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Endless Pure Suspicion

 何よりも大切なのは、他人(ヒト)を信じること。

 誰かに教わったわけではないけれど、とりあえずそれが私の短い人生で導き出した結論であり、信条としているところでした。

 たとえ人間関係において障壁にぶつかり、上手くいかない場合でも、原因は自分に至らないところがあるのだと考えるようにして、相手が心を開いてくれるまで真摯に向き合う姿勢が大事。

 どんなに悪い人でも胸の内には必ず良心を秘めている。故にこの世は本質的な善人しか存在しない。

 そう信じている。そうでなければ、私はいままで生きてなどいられなかった。

 その根拠に基づいた至極単純な経験則だ。


 ……だからこうやって、隣の戸口に思いきり足を叩き付ける衝撃音と鳴り響く怒号に、まるで私自身の心でさえも乱暴に蹴り飛ばされているかのような恐怖の感情に目玉をひんむいて、脳がイカレ叫び出しそうになったとしても、その信念の鎧によって魂の破滅を逃れることができます。

 そうして頼みの綱である我が信条、頭の中だけに存在し、誰にも侵害されない永久不滅の理念は、日頃から抱えている際限無き不安、感情の全てを支配されそうになる畏怖と、心身共に本来の重さを宿らせる睡魔とを一時的にどこかへ追い払ってみせました。

 確固たる意志は私を奮い立たせ、頬を密着させていた下層の冷たい地盤から、横たわる身体をひっぺがしたのです。

 誰もが寝静まる真夜中、ドーナツ型の鋼鉄都市『ライフサイクル』の下層区域は、静寂によってその重厚な圧迫感を醸し出していました。

 私は寝床から這い出て駆け付け、常時懐に仕舞ってある金具を抜き出し、がくがくと震える手で施錠を外してノブを捻り、なんとか重たい鉄の扉を開けることに成功したのです。

 きぃと甲高く軋む音と共に、一連の作業が滞りなく終わるまで背後にいた大きな影へやっと視線を移せた。

 薄暗い中でも一層真っ黒く、威圧感のみでこぢんまりとした私を今にもねじ伏せてしまいそう。

 影の正体はお父様でした。みすぼらしく不甲斐ない私を世話してくれる優しいお父様……。

 この人は習慣的な癖で、よく鍵を忘れる。

 「起きてるなら早く開けろ……」という低い声の呟きで、私の胸が引きつった。

 お父様が小屋に鍵を忘れた際、すぐに扉を開けるのは私の役目。できるなら一度目の蹴りで応じなければなりません。

 睨み付ける目とその言葉は、お父様の私に対する確実な非難の表れで、もう我慢ならないといった不満の発露に思えました。

 怖がってはいけない……。こうやって恐れおののく態度も、お父様の苛立ちを逆撫でしてしまう。

 込み上げるか細い悲鳴を堪えつつ平静を装い、努めて慇懃な姿勢で出迎え、彼を小屋へ導きました。

 中へお父様が入り、がっちゃんと扉が閉まるのを見届ける。お咎めは有らず、事なきを得て私はほぅと嘆息しました。

 ふつふつと沸き上がっていた胸騒ぎの元も一つ吐き出されたかのようで、それは空気中に一瞬で冷やされ霧散していったのです。

 その安堵を手に入れた代償に、再来した睡魔は躊躇いなく私の思考をトロトロに溶かし始めました。

 脱力感で倒れそうになりながら、おぼつかない足取りで小屋二つに挟まれた窮屈な寝床へ着き、疲労困憊の身体を支えてくれた頼もしき我が魂をそこで解放してあげたのです。

 寝ぼけ眼を閉じれば、地盤の底から響く一定の重低音が密着させている耳へと伝わり、血流と合わさった二重奏の心地よい音色を奏でて、私をこの下層よりもずっと深い所へ沈め落としていく。

 そんな気がしました。

 

「聞こえてるの!?」


 誰かが無頓着に喚き散らかしている声が、夢うつつの狭間で反響している。


「あれー? ね、ねっ? 起きてるんでしょ? 寝たふりしないでちょうだい」


 鉄パイプで軽く頭をコンコンと突かれて起こされる。

 その日は世界が崩れる夢を見ました。縁起でも無いのですが、とても妙な現実感があったのです。

 地鳴りと岩石のぶつかり合うような轟き、視界を包む発光。

 そこに私が一人だけ取り残され、金縛りみたいに身体は微動だにせず、救いを請う声も発せられず、為す術も無く佇んでいると、片っぽだけの手袋を嵌めた人が助け出してくれる。

 そういった都合のいい夢を見ました。

 どれだけ情けない自分自身を戒めようとしても、気を抜いている隙、特に寝ている間は、内に秘めた願望が夢想として反映されてしまうのでしょうか。


「はやく起きないと遅れちゃうよ? お母さんもわざわざ早起きしてね……お弁当作っておいたから、ここに置いておくね」


 薄目に開くと、優しい言葉遣いとは裏腹なお母様のしかめっ面がぼんやりと垣間見えました。

 だけれどまだ眠かったので、私というだらしのない人間はもう一度ゆっくりと目蓋を閉じてしまったのです。

 お母様は呆れたように唸ると、サンダルをわざとらしく鳴らしながらすぐ側にある自分の小屋へ戻っていく。

 扉を閉める時の音があまりに大きく、おかげですっかり眠気が覚めてしまいました。

 背中を起こして伸びすると、はらりと頭から一枚の紙片が落ちる。拾って確かめれば、注文の品々が書き連ねてあるリスト。

 いつも同じモノを頼まれるわけではありません。なんでもいいから酒三瓶、なんでもいいから肉四キロ、小麦粉三袋、インゲン豆、塩一キロ……。

 どれも遠くの区域にしか置いていない物ばかり。適当な値を付けて横流しにするつもりでしょう。

 とうとう立ち上がって布団代わりの古紙を片付け隅に仕舞い、お母様がこしらえてくれたお弁当を携え、今日も一日従順に働くことにします。

 

「おはよう、チッチ。いってきます」


 外れた配管から挨拶代わりに顔を出したペットのネズミさんにそう告げて、出発しました。

 いつもより随分と早い時間に起こされたからでしょうか、ちらほらとしか人影がありません。

 まだ寝ている方が多いのでしょう。注文も普段よりたくさんあるから、確かに行動するなら今のうちが良さそうです。

 箇条書きのリストを確認しながら、指折り数えて今日一日のスケジュールを調整。

 まずは塩。下級資源ですので、ここでならいくらでも手に入ります。

 それでも中心にある『塔』を目指さなければいけないので、小一時間ほど要することになるでしょう。

 私たち三人家族のいる居住区画Gは都市の外周に位置し、ただでさえ入り組んでいるのにこの範囲を行ったり来たりしているとあっという間に日が暮れてしまいます。

 ですがリストに載っている物は、この辺りで塩以外にないので、他へ立ち寄る必要はありません。

 だから近道をして長大な天井クレーンへと上がり、直行で渡ることにしました。

 小走りで半ばまで来て下の様子を窺いつつ奥の方にも目を凝らす。弧を描くような壁に沿い、長々と続く空間が丸ごと湾曲しています。

 このライフサイクルは堅牢な鉄の外殻に囲まれ、工業用施設が密集した下層区域では溢れかえりそうなほど多くの労働者たちが日々働く。

 とにかくまず目指すべき場所は白亜の塔。まさに内側のあの壁です。


「……面白くない面白くない……あーもーイヤだ、やりたくない……楽しくない……いいようにコキ使いやがって……ババア、ババア……いつか殺してやるよ、ババア……しねしねしねしね……」


 タラップを伝って下りる途中、小声でブツブツとぼやいている自分自身に気付き、その呪詛を噛み殺すように唇を結んだ。

 ああ、まただ……。

 どれだけ理屈をこねて言い聞かせても、無意識に口から漏れてしまう。自分でも嫌になるほど悪い癖です。

 頭では理解していても、心は納得していない。

 私の中で、言いようのない蟠りみたいなモノが鬱積しているのでしょう。一体、何様のつもりだ。

 お母様が私を働かせるのは、私自身のため。そのはず。

 実際に本人の口から何度か諭されたこともある。

 信じなければならない。内に秘めたる邪心を払拭するため、皆に、そしてこの信念にも従順なれ。

 そうして余計なことに思考を巡らせている間に辿り着きました。時計はないので正確ではないのですが、おそらく三十分も掛からなかったでしょう。

 そびえ立つ円筒型の塔は高く、中層の地盤を貫いている。

 私が近づくと電子パネルが点灯。塔の壁面がほんのり照らされ、縦横無尽のパイプ群、蓋式のダストシュートなどが浮かび上がりました。

 備え付けのポリ袋を抜き、並ぶ導管の一つに取り付け、パネルの操作画面を指で叩く。すると、白い粉状のモノが流れ出てきてみるみる満たしていきます。

 きっちり塩一キロ。

 ほとんど毎日ここへ来るのですが、時々どうしても怖くなってしまう。

 恐る恐る視線をダストシュートの隣に移す。スライド開閉式の小さな投入口。その上にあるシルエットの表示が、あまりにも不気味で。

 それはどう見ても、横向きの赤ちゃんにしか思えないから。

 通称ベイビーボックスと呼ばれるそれは、長いこと機能していないのだけれど、いつかは赤く点滅する日がやってくるのではないかと、とてつもない不安に襲われるのです。

 今は周りに誰もいない時間だから、余計に増して怖くなり、総毛立って私は塩を下げ袋に詰め、そそくさとその場から立ち去りました。

 側面に設置されたゴンドラに乗り、下層から上へ昇ります。

 塔の基底部、中間部、頂部、それらを取り囲んで併設されたライフサイクルの三段構造が下層、中層、上層です。

 これより上は空調が行き届いており、かじかんだ手先が徐々に温められていきました。

 眼下には中層の様々な利便施設が立ち並ぶ風景。ここでは主に商業が盛んで、物流の中継地点でもあります。

 下層よりも人気が少なく、市場が賑わうのはもう少し経ってからでしょう。

 次に向かうは一つ飛ばして上層区域。到着してゲートの前で網膜認証を済ませ、移送ポッドに乗り換えます。

 基本的に階層が上にあるほど、そこに住まう人たちの地位が高いということなのですが、同じように居住区画が塔の内周付近にあるほど身分がよく、文字通りの中心人物たちなのです。

 しかし上層区域の有力者たちに限っては例外で、全員が下層と中層を総じて傘下にした同格の支配権を持っています。

 平等というよりもわざわざ競い合う必要がないだけで、生活には余裕があり、むしろなるべくお互いに最低限の干渉しかしないよう気を付け、それぞれがフラクタルに塔を模して等間隔で建造した邸宅、これらは小臣塔と呼ばれ、そこに引きこもり悠々自適に暮らしているわけです。

 その他は集会広場、診療所、トレーニングジム、総合遊技場など、上層にしかない共有施設が点在しています。

 ライフサイクルにおける最高管理者たちの住処。立場の弱い者は彼らから施しを受ける形となり、その上、貨幣ではなく物々交換による経済がこの都市では主流。

 私は少なからず対等な取引をするため、相応の価値ある貢ぎを捧げなくてはならない。


「そんで、エビスにこう言ってやったのさ。我々の自由を、生きる権利を返せ!ってな。あん時はスカっとしたなぁ……」


「ごめんなさい、もうそろそろ」


「あ、そうか。んじゃあ、ほれ……グラッパ四瓶と肉一塊。どうだ、今日のオイラは太っ腹だい」


「うん。いつもありがとう、おじさま」


「へへっ。また明日も来てくんろ」


 約束の品を詰めて私に寄越すと、満足気なおじさまは歯抜けを覗かせて微笑み、寝室の奥へと引っ込んだ。

 もう三年前のこと、お父様を経由して彼の小臣塔に所望されました。

 恐れ多いのですが、私に魅入られたそう。おじさまのおかげで私は持たざる者からの変貌を遂げられたのです。

 他にも何人か関係を持っている女性がいるみたいですが、ほぼ毎日、朝早くから通うことが可能なのは私だけみたいで、そこはなんとか気に入って頂けてるみたいですね。

 台所を借り、袋から品物を吟味するため取り出して並べる。酒瓶を一本ずつ開け、匂いを嗅ぎ、少しチロっと舐めてみて確認。間違いなくアルコールだ。

 お肉も腐ってはいなかったので、五枚に切り分けてから包み直す。とりあえずこれで元手はできた。

 そしたら後はリストに従って目当ての物に換えていくだけ。再びゴンドラに乗って次は中層に。

 お昼前になったので、盛んに働く人々の往来により区域全体が喧騒に包まれています。

 私は塔を取り巻きごった返す群衆を掻き分け、配給センターの受付にお酒を一瓶を渡しました。

 塩、砂糖などの下級資源はここでも手に入りますが、中級資源の卵、牛乳、野菜、果物などは特に衛生面が慎重となりますので、こうやって決められた団体によって維持管理されています。

 小麦粉を五袋と交換。お肉とお酒は上層でしか入手できない高価な代物だから、一品でもあれば比較的有利な取引ができます。

 続いてはセンターにもないインゲン豆を栽培しているビニールハウスへ向かい、お肉二切れと引き替える。

 全て揃いましたら、お届け先へ持っていきましょう。


「こんにちは、おばさま」


「あのね、見て解らない!? いま忙しいの! いいから黙って早く入って!」


 今日はお客さんが一人来てたみたい。おばさまAは一生懸命になって寸法を測っています。

 おばさまBはお客を呼び止めて世間話をしているようで、おばさまCは帳場で大きな欠伸をかいている。

 人としての配慮に欠ける私は仕事の邪魔をしてしまった。これ以上怒らせないため、言われたとおりさっさと中へ入りましょう。

 この三人のおばさまたちはお父様の妹さん。ライフサイクルでも珍しい服飾店を営んでいます。

 三つのカウンターが三角形に囲う併用住宅の裏に回り、貯蔵庫に品々を詰めた後で中へ入りました。

 一階の事業所には所々、衣料品が乱雑に散らかっています。二階の住居へ上がり、リビングの引き戸を開けた途端、押し返されてガツンと頭を強く挟まれてしまいました。

 私が鈍痛に悶えて顔を歪ませると、クスクスといった笑い声がいくつも立体的になって聞こえる。

 子供が六人。彼らはおばさまたちの子で、私の従兄弟。

 こうやってイタズラをしたり、わーわーと騒ぐのが好きな、性格の暗い私と違って元気のある子たちです。

 辺りに散らばった古い玩具類やコップ。零れたジュースのせいか、ここの床はいつもベトベトしています。

 私の任されているバーターの仕事は身内を介したモノで、お母様を通しておばさまたちに頼まれた品を仕入れて運んでくるまでが全部。

 終わったら、夕方までここでしばらく過ごさせてもらう。親戚同士の親睦を深めたりだとか、兄弟のいない私のことを思っての計らいだと思います。

 それでも居心地はあまり良くないというかなんというか、一方的にお世話になっている身なので、たとえばこうやって物を投げつけられたりしても物怖じするばかりで文句の一つも言えないのです。

 からかうのも彼らなりに仲良くするためのコミュニケーションなのかもしれませんが、まともに接することができなくて申し訳ない限りです。

 兄弟がいればどこでもこんな感じなのかしら。それなりに楽しい時もあるので、こういう形でも付き合ってもらえるのはとてもありがたいことでしょう。


「よく来たねぇ~。お母さんは元気ぃ? ほら、アンタたち、この子もちゃんと遊びに混ぜてあげないの。ちょっといい? 訊きたいんだけどさー、お肉これ本当はもっと多かったでしょ? ……えー、だったら一切れでよかったのに~。逆に豆多すぎるから帰りに少しだけ持って帰ってね。あと、おじさんなんか言ってた? 駄目、これはこの子のためにって取っておいてたんだから。ほら~、食べなさ~い」


「あ……いいです。大丈夫です」


「いいから!」


 しばらくしておばさまAが戻り、あれこれ色々と話した後で、おやつとして細長いチーズスティックをわざわざ半分に割って(・・・・・・・・・・)差し出してきた。

 そいつばっかりズルいズルいと従兄弟たちが不平を鳴らす。

 ――別にいらないよ、恩着せがましい人。

 とはまさか面と向かって言えず、それでもいいよ、いいよと遠慮して、だけども口元までずいずいと寄越され、仕方なく受け取ってみんなに見られている中、恐縮しつつもぐもぐ食べた。美味しいかと訊かれたので、はいと笑顔で応える。

 お前はいいよな、恵まれてるな、と従兄弟たちは恨めしそう。彼らが残りの半分を誰が食べるか決めるためジャンケンを始めたところで、私はお暇することにした。

 その際、余分なインゲン豆に加え、お土産と称して在庫に残っている上着の数々を押し付けられ、両手が塞がる状態に。

 おばさまたちの仕事場兼住宅から出て、遠く離れたのを見計らい、一度立ち止まって荷を下ろし、背中に手を回して、くっついている紙を剥がす。

 大きな字で『地下資源』、と書かれています。張り付けられたことには気付いていましたが、ここまで敢えて素知らぬ顔をしていました。

 夜中にも吐いた溜息がまた口から漏れる。最近はより増して心が疲れたと、しきりに主張することが多くなった気がします。

 しかし、ここからは楽しくなる。

 ライフサイクルの外縁にある昇降リフトに乗り、中層と下層の境目にきたところで途中下車。

 吹き抜けに隠れた分厚い隔壁扉の上方。元々は搬入路の開口部だったそうですが、今は溶接を施し塞がれています。

 だけどここの一角だけ、外へ通じている隙間がある。子供一人ならやすやすと潜れそうな通気口だ。

 余計な荷物を置き、腹ばいになって奥へ進む。ダクトを抜ければ、そこは壮観な光景が広がっているのです。

 どこまでも続く空と地平線。爆撃の跡が痛ましいですが、微かに残るかつて栄えていた遺構のランドスケープは、そこにいた人々の営みを彷彿とさせます。

 私が毎日、帰路の道すがら立ち寄る場所。一人になれる空間。

 肉厚の無いパイプラインを渡り、編目板の足場に移って腰掛け、お弁当を広げる。とても肌寒いですが見晴らしは最高です。

 仕事が終わった後、ここに来て降り注ぐ日差しをうんと浴びる。たった半時間程度という束の間の余暇だけど、これだけが一日の楽しみ。

 最初ここへ来たとき、それはもうえも言われぬ感動でした。

 その頃の私はとにかくライフサイクルから出たいと願ってやまず、束縛から解放されて自由になる夢を胸に脱出計画を企てている最中、この密かな展望台を見出したのです。

 初めて外の景色を目にし、そして頭上を照らす太陽の光を仰ぎみた時、まるで心が洗われるようだった。

 世界はこんなにも大きくて広いのだと。私の抱えている悩みや不安などちっぽけなモノだと、そう思い知らされたのです。

 この偉大なる景観が、愚行に走ろうとする私を思い止まらせてくれた。

 私の『他人を信じる』という矜持も、生きていく中で自ら築き上げた思想というよりは、あの陽光が導いてくれたのだと結論付けるのが適切でしょうか。

 ふと肩越しに顧みて、背後にそびえる鋼鉄都市を見上げる。そこが私の生まれ育った居場所です。

 外被の全容は、八方に巨大な外周柱と躯体を覆う強化鋼板。

 ライフサイクルの歴史はほんの十数年程度。中にいる住人たち、元々彼らは戦火によって家を追われた流れ者であり、放浪の末ここへ辿り着いた。

 目印となったのが、あの『塔』です。

 こうやって外を眺めてみるとよく解る。ほとんど一面が焦土と化したこの辺りでは、イヤでも目立つ存在だったでしょう。

 発見した当時、長旅で疲弊した漂流者たちはとりあえず塔の基部周辺を根城にした。

 調査すると、塔一つで食糧供給の術もインフラも、人が生活していく上でのなにもかもが整っている事実が発覚。

 塔に備わっている機能の仕組みは、はっきり言って謎です。いまだに誰もまともに理解してはいません。

 誰が、なんのために、と不気味に思うところですが、おそらく塔を建造したであろう当事者たちの正体に関しては皆、薄々勘付いています。

 上空から迫るプロペラ音。顔を上げるとヘリコプターが三機、塔の頂上を目掛けて飛んできました。

 彼らこそが『エビス』。塔の中にいる人たちのことを、大人達が蔑んでそう呼んでいます。

 たまに空路からああやって行き来している様子が見える。私たちに対し、直接的関与はほぼ皆無。

 たとえ我々が真上にあるあの入り口へ這い上がろうとしても、それを阻むかのように塔を構成している自立式拡張鋼材によって自動的に増設されてしまうから、どうしても中へ入ることはできません。

 何度か試みた形跡か、塔の先端はネズミ返しを裏返したように歪な形状をしています。

 それでエビスについてですが、私はまだその姿を一度も拝見したことがありません。人づてに聞いた話では見た目だけは普通の人間らしい。

 おじさまの証言では、ライフサイクルの住民にはまったく興味がないといった、まるで路傍の石をなおざりにした態度の、どうしようもなくいけ好かない連中とのことです。

 他にも、エビスたちこそが三度目の大戦を起こした元凶、塔そのものが影の組織による新世界秩序を体現したモノだとか、その手の事柄が好きな人たちによって様々な吹聴がされています。

 住民たちは「元々この場所は我々の土地だ」と図々しくも言い張って、エビスへ衣食住の保障を直訴し、半ば強引な交渉の結果、居住の許可を得た。

 そしてどれだけ落ちぶれても人間、集まれば派閥や上下関係が生まれる。

 彼らはここでの生活に満足し、いつの間にか天井も壁も密閉した鉄の要塞に自分たちを閉じ込め、もはや外の景色を拝むこともできない。

 それが都市の成り立ち。皆、この輪の中で人生を完結させる運命を受け入れたのだ。

 と、私の浅い見聞を適当に掻い摘まんでまとめればそんなところです。昔のことなど、後の世に生まれた身としては誰の言うことを鵜呑みにしていいものか判然としませんね。

 ライフサイクルでの生活について私自身はというと、……正直なところ時折やりきれない気持ちでいっぱいになる。

 なにかこう、みんなから都合のいい捌け口にされている気がしてならないのです。

 お母様とお父様は自分たちの恥を誤魔化すため、遠ざけたい身内とは私を駆り出してあくまでも間接的に付き合い、おじさまは私の身体が目的で、おばさまたちは私の両親に対する鬱憤を彼らの子供である私で晴らすため、従兄弟たちはありもしない不公平を嘆くため。

 何故なら私は仲の悪い両親が完全に縁を切れない厄介な負担であり、だから上層との関係を保つため利用され、おじさまに純潔を汚されてまで帳尻を合わせなきゃいけなくて、おばさまたちは小さい頃、お父様にイジメられていたから、たとえ私を暗に虐げても当然の報いで、長男の一人娘だから親戚間の問題を背負うのも当たり前で、そんな事情をある程度は把握しているはずなのに従兄弟たちが私を、恵まれている甘ったれのお嬢様、と呼ぶのはそう思い込んでいた方が得だし、無抵抗の私をあからさまに非難したり嬲る楽しみができるから。

 そうして私は何も間違ったことをしていないのに、まるで一番の悪者みたいに扱われる。

 だが、これらは全て憶測であり確証は無い。しかし、なんとなく彼らの言葉や行動の端々から、腹の中にとてつもない醜悪を孕んでいるのではないかと疑ってしまう。

 あの人たちがそんなことを考えているはずはないと信じたい。それでも、どう頭をこねくり回しても私だけが不条理に、皆の焦燥を一身に浴びるよう仕向けられているとしか思えなくて……。

 上辺だけは優しい人間に思えるのが尚のことタチ悪く、たとえばその根拠として、私が溜息を吐く、「疲れた……」と小声で漏らす、虐められて不貞腐れたような態度を示す、楽しい気分の時に多少粋がったことを言う、など不満の一つでも感じられたり癪に障るマネをした場合は、必ずと言っていいほどみんなから責められる構図となる。

 そこにいる人たちみんなから執拗に罵倒されるのだ。生意気な言い分など断じて承知しない。

 仮に私が従兄弟たちと同じようにはしゃいだり泣き喚いたり、欲しいモノをねだるため駄々をこねたり、逆上して歯向かった日には、彼ら全員が懐に隠し持っている『悪意の刃』によって、私の心は容赦無く斬り付けられるのではないかと、途方も無い不安で身が竦んでしまう。

 だから私はその強迫観念により、遠慮がちで言われたことにはなんでも従う大人しい子供でいなければならない状況に追いやられているわけです。

 無邪気になどなれるはずがない。


「ふん、ふふん、ふーん。焼かれて食われて引き千切られてぇー、みーんな死ねばーいいのになぁ~、死んじゃえ、死んじゃえ」


 そこではたと我に返り、口をつぐむ。ぶんぶんと頭を振って疑心から沸き上がってきた負の感情を払う。

 一体、何度繰り返したら気が済むのか。こんな考え方は、すぐにでも拭い去らなきゃいけない。

 本当に嫌な人間だと思う。他の誰よりも心が邪悪だろう。

 私など、人間関係で悩むこと自体がおこがましい。反省をし、みんなにしてもらった『恩』を一つ一つを思い出していく。

 ライフサイクルは年々人口が増えていき、働くこともままならない子供が生活を圧迫している。出入り口を封鎖し、外部からの入居者を認めない姿勢はそのためです。

 子供を叱るとき、ベイビーボックスに入れられて『地下資源』にされるぞ、と決まり文句があるほど。

 なのに、役立たずの私なんかをお父様とお母様は見棄てずにここまで育て上げてくれた。他の方々もそれなりに快く接してくれる。

 おじさまに価値を与えられたこの身は私が有する唯一の資産となり、おばさまたちに任されたライフサイクルを毎日、時計回りにグルッと一周する仕事も、いいように利用されているだけかもしれないが、身の程を考えれば当然の扱いだし、なにより人は役割を担うことで自身に価値を見出すのだ。

 些かの苦しみでさえ、培った経験や必要とされる喜びには代えがたい。

 邪険にされるのは、私の努力が足りないだけ。これまで与えられてきた『恩』に見合うだけの成果を上げていないのが原因だろう。

 思うに、無償の愛などこの世に存在しない。見返りを求められて然るべきなのだ。

 私は塔に、みんなに生かされている。彼らが私を人間にしてくれる。

 それをきちんと自覚しなくちゃいけない。ホウレン草炒めを摘まんで口に運び、涙が出そうになる。

 信じよう。私のためこんなに美味しいお弁当を作ってくれるお母様が、イヤな人のはずがないよ。

 仄かに夜の帳が下りる。そろそろ帰りましょう。

 明日を生き抜くための糧として、今日の充足感を得られた。猜疑心を抱く恩知らずな私は、太陽に懺悔して立ち上がる。

 夕日が南西に沈んで暗くなっていきます。冬場は太陽を拝める時間も短く、なんだか寂しい。

 いつかは地平線から日が昇ってくる光景も見たいな。いまのところ、それが私の夢です。


「はぁぁぁぁぁ……あんた、ホントに断れない人ね」


「でも持って帰らないといけなかったから……」


「なんで?」


「豆の量が多くて……」


「なんで?」


「……私のせい、です」


「どうするの? 自分でなんとかしなさいよ」


 おばさまから頂いてきた大量のインゲン豆と、衣類の売れ残りを見てうんざりするお母様。

 私がいつまで経ってもしっかりとした判断のできない子だから、何度も何度も不快な思いをさせてしまうのですね。

 インゲン豆の詰まった袋だけを奪い取り、そのまま小屋へ戻ろうとしたお母さまがドアノブに手をかけてから振り返りました。


「あんた、今日もそこで寝るの? 寒いでしょ。こっち入ったら?」


「ううん。いいよ、いいよ。ここでいいの。あと、明日はお弁当も大丈夫です」


「なんで? 意味分からん~」


 両親は形式上だけ離婚していて、別々の小屋に住んでいます。と言っても一メートルすら離れてはおらず、ほぼ隣接しているのですが。

 私の寝床はそこの僅かな隙間。二人とも、いずれかの家に住んでいいとは言ってくれるけど、家督とその責任を継ぐべき者としてはお父様側に寄らざるを得ないので、お母様に申し訳なく……なんて心にも無いけれど。

 本当は一人の方が気楽でいいから。単なる私の我が儘です。

 ネズミのチッチに、残しておいたお弁当のオカズを餌としてあげる。チッチは従兄弟たちが私への嫌がらせとして無理矢理渡してきた。

 最初はデロンとした長い尻尾が気持ち悪いと思っていたけど、そんなのは慣れてくると全然平気で、今では可愛い私のお友達。

 一生懸命に食べる姿も愛くるしいです。害獣と呼ばれていますが、何一つ害意を感じさせない。

 チッチは人間じゃないから、刃を持っていないもんね。

 ここでなら内緒でチッチを飼うこともできる。中層から押し付けられた上着を敷いて、今日の布団代わりに。

 人様から頂いた物でこんな代用の仕方をして、万が一お母様に見つかれば叱られるけど、これを取引の材料やお店の宣伝になると思って売り歩いても、それはそれでおばさまたちに怒られる。

 私に渡された時点で、商品としての価値はすでに無いということです。どうせ明日から数日までには棄てなきゃいけない。

 変なデザインですが、寒さを凌げればなんでもいいです。包まってチッチも暖かそう。

 おばさまAに感謝ですね。

 今日は疲れたし、もう寝ましょう。お風呂はおじさまの所で済ませることになっています。

 一日に一回でもシャワーを浴びれるなら十分。

 本日は寝不足で起きる前にぐずり、業務中に声をかけてしまい、ましてや仕入れのミスまで犯した。

 トータルでは迷惑をかけてしまった割合の方が多かったでしょう。明日こそは不届きがないよう気を引き締めなくては。

 横になっただけでスゥっと意識が薄れていく。昨日の夢がまた見れるといいのですが。

 誰かの差し伸べる手が、私を救い出してくれる。まさに夢みたいな幻想を。

 あの人は一体誰だったのだろう。思い出せるのは片手に手袋、ダボダボのコートを着込んだエキゾチックな風体。

 夢の中でもう一度会えるなら、今度こそ顔を覚えていたい。

 地下からの振動が全身に伝わる。熱は感じませんが、ボイラーやタービンの駆動する音だと思います。

 これが段々と聞こえなくなってくるのに比例して、私の魂は身体から乖離し、下に沈んでいく感覚と共に闇と同化する。もしここが現実でないとしたら、そのままどこか違う世界へと魂を誘ってほしい。

 その願いを完膚無きまでに打ち砕かんとするが如く、現実の音は躊躇いなく私に襲いかかってきた。

 ……ああ、またか。

 深夜の居住区画Gに、怒鳴り合う声が鳴り響いている。週に一度はこうやって、両親は大喧嘩をする。

 それを私の寝ているすぐ側で繰り広げるのだ。その度に私は怯えて小刻みに震え、この不毛な諍いが収まるまで堪え忍ばなければならない。

 癇癪持ちのお父様はつまらないことでも頭に血が昇り、決して己を省みることのできないお母様は他人を怒らせる天才。

 この二人の相性が最悪で、どうして夫婦になったのか本当に不思議だ。お父様が声を張り上げながら地団駄を踏み、拳で壁を乱打し、それ以上、逆上させる言葉など止せばいいのに、お母様は止めどなく続ける。

 どちらの言い分に筋が通っているかではなく、どちらが大きな声で喚き散らかしたで勝ち負けが決まる。

 わざわざ私の近くまで来て、耳に届く所で始めなければ気が済まないらしく、小屋で寝ようが外で寝ようがもはや関係がない。

 だからいつも、喧嘩の内容がどうあれ、全てが私に対する遠回しの当てつけみたいに思えて仕方なかった。

 こうなったのは全部お前のせいだ、と。

 できることなら頭を抱えるように耳を塞ぎたいのですが、彼らに見える位置では起きていることがバレてしまうので、目を力強く瞑るしか術はありません。

 いい加減にしてほしい……。

 ただ眠っている時でさえ、私には心が休まる暇も許されないのか。

 お前らのせいで私がどれだけ嫌な思いを……。

 みんなして一人の人間にひたすら陰湿な仕打ちを……毎日毎日、こんな、こんなマネをされたら……。


「殺したくなってくる」


 ゾッとして背筋が凍る。自分の言葉にではなく、思わず口にしてしまったこと自体にだ。

 譫言を零すのは日常茶飯事だが、それはあくまでも一人でいる時だけ。しかも明らかに声量が大きかった。

 いけない。遂にやってしまったかと、両親の反応がないか恐る恐る聞き耳を立てて確かめた。

 まだ口論を続けている。どうやら私の失言は届いていなかったよう。

 安心したと同時に、虚しい気持ちが込み上げてきて泣きそうになる。あの展望台で決意を新たにしたばかりなのに、もう挫けてしまった。

 いや、この周期は昔から毎日何度も繰り返している。だけど年月を積み重ねるほど、この苦痛に慣れるどころかどんどん耐えられなくなり、思考は散漫し、感情の起伏も平均線が下がっていく。

 暮らしの中で心も体も、何よりも大事にしている信念ですら摩耗していく。そろそろ限界が近いのかもしれません。

 ……それでも頑張らなきゃいけないんだ。涙を呑んで、両親にしてもらったいいことを必死に思い出す。

 お父様は私が寝床で寒がっている時に、何回かブランケットをかけてくれた。お母様は私が小さい頃にギュウっと抱き締めて子守歌を歌ってくれた。

 彼らに悪意があるのだとしても、きっと私の方に重大な落ち度があったのだ。私はまだ、彼らの与えてくれた温情に対し、少しもお返しできていないのだから。

 『恩』の清算を済ませない限り、親が子供にどんな酷いことをしても罪にはならない。それだけ偉大な存在。

 虐待をされようが自業自得。勝手に生まれてきた私が悪いのだ。

 激怒を抑えきれないお父様が、お母様を「ブタ」と蔑称で叫ぶように呼んだ。

 ブタとは動物のことだ。生きている状態を見たことはないけど、たまに食べるお肉は元々、「牛」と「豚」と「鳥」という動物らしい。

 私は人間で、牛さんや豚さん、鳥さんを殺した肉を食べて生きている。

 そんな立場では、どんなに苦しいことがあっても不幸を嘆く資格なんてないのでは?

 人間という恵まれた種族に生まれた時点で幸福じゃないか。従兄弟たちの言うとおりだ。

 私は恵まれている。恵まれているんだ……。そう自分に言い聞かせながら得意のタヌキ寝入りを決め込み、次第に本物の眠りへと落ちていった。


「聞こえてるの!?」


 誰かが無頓着に喚き散らかしている声が、夢うつつの狭間で反響している。


「あれー? ね、ねっ? 起きてるんでしょ? 寝たふりしないでちょうだい」


 鉄パイプで軽く頭をコンコンと突かれて起こされる。

 薄目に開くと、優しい言葉遣いとは裏腹なお母様のしかめっ面がぼんやりと垣間見えました。

 人間とは本当に都合のいい生き物で、一旦眠ってしまえば、覚めた時に嫌な気分もある程度は軽減されています。

 それでもまた同じ一日が始まるのかと思えば辟易する。今日こそは隙を見せず失態なくと、昨日の自分と約束を果たすため、私は奮い立つ。


「はやく起きないと遅れちゃうよ? お母さんもわざわざ早起きしてね……お弁当作っておいたから」


「え……いいよ、いいよ」


「なんで?」


「昨日いいって……」


「せっかく作ったのになんで? これ誰が食べるの?」


 有無を言わせぬ圧力で、頼んでもいないお弁当をずいと手渡された。そうして満足そうに微笑みながら私の頭を撫でてお母様は踵を返す。

 その背中にはっきりと言い放ちたい。

 「いいよ、いいよ」という口癖になってしまった消極的な台詞ではなく、「こんなモノはいらない!」と怒気を込めた言葉で、クソマズい弁当を床に叩き付けながら。

 ストレスの蓄積による立ちくらみで視界が狭まって倒れそうになる。初っぱなで早々にしくじった。

 たとえば一日分働くことで仮に『恩』を五つ返せるとしよう。

 小さい方から順に数えて、ババアから弁当をもらうでマイナス一、就寝時に小屋に泊めてもらうでマイナス二、陰気の権化であるおばたちは他人様でありクソガキ共と一緒に過ごす苦痛の数時間はマイナス三の負債となる。

 最後の方に限っては、それとなく断れるよう何度か試したが、少しでも付き合いを放棄する構えを見せた場合、下手したらここまで従兄弟たちを連れてくる事態に発展してしまう。これだけはどうしても避けて通れない。

 だからどれほど頑張ったところで私が一日に返せる『恩』は最大で二つまで。

 所詮は勝手な数値化に過ぎないが、こうでもして逐一計算しないとツラい労働の励みにならないのだ。

 昨日はプラス一だったが、ひょっとしたら衣料品の売れ残りを渡されることでさえマイナス一か二だったかもしれない。それは強引に押し付けてくる当人たちの裁量次第。

 それにあいつらから与えられる食事はいらない。散々歩き回されたおかげでライフサイクルの情勢は大体把握しているからだ。

 最低限の栄養は摂る必要があるけど、その気になれば食糧は自分でいくらでも調達できる。

 少し前までは下層でも中層でも上層でもタダ飯が予め用意されていた。やれ子供が肥えていないと甲斐性無しの親に思われるだの、居着いてる間は親戚の子でも自分のガキと同等に扱う体裁を装わなきゃいけないだの、質のいい料理を食べればもっと綺麗になれるだの。

 冗談じゃない。いまさら親から衣食住を提供されるまでもなく自己管理はできるし、あのクズ共と同じ空間で何かを口に入れるなど考えるだけで吐き気がする。

 ましてや私はこの身体のみが財なのだ。唯一、それを利用してギブアンドテイクが滞りなく成立している上層のロリコンから無償で施しを受けるなど論外。

 だから意地でも断ってきた。……いいよ、いいよ、いいよ、いいよって。

 このスタンスを定着させるのに、一体どれだけ長い歳月を費やしたか。しかし、最近はそれも通用しなくなっている。

 こうやって弁当一つでも作らせたら、後からうるさい。お前にはああしてあげた、いつもこうしてやってるだのと。

 この望んでもいない偽りの優しさは、私のためではなく、ただひたすら自分たちのため。

 彼らは『恩』を売ったという行為自体が重要であって、実際に相手の気持ちがどうであろうが問題にはしない。

 ただただ私を縛り付けることだけが目的。「受け取らない」という選択肢はこれからも存在しないままで……。

 思い通りに事が進まない現状に苛まれ、狂って叫び出しそうになったその時、――上から爆発音が轟いた。同時にライフサイクル全体が激しく震動。

 突然のことに驚愕して身体が跳ね上がる。周囲にもどよめきと悲鳴が交錯している。


「何やってるの!? はやくこっちに来なさい!」


 訳も解らずその場で狼狽えていると、お母様が激しい形相で駆け寄ってきた。手を引かれ、小屋の中へ一緒に避難する。

 鼓膜を引き裂かれそうになる正体不明の爆裂はそれから数分以上続き、その間、お母様は私を庇うように抱きかかえてくれた。

 恐怖で震えが止まらない。こんなことは初めてで、私は怯えに怯えて無様に小さく呻き、お母様が励ますように背中を擦る。

 チッチは無事だろうか。お父様、おじさま、おばさまや従兄弟たちも……。

 ついさっきまで身内への憎悪を募らせていたくせに、その気持ちを容易に翻意させてここぞとばかりに彼らの心配をする。私はなんて現金な奴だろう。

 久しぶりに包まれる母の腕の中は暖かかった。お母様、ごめんなさい……ごめんなさい……。


「あいつら、あたしのこと蔑ろにして……! それで黙って聞いてたらさ、変なモノ出してきてからよ? 絶対、馬鹿にしてるでしょう? だからあたし何も食べないで出て行ったよ!」


 弛緩を忘れた絶壁の頬の下で、厚ぼったい唇が忙しなく上下にパクパク。

 上層の端に開いた大きな穴から覗く青空に見惚れ、まさしく上の空で他人の長話をまったく聞いていなかった私は、ハッとして姿勢を正した。

 今朝の騒動によるものか、奥の方に位置する小臣塔の一つが半壊している。不幸中の幸いで死傷者は出なかったそうです。

 あれからしばらくして収まったので、私は通常通りおつかいに参じた。そしたらこの有り様で、おじさまに連れられ集会広場へ向かい、今はこうしてとある人物の演説を傾聴しています。

 むくんだ馬面にドレッドパーマをオールバックにした髪型、その骨格を覆っているのが脂肪なのか筋肉なのかも正しく判別できないほどの巨躯。

 女性口調ですが、どうやら性別は男みたい。

 イーミルケンセイ・グランデビル・マホヒガンテと名乗るその人は、塔の中に住んでいたらしく、ライフサイクルの住民が最も毛嫌いしているエビス、ではなくて、エビスに囚われていた人とのこと。

 舌足らずな言葉遣いなので、やかましく喋っている内容はいまいち掴みにくいのですが、要するにイーミル氏はエビスたちから迫害され、そしてここへ放り出されたと主張しています。

 それがどこまで本当なのか、私には解りません。しかし話の中で、重大な事実が一つ。

 先の騒ぎは外部からの敵を迎撃するためにエビスが引き起こったのだと判明しました。

 そこだけはおじさまたちの琴線に触れたのか、急にざわめき始める。それに勘付いたイーミル氏が上層の住民をさらにまくし立てた。

 演説後、おじさまたちはさっそく準備に取り掛かりました。どうやら抗議デモを行うつもりみたいです。

 おじさまが景気付けにどうですか、とイーミル氏も加わったいつもの情事を終え、私は中層へ向かいました。

 伝令の役目も任じられたので、昨日よりも慌ただしくライフサイクルを奔走するハメに。

 色々と雑事をこなした後でおばさまたちの店に辿り着くと、そこにはお母様も来ていました。四人で楽しそうに井戸端会議をしている。

 従兄弟たちは普段よりも大人しく、私への暴言や暴力もないまま戯れに混ぜてもらいました。

 今は私の親が側にいるからでしょう。特にお父様は苦手らしく、顔を合わせただけでも従兄弟たちは泣いて逃げ出すほど。


「あんたはみんなに好かれてていいわねぇ~」


 を、捨て台詞にお母様は退散しました。

 彼女が話題として持ち出すのは主にお父様のことで、自分がいかに苦労したか、酷い目に遭っているのかと、自身がこの世で一番不幸な女だと、それを他人にひけらかすのだけが生き甲斐なのです。

 まさに陰口の達人。だけれど本人に自覚はなく、おばさまたちもまた彼女を憐れむのでした。


「大変ねぇ。お母さん、家であんな風に笑ってた?」


 そう言われて、私は困ったように首を傾げつつ、なんだかとても訊き返したくなりました。

 私は笑っているように見える? 元気そう?

 だといいけど、それもなんか癪だな。自覚できるほどもう正常な精神状態ではないし。

 平気そうに思われているのなら、いっそのこと変に取り繕わないでイヤな顔でもしていようか?

 いいや、解っている。私がお母様と同じことをしても意味は無い。

 悲しみを吐露してもどうせ嘲笑されるのが関の山だ。

 頭に何かが当たる違和感。触ると粘着性のある小さな物体がへばり付いていた。

 これはガムというお菓子の残りカス。背後で手を叩いて笑う声。

 どんぶり面で釣り目の従兄弟Aは、能無しの分際で自分を実力以上に誇示したがる悪癖持ち。

 ニンジンみたいに長い顔のブサイクな従兄弟Bは、いっつもオモチャのコレクションを自慢するくせに私の方が恵まれているだのほざく屑野郎。

 額が腫れて顎のしゃくれている従兄弟Cは、毎日毎日呆れるほど泣き喚いているくせに私が一度だけ涙を流した出来事をいつまでも周囲の人間に流布するカス。

 末っ子の従兄弟Dは、いい子ぶってる割に私が袋叩きにされていたらその卑劣なイジメに加わるマザコンで真の甘ったれ。

 デブブスクズ三重苦の従姉妹Aは、私を見下していて事あるごとに嫌味を吐くゲス。

 ゴリラみたいに肩幅の広い従姉妹Bは、他人の迷惑を一切考えずに暴れ回る馬鹿。

 コイツらの汚点について語れば枚挙に暇が無い。おばたちと全く同じ底意地の悪さ。

 遺伝情報とは斯くも正確無比に受け継がれるのかと思い知らされるよう。

 奴らと同種の血が私にも混ざっているのだと考えるだけで、死にたくなるほどおぞましい。

 ……マズい、もう本当に頭がどうにかなりそうだ。

 おばさまAに上層からの言伝てを告げ、ついでに手紙を渡した。今朝、私が書いたモノだ。

 まだまともである内に、『他人を信じる』という信念が少しでも残っている間に、せめてたったの一度だけでも真剣に向き合おうと覚悟を決めた。

 それでも対面にて話し合う勇気はどうしてもなく、聞く耳を持たれなかったらと思うと怖くて、卑怯な手段だけどやむを得ずこの形にした。

 いつもお世話になっていること、仕事を与えてくれたこと、自分が至らないせいで余計な手間をかけさせていること。

 この借りは、いままで以上の努力をして解消できるようにする。その上で、どうかこれからも仲良くしてほしい。

 そんな感謝と謝罪と厚かましい頼み事の旨を。

 私は教養のない人間なので、手紙というよりは拙い文章の羅列に過ぎないが、自分なりにありったけ思いの丈を赤裸々に綴った。

 信じたい。根っからの悪人はいないと

 どんな人間であれ良心があり、他者の痛みに同情する余地はある。それに訴えかけるのだ。

 おばさまAは斜め読みをしているような視線の動きで数枚の紙をパラパラとめくり、私は文面がちゃんと理解されているのかどうか不安になって、その場で硬直した。

 読み終えたと同時に、おばさまAがわざとらしく噴き出す。


「なにこれ? お父さんに書いてきてもらったのぉ~?」


 見たい見たいとせがむ従兄弟たちに、私が心を込めて書いた手紙をぞんざいに投げ渡し、ふざけた語調の音読で馬鹿にしてせせら笑う。

 大方こうなるとは予想していた。それでも信じていた一縷の可能性はあっけなく潰え、私の誠意はとことんまで踏みにじられる結果に。

 これでハッキリした。

 彼ら全員にとって私は短絡的な阿呆だという大前提がある。どうせコイツはこんな風に思っててとか、自由であるはずの思考に制限を課せられている。

 私がその時に何をどう考えているのかは、この人たちが勝手に決めてくれる。

 彼らの都合が最優先であって、私自身が実際にどう思っているのかなど、関係ないのだ。

 そうやって軽んじられている以上、理路整然たる形で胸の内を伝えようが、私の身から出てきた言葉だと認めてもらえないので無意味。

 それは私がまだ他人の胸を打つほどの直向きさが足りなく、功労の果てに得られる信用を築き上げていないからで、分相応の印象なのかもしれない。

 ……でも、このレッテルを貼られた現状で一体どうしたらいいんだ。


「コイツやっぱり生意気だろ。絶対頭おかしい。絶対なんかやらかす」


「こんなの嘘だよね。精神年齢低いもんね。貧乏だから着てる服、いつも同じだもんね」


「なあ、コイツの家、石の塊みたいだったもんな」


 従兄弟たちの人間性をよく表したうす気味悪い哄笑が辺りにこだまする。相手によって態度が異なるこの人たちは皆、私に対してだけは言葉を選ばない。

 「石の塊」というのは、私の家を指してなじる時に用いる従兄弟Aの常套句だ。

 私を頑なに卑下し、虚栄心を鼻にかけるその高慢ちきっぷりは、下層の縫製工場に自信満々に頼み込んでまで、はりきって開業した店が当初から立ち行かないのに中層住人だと騙って威張り散らしてる彼の親とそっくり。

 訳が解らない。ずっと自分たちの不遇を主張してきたくせに。

 私は恵まれているんじゃなかったのか?

 やらかすって何を?

 なんで他人を平気で傷付けるような奴らに、攻撃してくる最低の人間に、そんなことを言われなくちゃいけないのだろう。

 私があなたたちほど、何か酷いことでもしたの……?

 こんな理不尽に陥っても、それに抗う資格はほんの一欠片でさえ私に与えられない。

 反撃したら、その情報がおばさまたちから伝播して両親にも報され、お母様の一方的な否定や、お父様の折檻が待っているかもしれないから。

 それとは逆に、お母様はたとえ私が虐められている現場を目撃しても、「違うとこの子供だからお母さん怒れないからね、ね?」と諭すばかりで助けてくれやしない。

 私の親はあいつらが何をやっても怒らないが、コイツらの親は私を叱る。「でもあんた楽しそうだったよ?」とお母様は誤魔化して。

 お母様は私がどれだけ傷ついても、自分がいい人に見られていれば、それでいいのだ。影で人を虐げるコイツらにお咎めはないのだ。

 これが本当に恵まれている家庭環境なのか。誰がどう見ても深刻な境遇じゃないのだろうか。

 それともやはり私のせいのか。家のこともひっくるめてお母様やお父様まで馬鹿にされるのは、弱さという最大の罪に甘んじている私の責任なのか。どうにも腑に落ちない。

 従兄弟たちが掴まえたドブネズミを突っついて弄くり回し遊んでいる。ああやって小さな生き物を虐めるのも彼らの楽しみで、最終的には叩き潰して殺します。

 あれがチッチだったらと思うと気分が悪くなり、私は半ば放心状態のまま帰りました。途中、おじさまに拾われてデモ隊に強制参加させられる。

 塔を囲んでさんざめく集団の前線に放り込まれ、おじさまが肩を組んで高らかに宣う。

 今朝方、この子はエビスに犯された。かような性的暴行まで看破されたからこそ、我々は激昂するのだ。

 って、どこの口が抜かしているんだか。合意を促され、憔悴しきった虚ろな目でそこはかとなくこの役柄が様になっている私は項垂れるように首肯した。

 他と比べればコイツとの利害関係はある種、一番納得していたところもあったが、本質は血縁者達と相違ない。

 案の定、私は使いっ走りの肉便器でしかないのだろう。

 大体、ここに集まった連中もなんなんだ。いつの間にかどこかへ消えたイーミル氏はともかく、おおよそ私たちの生活は塔を設けたエビスたちによって支えられてきたと言っても過言ではない、どころかまったくもってその通りだと断言してもいいくらいだ。

 芯の通った力強い意志の如く揺るぎない塔の佇まいは、形ばかりで真正の調和を欠いた有象無象が織り成す付和雷同の精神になど動じない。

 ライフサイクルの民衆が掲げるイデオロギーはなんの裏付けもない慢心によるモノで、もう塔がなくても自分たちだけで生きていけるという思い上がりだ。

 もはや生活を脅かすだけの存在でしかない。だから出て行けと、エビスたちに向けて罵詈雑言を放っている。

 何様のつもりでそんなことが言えるのか。そもそもあんたらが勝手に塔の周辺を陣取って定住し始めたんじゃないのか。

 百歩譲って、ご神像として崇め奉るならまだ理解できるが、天上人から恩恵を受けている身分で彼らを糾弾するなど図々しいにもほどがある。

 どうしてこんな恩知らずの人たちに『恩』を返すため、私は義理堅く頑張らなきゃいけないのだろう……。

 デモが一段落した後で用済みとなった私はつまみ出され、気が付けば寸暇の休息を挟む猶予もなくなり、致し方なく直帰する。

 もう二度とあの場所へは行けない気がした。


「なんなのよ、これ! お願いだからちゃんとしてよ! あー、イライラする!」


 馬鹿な私は後頭部にガムを付けられたことを忘れていたので、見兼ねたお母様がハサミで髪の毛ごと切り落としてくれました。

 

「こんな頭で明日どうするの!?」


「……ごめんなさい」


「なによ、その反抗的な目は? 文句ぅ? はぁ……あんた、やっぱりお父さんに似てるわね」


 呆れて嘆息と言いがかりを吐くお母様。私は、どっちにも似たくないかな。

 それから昨晩に引き続き、両親は二夜連続で喧嘩を始めました。繰り返しの言い合いをまとめれば「どいつのせいで離れられないんだ!」というお題目みたい。

 なんなんだ。全部私のせいか。自分たちは親戚から逃げてるくせに。

 二人でケンカばかりして……怒りたいのはこっちの方だ。

 お前らは自分たちで望んでつがいになったのかもしれないが、私は親を選べなかった。

 私はこの両親とも、おじさまやおばさま、従兄弟たちとも違う。やり場の無い腸が煮えくり返りそうな思いを吐き出したり、ぶつける相手なんかいやしない。

 そんなことをしたら、全員に畳み掛けられる結果が目に見えているから。彼らの顔色を窺いながら、振る舞いの一挙手一投足にまで神経を使わなきゃいけない。

 あのね、私はね、誰かに悩みを打ち明ける権利すらないんだよ……?

 ずっと一人で抱え込んで、こうやって泣き寝入りするしかないんだよ……?

 心細さを察してくれたのか、側に寄ってきたチッチを縋り付くように抱き締める。ごめんね、とても寒いんだ。

 もうみんなが優しいのかどうかもよく解らなくなった。誰とも一緒にいたくない。

 でも小屋の狭間にあるこの窮屈な寝床ですら、親の用意した居場所には変わりない。『恩』はまだ、少しも返済できていない……。

 好き放題に憂さ晴らしをして満足したのか、二人はようやく鎮まりました。私もやっと安心して眠りに着こうとしたその時、背後に嫌な気配を感じました。

 誰かがこっちを見ている。金属製の扉が閉まる音は一つだけ。

 お父様とお母様、いずれかの一人だ。寝返りを打てるわけもなく、その眼差しで石にされたかのように動けない。

 息づかいは狂うことなく単調で、瞼は閉じたまま、頬に冷汗が滴る。

 

 「……ブタ」


 憎しみの入り交じった冷厳な声の主は、お母様でした。

 彼女は父親が自分に向けて呼ぶ蔑称を、あろうことか私に向けたのだ。確かな憎しみがそこには込められていた。

 母親の口癖と同じ言葉など使いたくはない。こんなクズと同列に成り下がりたくはないから。

 だけど……なんで?

 なんで、私に八つ当たりするの?

 やっぱり、自分たちが上手くいかないことは全部私のせいだと本気で思っているんだ。

 あんたらが喧嘩することに私は関係ないのに。確執の代価に娘を差し出す非道な親のくせに。

 この時、常日頃私が重んじている律儀さとか、植え付けられた自責の念とか、他人を信じるため遵守する信念を軸に肉付けしてきた諸々が心頭でごちゃ混ぜになって崩れ、その混合物が心の片隅で忌避感の山となって堆く積み上がった。

 もう、たくさんだ。

 取り巻く全てが私一人に嫌な思いをさせるための関係性としか思えない。

 母親は私が一瞬でも不服そうな表情をすると、よくどこか遠いところで、あんたよりも苦労している人たちがいるだから、それくらいでいじけるな、と戒める。

 だからなんなんだ。

 私は地獄に生まれたとでも言いたいのか?

 まさかその「苦労している人」って自分のことか?

 私を見ろ、私は可哀想、この世で一番不幸な女だって?

 無茶苦茶にも程があるよ。

 どれだけ尽くしても邪推され、あの人たちの庇護下にある以上、私が真の自由を手に入れる事など不可能だ。

 それだけじゃない。私がいることによって、彼らは自分を見つめられない人間にしてしまっている。

 そこだけは負い目を感じるべきなのかもしれない。

 から、いつかはここを離れるのが自分のためでもあり、みんなのためだろう。


 ……いつかって、いつだろう。

 ライフサイクルのどこへ行っても息苦しい。反対側に逃げたところで閉鎖的なこの都市では意味が無い。

 これ以上この人たちと一緒にいたら……。

 ずっと……。

 一生……。

 イヤだ……ダメだ………。

 ここにいたくない……ここにいたら絶対ダメだ!

 いたくない、いたくない、もう口も利きたくない顔も見たくない頭の中にすらいてほしくない。

 やだやだやだやだやだなにもかもうんざりだ。

 まだここに残って信頼関係を築くなどと、不毛な努力を続けるのか。

 いいや、そんなくだらないことは二度と考える必要が無い。


 その逡巡は、たった今集結を迎えたのだから。


 数時間後、おそらく両親も眠りに着いた頃合いだと判断し、チッチにすぐ戻るから待てってねとキスをして、私は寝床からこっそりと抜け出し、塔を目指しました。

 逃げよう。秘密のあの展望台から。

 高さは二十五メートルほど。おばから押し付けられた衣類を結び合わせて命綱代わりにすればいい。

 どう考えても長さが足りないだろうが、人間は打ち所さえ悪くなければ、高所から落ちても死なないとどこかで聞いたことがある。

 重傷を避けられないのは覚悟の上で、腕の一本や足の一本、ここから出て行くためなら喜んで差し出そうじゃないか。

 チッチは下げ袋に。重くなるといけないので食糧は最低限。用意は周到に。

 苛立ちの形相を包み隠すこともなく、歩みを進める。

 今日と同じく嫌なことが必ず起こるであろう明日がやって来るのには、もう耐えられない。

 本当は『恩』を返す義理なんてない。あいつらのためになることなんか一ミリもしたくない。

 もう限界だ。この行動は間違いじゃない。過酷な状況が私を駆り立てたのだ。

 本当は自分に悪いところがあるんじゃないだろうかとか、そんな苦悩に喘いで、胸が痛くて死にそうになる日々はもうイヤだ。

 塔に辿り着き、パネルの照度を下げてから操作して、水と塩と砂糖を少量だけ頂き、すぐさま引き返す。

 チッチの餌用に隠しておいた一昨日の豆もある。後の食糧は外で見つければいい。

 そうだ……やっと外へ出られる。一人になれるんだ。

 もう少しで煩わしさから解放されて広い世界へ躍り出る。……ああ、これでライフサイクルでの生活は終わりなんだ。

 あいつらの顔なんか金輪際見なくて済む。

 一人になったら、どこへ行こう。あの太陽を目指して歩いていくだけでもいい。

 冷たい顔が火照り、なんだかウキウキしてきて、らしくもなく楽観的な気持ちに満たされた私はスキップをしながら家へ戻りました。

 思わず鼻歌まで。だって胸躍らずにはいられない。

 今宵は記念すべき夜になる。

 一旦寝床へ帰り、さっそく準備に取り掛かりました。ダサい上着を固く結び合わせ、両手が不自由にならぬよう荷物は背負う形にする。はい、これで万端。

 急ごう。早くしないと両親が起きてこないとも限らない。

 とっとと出発しようとしたその時、馬鹿な私は慌てていたからなのか、ようやく異変に気が付いた。

 あれ……いない。

 いない……チッチがいない!

 パイプ管のお家にも、二つの小屋の周囲、どこを探してもいない。

 どうしよう。早く行かなきゃいけないのに。

 ……そっか、行きたくないんだね。わかったよ、チッチ。

 私も、一人が好きだから。チッチもその方がいいもんね。

 いままで狭いとこに住まわせて、親が私にやってきた、同じ仕打ちをチッチにやっちゃってたんだね。

 こうなるまで気付かなかった。ごめんね、人のこと言えないね、あなたの気持ちを少しも考えていなかったんだもん。

 でも、こんなこと言ったら身勝手だけど、ありがとう、楽しかったよ。幸せになってね。

 諦めて私はしょんぼりと昇降リフトへ向かい、身体を隠すように伏せて上のボタンを押そうとした。

 が、押せなかった。

 ……やっぱりイヤだ。

 ネズミ一匹に馬鹿みたいだけど、唯一の友達なのだ。たとえここから出られて、万が一幸せになれたとしても、チッチを置いていったらきっと一生後悔する。

 捜そう。絶対に見つけよう。まだ時間はある。

 チッチにとっては迷惑かもしれない。こんなの私の我が儘だ。所詮、あの人達の子供だから利己的な考え方しかできない。

 でも、約束するよ。ライフサイクルより、チッチにとってもずっといい居場所を見つける。

 幸せにする。一緒に幸せになろう。

 だから、お願い、私と来て。もう一度だけでいいよ、姿を見せて……。

 そうして、グルグルに絡まった思考回路で一心不乱になってチッチを捜す。パニックでおかしくなったその頭から出でる気色悪い不信感は、再び私の純心を貪った。

 他者を虐げることでしか生き甲斐を見出せないゲス共の顔が脳裏に過ぎる。あいつらが、チッチを奪ったんじゃないのか……?

 なんの根拠もないが、私は音を立てないよう昇降機を使わずいくつかの梯子をそっと昇り、中層にある奴らの住処へと出向いた。

 ここまで来たはいいけど。……で、どうやって確かめる?

 まさか中へ入るわけにもいかない。店の前に血痕が残っている。

 自分らが害虫害獣を駆除する益虫だと思い込んでいるのか、あいつらはいつも生き物の手足をもぎ取ったりしてイジメる。

 その他にも他人を不快にさせる遊びを好む性根の腐った餓鬼共だから、疑うなと言われる方が無理な話だ。

 裏にあるゴミ置き場。廃棄物収集は会員のゴミを塔のダストシュートへ運ぶだけだが、ライフサイクルでは不景気知らずの仕事。昨日の分はまだ回収していないはずだからまだ残っているはずだ。

 小さなゴミ袋を開ければ、死臭がむわっと漂う。数匹はいるネズミの死骸。

 ……よかった。この中にチッチはいない。

 そりゃそうだ。ついさっきいなくなったんだから。

 それでも今調べられる所は隈無く一つずつ潰していこう。

 私の逃亡に勘付いたあいつらがやってきた。両親、おじ、おば、従兄弟。

 どうしよう、どうしよう……隠れなきゃ。塔のダストシュートへ入ろうとする。

 内奥は不気味な闇だった。

 ここまで奥深く覗いたことはなかったから、解らなかった。

 ダスト管の横を見ると、ベイビーボックスにも繋がっていた。

 ダストシュートとベイビーボックスは全く同じ役割だった。

 このパイプはどこに繋がっている?

 常識的に考えておかしな話。塔は、水も電気もガスも食べ物も鉄材料も無尽蔵に精製する。

 ここで生まれて育ったのだから、そこはまで深く考えてはいなかったけど、何がどうなっているんだ。どういう仕組みで。

 私が食べたお肉は、本当に牛や豚なの?

 『地下資源』って……なに?

 恐ろしくなって中へ入れなかった。身内に追い詰められる。金具を抜き出し喉元に。

 チッチはもういないんだ。コイツらに殺された。だったらもう私も死ぬ。

 こんな時に限って言葉が上手く出てこない。言いたいことが、たくさんあったはずなのに。

 声の出なくなる夢を連想する。

 血の繋がりは死ぬまで断ち切れない。だったら死んでやる。死ねば二度と不愉快な思いをしないで済む。

 子供に罪をおっかぶせる。そして肝心のお前は無実を宣言するのか。自分は無罪という風な顔をする。

 じゃあ、私も同じことをしましょう。私は無罪ですよね、お母さま。

 お前らに教わったのは、人に向けて「ブタ」と呼んでいいってことだけだ。

 自分の不平ばかり。本当に苦しい思いをしてきたのは私だけなのに。

 おばは従兄弟達と共に私を上層の遊技場に連れて行ったりして恩を売るけど、私の両親は従兄弟たちを遊びにつれていかないから私は頭が上がらない。

 いじめ。これほどの仕打ちを受ける。この程度の非行で袋叩きにされるなら、じゃあ、あなたたちに日頃から虐げられている私はどうしたらいい?

 死ぬまで血の繋がりを断ち切れないのなら、死んでやる。人への誠意なんてアンタらから教わった覚えはない。

 謝る必要なんて本当は無い。だって私は、お前らに散々酷いことをされても、「ごめん」の一言だって言われたことないんだから

 楽しいことも、誰がどう悪いのだとかも、全部みんなで共有する。でも私は一人だ。

 お前達と違って、私にはストレスを解消できる場なんてないんだ。

 ここまで辱めを受けて。どうせ私の痛みなんて誰も解っちゃくれないんだ……。

 一人で死ぬなら自分の責任に出来る。こんなドロドロとした猜疑心を抱いたまま生き続ける方がイヤだ。

 可哀想だと思われたいからだとか、命を使って不平を主張したとかじゃない。

 私が死ぬことでコイツらは捌け口を失う。殺して恨みを晴らそうにも、そんなことをしたら私が加害者で、殺されたコイツらが被害者として、ライフサイクルにいる人々の記憶に刻まれてしまう。

 殺したらコイツらだけが同情の対象になるのだ。

 それくらいなら捌け口をなくしたコイツらはこれからもだらだらと生きて、私が一人で苛んだ苦しみを少しでも味わってほしい。

 コイツらの刃で精神的に殺される前に、この金具で喉を突き刺して肉体的に死にたい。

 金具をはたき落とされ、へたり込む。

 私一人をねじ伏せるなど造作も無いだろう。

 ああ……一生を賭しても払いきれない、まったく望んでいない『恩』を売られてしまう。

それを享受せざるを得ない状況へと否応無しに。

 今まさに、隠された『悪意の刃』が、一斉に私へ向こうとしていた。


「重傷ですな。他人が自分を攻撃してくる敵としか認識できなくなっている。そういった被害妄想に囚われているのです。自意識の肥大化ですよ」


「そんな考え方やめなさい、ツラいだけよ。ね?」


 お母さんは、私の汚い身体でも優しく抱いてくれたのです。紛れもない優しさを感じました。


「役に立とうとしている証拠ですよ」


「仲間にしてくれるの?」


「さあこの子を、改めて我々の一員として歓迎しようじゃないか」


 どこまでも愚かな私は、暗黙の心遣いに気付かなかったのだ。変に思い込まず、悪態をつき合いながらも仲良くなれるような、そういった本当の親密関係を築く努力をすれば良かったのだ。

 ここに来るまで私なんかの何十倍もツラい思いをしてきた彼らに対して、私はなんて薄情なのだろう。

 こんなことで心を痛めて涙を流す人が、心無いなんてそんなはずはない。きっと悪いのは私なんだ。

 ごめんね、お母さま。喧嘩をしている時は娘である私が仲裁に入り、母も父も守ってやらなくちゃいけないんだ。

 精神病なんて甘えだ。昔、家を失った、辛酸をなめてきた、私よりずっと不幸な大人たちがふんばって生きているのだから。地獄の中で。

 虐められるのは、単に私のイヤな考えが悟られてしまっているだけなのだ。気持ち悪いから当然。

 カウンセリングが終わってすぐに、私は新しい仕事を任せられた。

 示威活動の一環として、塔の導管から物が出ないようにする。

 ライフサイクルの住人は塔なんかなくても生きていけるぞ。強いんだぞ、ってエビスに伝えるための大事な役目だ。

 そうだ、これが社会における真っ当な人間関係だ。進展に繋がることを祈りながら、頑張ろう、頑張ろう!

 みんなのために頑張ろう。克己して励むのだ。

 まるで腕の形みたいな制御装置の端末を渡され、上層から順に作業を行う。これが断路、遮断……。一つずつ取り外していく。

 下層まで来たもうこれで終わりだ。教えられたとおりに、制御装置の操作をする。

 塔が揺れ始めた。壁が膨張して、パイプが破裂し、何か黒いドロみたいなモノが爛れ出ている。

 塔が、ライフサイクルが、共に崩れていく。

 何が起こっているのか、解らなかった。

 みんなが私を見ている。ごめんなさい、私が馬鹿だから。ごめんなさい、逃げて。

 私は死んでもいい。死んだ方がいい。

 お母様は手にしていたワイヤーで私を磔にした。口も布で塞いだ。


「えねねねね、ごめんなさい、わたしばかだからにげてぇ。ぬおー」


 お母様は私の泣きそうな顔と口調をマネした。おじさまが制御装置を奪い、出入り口の扉を開く。


「え……」


「え、じゃないでしょ。死んでもいいって言ったでしょ。欺されてホントに馬鹿だねぇ。大体、お母さんが生んだんだから、あんたを、その身体をどうしようが勝手でしょ?」


 お母様は平気で約束を破る人だと、忘れていた。母親にとって私は飽きた人形だったのだ。

 自分だけが可哀想としか思えない母親と、自分の子供という共通の敵を見出した夫婦は、仲良く肩を組んでライフサイクルから出て行った。

 悪意の刃で心を八つ裂きにされた私は、見切りを付けられた。

 おじさまの姿はもうない。おばさまたちは私を侮蔑の視線で睨んだ。


「みんな、仕方なく相手してたのよ」


「信じて……いたのに」


 そうか。この人たちは卑怯を隠すことを覚えただけ。

 従兄弟たちがネズミの尻尾を掴まえて、笑いながら見せびらかす。

 そして、チッチを、目の前で、私の大切な信条ですら全否定した上で、踏み潰した。

 外へ出ない悲鳴が腹の中に響く。吐瀉物が塞がれた口の中で逆流を繰り返し、鼻からも吹き出る。それを見てさらに笑われる。今までの屈辱を晴らすこともなく、それ以上の嗜虐のため扱われた。

 まんまと欺された私。みんながいなくなった後で、壁が崩れて拘束が解けた。

 崩れ落ちていくライフサイクル。

 みんなが出て行ったところはもう塞がれてしまった。損傷箇所を昇り、なんとか秘密の展望台へ。

 みんなの姿が遠ざかっていく。

 人生最大の選択ミスを痛感した。あのタイミングで確実に死ぬべきだった。

 猜疑心は氷解し、確信に至る。侮っていた。彼らは私よりもずっと狡知に長けていたのだ。

 彼らが痛感すべきことを、私がいることによって言い訳にしてしまった。

 解らなかった。なんで、ずっと夢焦がれていた地平線の向こうに、嫌いなあいつらが行くのか。どうして私一人だけが行けないのか。

 全然、解らなかった。


「……ふ、ふふふ……ははっ、あははははっ!」


 心の底から誰かを信じてる人間なんて存在しない。いや、いてはいけない。

 延々と他人を疑い続けてた私が正しかったんじゃないか。他人を信じるなんて、一番やってはいけないことだったのだ。

 厳密に言えば自己抑制?

 普通に殺されるよりも最悪だった。大切なモノを踏みにじられたのだ。

 私の態度が彼らをつけ上がらせ、変貌を許してしまったのだ。余地を与えてしまった。

 この人たちの支配下にいる時点で、私の末路も決まっていた。どうせ同じ結果になるのならたった一人ぼっちでも理不尽と闘うべきだった。

 多少の無理をしてもでもチッチと早くここから出て行けばよかった。

 悪意というモノには、際限がなかった。良心など誰の心にもあるモノではない。悪い人は、ずっと悪い人。

 平気でこんなことができるのだ。想像していたよりもずっと酷い人たちだった。まさかこんなにもタチが悪いとは。しかも自覚がないのだから、なおさらに。

 相手の気持ちなど考えず、立場など弁えず、内から沸き上がる衝動に身を任せればよかった。

 想像力の足りない人間に生まれていたなら、どれだけ幸せだっただろう。

 片鱗どころか全貌を解っていたじゃないか。猜疑心を追い出してはいけなかった。

 何故なら、それこそが、生きていく上で何よりも大切なモノだとようやく理解したから。

 他人を信じる心なんて、糞の役にも立たない。誠意が相手に伝わることなどない。努力が報われたりはしない。

 私は自分じゃなくて、もっと他人を疑うべきだったのだ。


「―――ッ! 死ねええええええええええ!! じねぇぇええええーーーーーっ!! びんだぢんじゃぇええぇえええぇぇぇぇーー!!」


 喉が破裂しそうなほど叫んだ。あいつらは絶対に赦さない、殺してやると。

 私は性格が暗い、頭がおかしい精神患者か?

 だから嫌われるのか?

 お前らみたいな奴らが、弱者を攻撃して、心を患う人を生み出すんじゃないのか?

 仮にお前らが私とまったく同じ立場になったとしたら、こうはならないと言い切れるのか?

 人として改めるべきなのはどっちだ?

 有害なのは何も考えずに、平気で人を傷付けることのできるお前らの方だ。

 お前らの方がいなくなればいいんだ。

 一人残らず死ねばいいんだ。

 ……なのに、どうして私だけがここで一人死ななきゃいけないんだ。

 ずっと我慢してて、大声で泣くことに慣れていないので、上手く泣けない。

 微塵も屈辱を晴らさずに。こんなことなら追い詰められた時に、「お前らなんか大っ嫌いだ!」と、面と向かってありったけ全部ぶちまければ良かった。

 私に殺されたって、文句の一つも言えないくらいツケがある連中だ。

 自分の非をいっさい認めようとしないゴミみたいなははおやだ。みんな人の良心を弄ぶクズだ。

 体のいいスケープゴート。それが私の最後の役割だった。

 本当に馬鹿みたいだ。なんであんな人たちの捌け口になるため、一生懸命になって生きてきたんだ。

 いつかは報われると根拠のない期待をしていたからか。悔しい思いで胸が締め付けられるのなら、《地下資源》にされた方がずっとマシだった。

 こんなことなら、嫌いな奴らの口実になるくらいなら、もっと早くに死ねば良かったんだ。

 生まれてこなければよかった。

 結局、誰も私を助けてくれなかった。

 生まれ変わったら横暴な人間に。平気で他人を傷付けるような。

 ひくついた嗚咽が止まる。

 ……もうやめよう。他人のせいにしてたら、人間は堕落する。あいつらみたいに

 いいようにやられていた私が悪い。私の臆病さに起因する。なにもかも自分の弱さが招いた結果なのだ。


 地平線から太陽が昇ってきた。


 それは、私が夢見ていた景色。

 死んだはずの心が照らされ、拍動する。

 網膜を覆うきらめき。まるで、夢みたいだ。

 こんなにも美しい光景がこの世にあったのか。

 ああ、そうだ。よかったんだ、これで。

 私がずっと「他人を信じる」という不毛な信念を貫いたからこそ、この光に辿り着くことができたのだ。

 世界が崩壊した途端、全てを失って彷徨うあいつらとは違う。

 たとえどうなろうと自分の中にある一番大切な物は絶対に失わない。

 拠り所とするべきはこの信念。誰かに滑稽だと思われても、私が心の底から出でた感情がそう言っているのだから、それが真実なのだ。

 誰にも愛されず、何も幸せを見出せず終わる儚い人生だった。それでも今までの苦しみごと私の財産だ。

 その全てはここに収斂されたのだ。

 ある意味では望んでいたこと。やっと一人になれる。

 イヤなこと、イヤな人達が多い世界でわざわざ生きる必要もないだろう。

 黄金の陽に向けて手をかざす。

 指の間から差し込む微かな光芒が、瞼に溜まった涙で霞んだ視界の縁を鮮やかに彩る。

 キラキラしてて、今までに見たどんな風景よりも綺麗だった。


 ──この景色は、私だけのモノ。



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