砂漠に埋めたダイヤモンドを見つけることよりも難しい。いちいち一人一人の細胞を剥ぎ取って確かめるわけにもいかないしね。少なくとも現代では無理だ。時代錯誤の研究だった。それだけの話。キミの主張は子供の駄々と同じだよ」


「じゃあ、なんでDS細胞なんか作ったんですか!? あなたが余計なマネをしなければ響先輩は爪弾きにされなくて済んだのに! こんな結果で、一体誰が幸せになれるのよ! あなたもこうして牢獄に入れられて、……終身刑でしたよね? なにもかもお終いじゃないですか。本当に単なる愉快犯? だったら狂ってる……!」


「ははっ。どちらかと言えばキミの方がマッドサイエンティストに相応しいけどね。善も悪もない人形みたいに魂がなくて空っぽだから。加えて自覚がないんだし、尚更さ。それに僕の目論見はまだ当分、先の話。いや、ひょっとしたらもうすぐかもしれない。自分自身で成し遂げたいわけじゃないんだ。他の誰か、たとえばキミが代わりに……ね? さあて、ここからどうするんだろうねぇ。楽しみにしてるから。言っておくけど、僕はどっちつかずは嫌いだよ?」


 話にならない。臼斗の煙に巻く発言は意味不明なところが多すぎて頭がおかしくなりそうだった。

 要約すると、HS細胞はモラルとしてどうとか、現代で問題提起されている自滅思想がなんとか。

 くだらない。仮にそうだとしても、別にいいじゃん。善人と悪人の区別がはっきりしても。

 それの何が間違いなんだ。

 なんで世の中の人たちが自分を誤魔化していくために、先輩の努力が水の泡にならなくちゃいけないんだ。

 あらゆる病気が治せる可能性を放棄してまで、避けるべきリスクでもないはずなのに。

 大体、私なら絶対に差別などしない。他人がDS細胞だろうが気にしたりはしない。

 ……万が一、オジさんとナナがDS細胞だったとしたら?

 私は彼らが善ではないと判断するのか?

 違う。オジさんとナナは絶対にHS細胞だ。

 ダメだ。これ以上、あいつに毒されてはいけない。余計なことを考えようとする頭を振って、私は先輩が通う大学へ向かった。

 だけどいなかった。聞けば二週間ほど音沙汰がなく、講義にも出ていないとのこと。そういえばあれから会っていない。

 私は嫌な予感がして、彼女の自宅であるマンションへと急いだ。

 おそるおそるインターホンを押すと、普通にいつも通りの笑顔で私を出迎えた。

 ホッと胸を撫で下ろすが、すぐに違和感に気付いた。先輩はジーンズなど履かない。

 それだけじゃない。腕に巻いた包帯を、長袖で隠している。

 咄嗟に掴み掛かり、私は包帯を解く。直に彼女の腕を確かめた。

 ぽろぽろと真珠みたいなモノが零れ落ちる。


「何、これ……」


 先輩の右腕は、半分無くなっていた。反対も同じ。

 蜂の巣みたいなポツポツとした空洞と、赤黒い腫瘍が所々にある。


「……あ、あいつらあああああああ!!」


 私の宣戦布告が仇になったのだ。その仕打ちが、あろうことか大好きな先輩へ向いた。

 甘く見ていた。想像を絶するほどの悪意。

 踵を返し、また臼斗のいる場所へ戻ろうとしたら先輩に止められた。

 離して。絶対に許さない。優しい先輩の代わりに、私が怒ってやるんだ!

 すると先輩が小さく呻き、ふらっと倒れそうになって床に膝を突き、喘鳴を繰り返した。

 馬鹿だ、私は。今はまず先輩の治療が最優先なのに。

 やはり彼女の身体にはDS細胞が移植されていた。HS細胞とは相容れないので増殖はしないが、急激なマクロファージの減少、拒絶反応で着実に体内の細胞を破壊している。

 負けないよと、先輩が青ざめた顔で強がりを放った。私も、HS細胞の力を信じたい。だって私たちが育ててきた子供みたいなモノだから。

 その願いも虚しくDS細胞の浸食は進み、響先輩の容態は、瞬く間に悪化していった。

 HS細胞が悪性を善性に変える速度も相当だけど、DS細胞はその比じゃない。

 十の細胞を生き返らせても、その傍らで千、万の細胞を殺す。人間社会と同じで、悪は、正義よりも圧倒的に強かった。

 もう遅かった。時間がなかった。もっと早くに気付いていたら、助けられただろうか。

 私が臼斗に喧嘩を売らなければ、私が先輩に研究を勧めなければ、出遭わなければ……。

 またこんな悲しい思いをしなくても、済んだのに……。


 次の日、響先輩と最後のデートをした。

 身勝手な私は、先輩が残された時間をどう過ごしたいのかも考慮せずにお願いをした。

 解っている。全部、私のせいなのも理解している。だけど、嫌だった。

 好きな人がいなくなるなんて、もう耐えられない。二度と会えないなんて嫌だ。ずっと一緒にいたい。

 私はまだ諦めていなかった。これが終わったら、臼斗のところへ行こうと決めていた。

 あいつが仕向けたことだから、決して要求には応じないだろう。それでも死ぬもの狂いで、何がなんでも治してみせる。

 まだ先輩が生きているうちに。死んだらもう取り返しが付かない。

 映画を観に行った。無駄な時間だと思われるが、これは有効な手段だ。先輩を納得させるための。

 この作品はシリーズ物で、彼女がファンだと知っている。そして今回のテーマは「報復」。

 彼女の憧れると言っていた主人公の生き様なら、同調してくれるはずと思っての企み。

 しかし、内容は予想と全然違っていた。

 周囲の人間が我を忘れて復讐に駆られる中、なにもかもを失った主人公は胸中を締め付ける痛みが、死ぬまで消えないのだと呑み込んで、怒りを捨て去り、憔悴しきった声色で「自分以外の誰かが進む未来への道標を残すため」と儚げな台詞を吐き、己を犠牲にしてまで献身する。そんな、腑に落ちない結末だったのだ。

 隣にいる先輩は、なんだかにそのメッセージを受け止めたふうに微笑んだ。

 なんなんだ。どいつもこいつも。先輩に諦めろと?

 私はこの怒りを決して忘れない。こんなことは二度と起きてはいけない。

 大勢いるクズのせいで、善人が死ぬなんて、あってはならない。もし先輩が死んだら、それで私の大切な人が全員いなくなったら……DS細胞共を一人残らず抹殺してやる。

 電車に乗って海まで行った。おそらく自分の遺体はまともな形で残らないと判断して、それなら完全に消えてしまった方が周りのためだと先輩は言った。

 彼女は私の我が儘を聞いてくれたから、最後の先輩の願いだから、大人しく従った。

 人気のない浜場で、歩く先輩の後ろ姿を携帯のカメラに収めた。思えばこれまで一緒に写真も撮ったことがない。

 振り向いてほしくて呼びかける。もう見られなくなる先輩の顔を、永久に記録しておきたかった。

 彼女はいつもどおりの笑顔を私に向けてくれた。

 その瞬間、首から顔にかけて白い球が零れ落ちた。録画を止めて私は駆け寄る。

 先輩が服を脱ぎ始めた。彼女の裸体は見るも無惨で、私はまた泣きそうになった。


「痛くは、ないですか……?」


「うん。大丈夫」


 大丈夫なわけがない。だって、死ぬんだよ。これからお別れしなきゃいけないんだ。

 我慢できなくて、怖くて、悔しくて、やっぱり泣いてしまう。涙が止まらなかった。

 波打ち際からさらに奥へと、海水が腰を沈めるところまで進んだ。

 どうして、いつもこうなるんだ。

 オジさんにナナ、響先輩……。

 いい人ほど早く死んじゃうのは、この世界よりも天国にいる方が相応しい存在だと神様が連れて行っちゃうからなのかな。

 ふざけるな。だったら初めから辛い思いなんかさせなきゃいいのに。

 この人はいままでなんのために頑張ってきたんだ。先輩の人生はなんのために。なんのために生まれてきたんだ。


「ごめんね、もう時間がないから、その……」


「解ってます。だけど、先輩、せめて最後に聞かせてください。本当は何がしたかったんですか?」


 へぇっと、今から死のうとしている人とは思えないすっとんきょんな声を出して首を傾げる。

 実のところ、先輩の夢を、私はちゃんと聞いたことがない。オジさんと同じようなのはなんとなく解ってはいるけど。

 誰かを救いたい気持ち。その根底にある信念はどのようにして仕上がったのか。

 何に打ちひしがれ、何を望んで、その答えに辿り着いたのか。


「えっと、HS細胞とかDS細胞とかさ、本当はね、全部どうでもいいんだ。いい人や悪い人のどれかに変わってほしいとかじゃなくて……ただ、気付いてほしかった」


「何に気付いてほしかったんですか……? ちゃんと、口に出さなきゃ解らないです……」


「ごめんね。アタシにできなかったことだから、胸を張ってクグツに伝えられるわけがないんだ」


「訳が分からないですよ……お願い、私にだけでも教えて……。何を気付いてほしかったんですか。本当は、何を伝えたかったんですか!?」


 私がそうやって執拗に問い詰めると、先輩は黙り込み、暗い表情を隠すように顔を伏せて、またすぐにいつもの笑顔を上げ、そして答えてくれた。


「ごめんね、言えないや……」


 瞬間、私は押し倒された。

 水中で抱き合う。離したくないのに、先輩の身体はどんどん手からすり抜けていく。

 逝かないで。ツラいよ……私が好きな人たちがいない世界で生きるのは。

 下半身がもうない。なくなる。先輩と一緒に目指していた夢も。

 愛する人が、みんな……。


「やっぱりいやだ……響先輩、いなくならないで……」


 私の不安な表情を悟ったのか、先輩は私が大好きな笑顔で、水の中なのに涙を拭う仕草をした。

 指一本分。

 頬に優しいその感触を残し、響先輩は、白い泡になって海に散っていった。




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