家庭内円満戦争
「ありがとう、この世界を壊してくれて」
女は言った。鍋の中に怪しげな塊をボトボトと落とし、汁がボコボコと跳ねあがるのもお構いない。
確かにこの世界は壊れているのかもしれない。四半世紀の人生、ここまで神を疑った日があるだろうか。四畳半の真ん中で、怪しげな鍋を取り囲みながら男は静かに思案した。
試しに魔法が使えるだろうか。いいや使うことはできない。では鍋の中のものを透視できるだろうか。それも等しく不可能だ。ならば世界は壊れている。そう断定せざる訳が男にはある。
祖は大魔術師。この世の母は錬金術によって産まれたことを知っているだろうか。水銀と鋼と怪獣の涙を三日三晩鍋を混ぜ合わせて作られる。結果強い母が生誕する。
お前の母ちゃんデベソというのもあながち間違いではない。鍋から産まれる者は等しくデベソだ。聖母マリアも例外ではない。
男は一つの事態を恐れていた。この鍋からはたまた母親なるものが生まれるのではないか。世の男性にとって母親というのは敵以外の何者でもない。部屋に勝手に侵入してきてはならぬとは言っても無駄だ。
気泡がぐつぐつと沸き上がる。内なる母が怒りを湛え、今にも生まれ落ちるかのようだ。それだけは絶対に阻止しなくてはならない。
女は西洋の魔女もおそれおののく顔で鍋をかき混ぜている。よもやそろそろ限界なのかもしれない。
「俺の負けだ。もう勘弁してくれ」
「そう、私の勝ちね」
女はクスリともせず言った。
男と女の戦争が始まったのはおよそ二か月前であった。
「先に根をあげた方が負けというのはどうだろう」
初めに言い出したのは男の方であった。
「いいわよ」
女は毅然と口元を押さえながらそう答えた。
家庭内不和の解消。男と女は戦争はここから始まった。
この戦争の事を二人は家庭内円満戦争と呼んだ。日常の不満をちくりと口にするのではなく、例えばウォシュレットの勢い強くしておくだとか、シャワーを真水に設定しておくだとかその程度のものだ。
そして、その戦争の行方はあえなく男の敗北で終わりを告げる。
「まさかまさかそんな手を使うとは思わなかったよ」
「そうね。私も鍋ごときであなたが負けを認めるとは思はなかったわ」
「そうだな」
これにて家庭内円満戦争はめでたく終わった。詳しくは割愛するが、この二か月は色々なことがあった。
「でも、鍋はしっかり食べてね」
第二次家庭内円満戦争の幕開けが近づいている音が聞こえた。