境界線
金曜日。
明日は休みだということで、俊一の心は浮ついていた。
たとえ空に雨雲が蔓延っていようとも、それは変わらない。
朝食を食べ終えて、歯を磨き、服を着替えて靴を履く。
二階にランドセルを忘れていたことに気づき、慌てて取りに行く。
忘れ物がないかちゃんと確認してから、俊一は玄関に戻った。
外は雨なので、普段使っている傘を傘立てから取り上げる。明津怜奈の傘は昨日返してしまったので、いつぞやのように学校でビクビクしながら傘を隠し回ることはもうない。
「いってきます」と、ドアを開ける。
ドアが閉まる直前、母さんが「寄り道せずに帰ってきなさいよ」と言ってきたが、もうドアは閉まったのだ。返事はしないでおく。
風除室のガラス扉を開いて、傘を開く。雨の降る中、透明なビニール傘を携えて俊一は敷石の上を歩んだ。
そうして道に出たときのこと。
「お、俊ちゃん。」
左から竹田が現れた。
「……。」
明津怜奈も一緒だ。彼女は俊一に挨拶することもなく、気まずそうに顔を伏せた。
耳が若干赤い。
「おまえらなぁ……」
「ん? 何?」
「何、じゃないよ。昨日の今日で、どうしてそこまで仲良くなっちゃってんの。」
今回ばかりは俊一も嫉妬させてもらう。
二人は相合い傘をしていたのだ。明津怜奈の持つ藍色の傘に、竹田が入る格好で。
竹田は傘を隠されたのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、そういうリクツで割り切れないことも、世の中にはある。
明津怜奈は恥ずかしそうに視線を泳がせているが、竹田に雨が一滴もかかっていないのに対して明津怜奈の左肩が濡れている辺り、実際は満更でもなさそうだ。
「明津怜奈、肩、濡れてる。」
意地悪く、俊一は指摘する。
こう言えば竹田が「ややっ! 明津さん申し訳ない! やはりこの竹田は一人で学校に参ることにする」とか言って相合い傘から飛び出し、ランドセルを被って学校へと突っ走るのが予想できていたからだ。
善意の指摘に見せかけて、その実胸の内では二人の仲を裂くことを目論んでいる。俊一は自分の戦略の鋭さにただただ震え上がるばかりであった。
「あ、本当だ。」
しかし俊一の思い通りにはいかなかった。
「ほら、明津さん。」
「……!」
何と言うことだ。竹田は明津怜奈の肩が濡れているのに気付いた途端、あたかも彼女を抱きかかえるようにして自分の元に引き寄せたではないか。
「み……みーちゃった、みーちゃった。先生に言ってやろ。」
「言ってどうなるんだよ。」
「『竹田君と明津怜奈さんがいちゃいちゃしながら登校してました』って言えば、先生も注意してくれんだろ。」
「なっ、ダメ! ダメよ木村君!」
竹田が何か言うより早く、明津怜奈が肩を怒らせて叫んだ。俊一のみならず竹田までもがびっくりして、思わず肩から手を離す。
何とも不思議なことに、手が離れた後も明津怜奈は竹田の体に引っ付いたままだった。なんでだろうね。
「おま……今更だけど竹田、なんでそんなことしてんの?」
「そんなこと? 相合い傘か?」
「それもだけどさあ……お前だったら明津怜奈が濡れてるのに気付いた途端『ややっ』とかいって一人で学校に飛んでいきそうなもんだけど?」
「家の前で明津さんに会ったときは、俺もそうしようとしたよ。けど明津さん、『竹田君がまた風邪引いたら明日一日看病してあげるからね』って言うんだもん。仕方ないよ。」
「看病……へっ?」
「竹田君っ!」
「相合い傘してもらって、悪いとは思ってるけど、やっぱり俺が風邪引いて明津さんに迷惑かけるのよりは……なあ?」
「竹田ァ……それはなぁ……」
「木村君! 余計なこと言わないで!」
今度こそ正真正銘の親切心で竹田に真実を教えてやろうとしたところ、またしても明津怜奈に叱られた。
それを言うなら竹田だって、彼女からすれば余計なことを言ったことになるじゃないか。それなのに俊一だけが叱られるとは。なんだこれは。なんなんだこれは。
彼女は竹田に抱き寄せられた衝撃で冷静な判断が出来なくなっているのだろうか。
だとすればちょっと可哀想だ。そういう、女の子をドギマギさせるようなことを何の下心も無しにやるのが竹田の怖いところ。竹田にその気がないことを知ったとき、明津怜奈はどんな気持ちになるのだろう。
クラスメートの視線を一心に浴びながら、竹田と明津怜奈は教室に着いた。
ちょうど三十秒遅れで、俊一も教室に入る。
案の定、教室は騒がしかった。
男子はいつも、三個くらいのグループに分かれて固まっているのだが、今日はその集団の数が一つ減っていた。グループの中でも竹田を嫌う二つの派閥が合併し、今朝の話題で盛り上がっている。
今朝の話題、とは言うまでもなく相合い傘のことだ。
残りの一つ、普段俊一が所属している集団だが、相合い傘を話題にしている点では彼らも例外ではなかった。竹田の周りに集まりつつ、ちらりちらりと明津怜奈の方を盗み見ている。
彼らに倣って俊一も明津怜奈をチラ見した。
彼女は今、最前列の左端の席にいる。昨日の放課後にやっと設けられた、彼女の新しい席だ。
そこで数人の女子に取り囲まれていた。その女子達の中で一人は窓辺にもたれ掛かり、一人は明津怜奈の机に腰掛けている。
学年きってのイケメンと相合い傘で登校した直後と言えば、ああして女子に取り囲まれて「ちょっとちょっとどういうことよ」なんて詰問されるのはある種のお約束だ。
だが、見たところそうではないようだ。明津怜奈を取り囲む女子達の目には同情の色が浮かんでいた。
彼女たちは皆、一度竹田に一目惚れしたことのある者達だ。大方、「あの人は止めた方がいい」と心の底からの忠告を呈してやっているのだろう。
無駄なことだ。と俊一は思う。
彼女たちは竹田と一度話しただけで熱が冷めてしまった。しかし明津怜奈は違う。彼女は最初に竹田の心のイケメンな部分に触れてしまったので、今後どんなに竹田が常軌を逸した発言をしようとも、彼の人間性を疑うようなことはないだろう。
竹田の人生初の「脈あり」だ。よかったなぁ、竹田。
「家が隣かぁ……こいつは敵わねえな。」
俊一達のグループの一人、滝塚翔が椅子の背もたれに仰け反る。こいつは昨日の昼休み「なあ、俊。あの子どう思う。」と明津怜奈の容姿について俊一にしつこく絡んできた奴だ。
敵わない、などと口では言うが、奴の目を見る限りそれほど悲嘆しているようには思えない。相手が竹田なら、ほどなくして別れるだろう、と高を括っているのは明らかだ。
竹田を取り囲む他の男子や、もう一つのグループの野郎共も同じことを考えているのも明白だった。
「おい、藤堂。このカップルどう思う。」
と、滝塚が昨日の昼休みと同じ調子で藤堂美希に話を振る。
藤堂は教室の騒ぎなどどこ吹く風。自分の机の上に上体を寝そべらせて本を読んでいたが、あんまり滝塚がしつこいのでページをめくりながらボソッと答えた。
「……いいんじゃない。」
奇しくも昨日の俊一と同じ答えだ。
つれねえなあ、と滝塚は笑う。こいつはこの、クールで無関心な藤堂美希に一体どんな返答を求めていたのだろうか。
「おい……大原……いい加減、授業始まる……」
背の高い男子にヘッドロックをかけられた竹田が顔を真っ赤にして唸る。
奴の言うとおり、まさにその瞬間一時間目のチャイムが鳴って前原先生が教室の扉を開けた。先生が姿を現した途端に何人もの人が元あるべき場所に収まる様子は、何度見ても面白い。
今日の一時間目は「社会」だった。先週まで社会科では「日本の国土とくらし」とかいうのをやっていて、日本の地理地形に関する色んなことを勉強させられていた。
日本の三大山脈とか、そのふもとに住む人々の暮らしとか……日本は島国だから周りを海に囲まれていて、それだけ水害の危険も大きい、なんてのも言われてたな。
俊一はあまり社会科は好きではない。だから、今日もいつも通り先生が黒板に書いたことを写す横で、ノートに落書きをして時間を潰すつもりだった。
三ヶ月前、五年生が始まって最初の授業で、前原先生は東日本大震災について語っていた。
語っていた、と言っても四十五分間ずっとその話をしていたわけじゃない。社会科を学ぶ意味を皆に説明するときにその震災を持ち出して「身の回りの地形を勉強して日頃から災害に備え、迅速な対応をとっていれば被害はもっと少なくてすんだんです」なんて押し付けがましい理屈をこじつけていただけだ。
前原先生はあんな偉そうなことを言っていたが、そういう自分はどうなのだろう。例えばそこの、弥陀ヶ原が噴火したとき、前原先生は迅速な対応で被害を食い止めることが出来るのだろうか。
そんな一学期が始まってすぐの授業なんて今の今まで忘れていたけれど、今日再び思い出すことになった。
今日の授業のテーマは「原発」だった。もはや日本の国土なんて無関係だが、前原先生はどうしても今日、この授業をやりたかったみたいだ。
「───と、皆さんご存じの通り、五年前の震災はたいへん多くの犠牲を生み出しました。」
二十分間の教育ビデオを巻き戻す傍ら、前原先生が皆の方を向いて言う。
そのビデオは東日本大震災が日本社会に及ぼした影響についてを取り上げたもので、最後は福島原発の爆発事故で締めくくられていた。
一応、ナレーターは原発を忌避するような台詞は言っていなかったが、あれだけ燦々たる映像を見せつけられた後で大破した原発の写真を持ち出し、「日々の暮らしを支えてくれる発電所とどう向き合うかが、今後私達に与えられた課題なのです」などと言われれば原発反対を唱えているようにしか聞こえない。
「今回の地震は過去に類を見ない、凄まじいものでした。五年経った今でも元暮らしていた場所に帰れない人がいる点でも、阪神淡路大震災を凌ぐ規模だったことが分かります。」
二十年前の震災と比較して、もっともらしく今回の震災の恐ろしさを刷り込もうとする。
その震災は俊一が生まれる前の出来事だ。それに関しては名前くらいしか知らない俊一だが、まるで「今回のに比べればあのときの震災はまだましだった」とでも言いたそうな口振りには、なぜかむっとした。
「東日本大震災の主な被害と言えば、津波、そして原発です。それについて、明津怜奈さんに聞いてみましょうか。」
「────え?」
は?
あんまり前原先生が当たり前のように言うものだから、俊一は耳を疑ってしまった。
明津怜奈はずっと、教室の最前列で俯きがちに座っていた。部屋の中央にいる俊一からは彼女の顔は見えないが、あのときの映像が流れている間中彼女は必死に感情を押し殺していたに違いない。
心を閉ざした暗い表情。前原先生は明津怜奈の顔が見えていたはずなのに随分ヒドいことをするな、と俊一は明津怜奈の後ろ姿を見ていたのだった。
やっとビデオが流れ終わって彼女も顔を上げることが出来たというのに、前原先生は一体何を言い出すのか。
「明津さんも、震災でつらい思いをしてきたでしょう。原発のせいで遠くにお出かけも出来なくなって……」
「それは……」
「もしよかったら、当時のこと、皆に話してくれないかしら。震災を知らない人たちに被災者の気持ちを伝えるのって、先生、大事なことだと思うの。」
俊一は信じられない思いで先生の顔を見た。
確かに前原先生は、普段から空振ってる感じはしていた。テストで良い点が取れない子に対して過剰に宿題をやらせたり、誰々が誰々のことを好きだという噂を耳にすれば、頼まれてもいないのに仲を取り持とうと躍起になったり。本人は善意のつもりでも、対する子供の気持ちを考えていないために疎まれることをすることが度々あった。
だから俊一は、前原先生がそういう人だというのはもうずっと前から知っていた。だけどこんな……明津怜奈の傷口をさらけ出すようなことをするなんて。
あり得ない。
明津怜奈の狼狽はお構いなしに、前原先生は教卓から降りる。
そして彼女の前に屈み込んだ。
「国語の作文とかじゃないから。ちょっとくらい間違えちゃってもいいのよ。」
「……。」
「つらかったことを、一つずつ、ありのままに話してみて。」
「……っ」
明津怜奈が言葉に詰まる。
そのとき、俊一の右に座る戸田龍平が小さな欠伸を漏らした。
「……。」
前原先生はこちらを見ていない。明津怜奈の机の前で、彼女の表情を下から窺っているだけだ。
俊一は今、気付いた。クラスの大半は、授業が中断されて憮然としている。授業が進行してたってつまらないものはつまらないが、こうして指名された子が黙りこくってしまったときほど不愉快な時間はないのだ。
そして。そんな人達の殆どは、明津怜奈に呆れた目を向けていた。
「何とか言えよ」「あーあ、早く終わんねえかな」「何してんだろ」────ひそひそと、俊一の耳に不満の声が届く。小さな声だが、明津怜奈にも聞こえてしまっているかも知れない。
彼女の肩が強張りはじめた。
ここで俊一が立ち上がって、「そんなこと言うな!」とあいつらに吠えてやればいいのだろう。それか前原先生を責めるのでも良いかも知れない。
しかしそんな勇気は俊一にはなかった。
机の上で指を組んで、明津怜奈のために早く時間が過ぎるのを祈るだけで精一杯だった。
ふと、左の席に違和感を覚える。
「……?」
何事か、と俊一は顔を僅かに左に向けた。
そして驚愕し、目を見開いた。
俊一が驚いたのは、いつの間にか窓の外の空が晴れ渡っていたからではない。ましてや、窓の手前で委員長の山下美佳子が教育ビデオの内容に涙を流していたからでもない。
さらにその手前、俊一の二つ左の席で藤堂美希が「はぁ?」って顔で前原先生を睨んでいたのはちょっと意外だったが、それでもない。
竹田だ。
奴は俊一の隣で歯を食い縛り、机の上で両の拳を堅く握っていた。
腹でも痛いのか────そんな冗談を受け付けないただならぬ覇気が、竹田の全身から漲っていた。
(怒ってる……?)
竹田が義憤に燃えることは何度もあった。下級生がイジメられてたりなんかすると声を張り上げて止めに入ったし、イジメてるのが上級生だったなら奴は挑発的な態度をも取って見せた。「そうやって弱者を嬲ることでしか自分の弱さを隠せないのか」と。
それだけ言って、やり合ったらホントに勝つのが竹田のカッコイイところだ。
とにかく、竹田が“憤る”ことはそう珍しくない。
しかしそれはいつも竹田の「理性」が燃え上がっているのであって、今のように彼の「感情」に火が点くのはこれが初めてではないだろうか。
竹田は今“怒って”いるのだ。
俊一がこちらを向いているのに気付いたか、藤堂美希が怪訝な顔で俊一のことを睨んできた。
しかしすぐ、俊一が自分を見ているのではないことを知る。彼の視線を追うより早く、藤堂美希も竹田の異変に気が付いた。
「……!」
「許さねェ……」
彼女が口を半開きにするのと同時に、竹田が歯を食いしばったまま低く唸る。
ちょっと、どうにかしなさいよ。とでも言いたげな視線を藤堂美希は俊一に寄越してきた。
はあ!? と俊一は大袈裟に口を開けた。続いて、無理だって、お前がやれよ。と彼女を睨み返す。
無理って、友達でしょ。
腐れ縁だよ。
腐れ縁でも何でも、私よりアンタの方が親しいじゃない。
親しいからこそ無理なこともあるの。
何それ、もしかして竹田くんが怖いの。
なっ、ち、ちげーし。こんなときどんな顔して止めればいいのか分かんねーだけだし。
笑えばいいと思うよ。
そういうの求めてない。
ほら、緊張、解れたでしょ。早く竹田くんを止めて。
こんにゃろ……よし! こうなったら二人で止めるぞ!
……無理。
は!? 何で!
この人って、大勢に反対されればされるほど突っ走りそうじゃない。
それ、言えてる────よくもまあ、目だけでこんなに複雑な意志疎通が図れたものだと思い返して懐かしむのは、もっとずっと後の話。
なんて、二人が不毛な論争を繰り広げている間に、事態は取り返しのつかないことになってしまった。
「────!!」
俊一と藤堂美希の中間で、竹田が手を挙げる。
クラス中の視線が一斉に竹田に集まった。
そう。クラス中の視線が、である。
竹田より後ろの席の人はもちろんのこと、前に座っている奴ですら竹田が手を挙げた途端後ろを振り向いたのだ。
それはなぜか。
よせばいいのに、竹田は手を挙げると同時に起立までしていたからだ。
「先生。発言、よろしいですか。」
直立し、右手を挙げた格好で竹田は発言権を申請した。
クラスの殆どが呆気にとられるが、数秒もしない内に隠れ笑いが広まっていった。
「な……何かしら、竹田君。」
さしもの前原先生も、奴の行動には度肝を抜かれた。
竹田はややこしい奴だが、授業中に私語をするようなことはなかった。普段の態度が真面目であるために竹田は先生達から優等生として一目置かれているのだが、それ故に前原先生にとってこの状況は意外中の意外だったようだ。
愛想笑いすら忘れて、竹田の顔を見つめていた。
「それでは、発言を許されたものと受け取らせていただきます。」
大袈裟な前置きをしたかと思うと、奴は挙げていた右手を前に出し先生の眉間をビシッと指した。
一呼吸置く間に、竹田は明津怜奈を一瞥する。
そして唐突に、言った。
「前原先生。あなたはあまりに無関心すぎる。」
「無関心……?」
「そうです。先生は先ほど明津さんのことを“被災者”と呼びました。では、被災者とは何ですか。」
質問の意味が分からず、前原先生は戸惑う。もしも俊一が同じことを聞かれたら、彼だってすぐには答えられないだろう。
俊一の右で戸田龍平が溜息をついた。
「被災者って、それは……明津さんみたいな人達のことでしょう。」
「ああ、質問の意図が分かりませんでしたか。すみません。なら、こうしましょう。」
偉く不敬な物言いに、前原先生がむっとする。
当然竹田はそんな様子を気にはしない。指さしていた右手を机の上に降ろし、次の質問を浴びせかけた。
「先生。被災地とは、どこからどこまでですか。」
前原先生が、明津怜奈の机を支えにして立ち上がった。教師を小馬鹿にするかのような竹田の屁理屈に、いい加減業を煮やしたのか。
「竹田君……先生、悲しいわ。いつもは真面目な竹田君が、今日はどうしちゃったのかしら?」
「質問に答えてください。答えられないなら、そう言ってください。」
「……いい加減になさい!!」
前原先生の雷が、落ちた。年に何度も聞かない金切り声にクラスのほぼ全員が肩を竦め、隣の教室が途端に騒がしくなったのが壁越しに伝わってきた。
「竹田君、知ってて言ってるんでしょう。被災地って言ったら、宮城とか、岩手とか、そういう東北の所じゃないの。」
「そうですか? 茨城や栃木は東北ではありませんけど、そこもかなり強く揺れたみたいですよ。」
「……じゃあ、そこもよ。そういった、揺れで害を被った土地を被災地って言うの。」
「“じゃあ”ですか。じゃあ、僕も質問を続けます。」
その物言いに、教室の後ろで滝塚が吹き出したのが分かった。
「僕達が住んでいるこの土地も、あの日は揺れました。太平洋の震源帯との間に北アルプスを挟み、地震が伝わりにくい地形だというのに、です。」
竹田は今度は左手を横に上げ、窓の外に広がる山々の稜線を指し示した。
「震度3というのは、ええ、確かに太平洋側の土地に比べれば微々たるものでしょう。しかしあの揺れで恐い思いをした人もいるはず……そして家に帰ってテレビを点けて、あの惨状を目にして衝撃を受けた人もいるはずです。先生だって、そうでしょう。」
竹田は左手を、先ほど教育ビデオが流されていた備え付けのテレビに向けた。俊一達が、そして明津怜奈が見せられていた映像はまさに、五年前のあの日一日中放送されていたのと同じだったのだ。
「……竹田君、キミ、もしかしてとは思うけど……自分達のことまで“被災者だ”って言い張るんじゃ……」
「誤解を恐れずに言えば、そうなります。」
「ねえ、そんなの、違うと思うわ。何にもつらい思いをしてない竹田君が被災者だって言っちゃったら、本当に被災した人達に失礼だと思わない?」
そのとき、竹田の目がギラリと光った。今日までの、ある種の余裕を含んだ表情ではない。心の奥深くが怒りに燃え上がっている者の目だ。
「では先生は、震源に近い人の生活とそうでない人の生活とを秤に掛けるんですね? 東日本大震災と阪神淡路大震災とを見比べるのと同じように」
「そんな言い方……! 何が言いたいのッ!」
「そうやって日本人を“被災者”と“それ以外”で線引きするから、心のどこかで『あの地震は自分には関係のない、遠いところの他人事だ』などと捉える人が出てくるんです。」
身振り手振りを交えることなく、竹田は口だけで説教している。
窓際の最後列で誰かが「偉そうに」と言うのが聞こえた。
「でも……仕方ないじゃない。太平洋側の被害はとても酷かったのよ? 竹田君はそんなこと言ってるけど、実際にあそこがどうなってるのか見たこと無いから、そんな勝手なことが言えるのよ。」
「それは……否定は出来ません。ただ僕が言いたいのは、あの震災は決して他人事なんかじゃない。ということです。友達が苦しんでいたら、自分のことのように思って相談に乗りなさいって、先生もいつも言っているでしょう。それと同じですよ。」
言い負かされそうになって、前原先生の唇がわなわなと震えた。
しかし教え子達の手前、感情的に泣き出すことは許されない。二十も年下の竹田に対して、前原先生は負けじと言い返した。
「竹田君。キミはそんな適当なこと言ってるけど、そういう自分はどうなの? キミの方こそ、心の中では他人事だと思ってるんじゃないの?」
「……何を言っているのですか、先生。」
すると竹田は心底呆れた様子で溜息をついた。そうかと思えば窓の外を、今度は顎で指し示す。
「僕達が住んでいるこの土地には、あんなに雄大な火山がある。あの山々は僕達を季節の台風から守ってくれるけど、その山頂には“カルデラ”という名の爆弾を抱えている。あの、向こうの河川敷にある大岩が、かつての“暴れ川”が山の麓から一息に運んできた物だというのは、先生も知っていますよね? ここからしばらく西に行けば、この数百年間で何度も行路を変え、数え切れない人数を攫っていった一級河川もあります。」
「……っ。」
「今はだいぶ土木整備が進んでいるとは言え、ここだって安全なわけではないのですよ? ここだけじゃありません。四つのプレートが密集し、国土の大半が山であるこの日本において安全な場所など有り得ません。だから、僕達は震災で家を無くした人達をただ眺めて突っ立っている場合じゃないんです。」
ついに、前原先生の顔が真っ赤になってしまった。明津怜奈の机の端を握り締め、その肩が震えている。
竹田の言っていることが正しいかどうかはともかく、奴は先生に対して生意気が過ぎた。今までずっと先生の言うことを素直に聞く良い子だと思っていた分、衝撃が大きかったのだろう。
「……皆さん、自習をしてなさい!」
再び叫んだ前原先生の声は、無理をして絞り出したためか裏返っていた。教室の最後列でガッツポーズをした滝塚を涙目で睨みつけ、前原先生は竹田に向かって低い声で指示した。
「竹田君。キミは今から職員室に来なさい。」
「ええ、構いませんよ。むしろこちらからお邪魔しようかと思っていたところです。」
その一言で、先生はキレた。キィーッと歯噛みして俊一の隣までずんずん進んできて、立っている竹田の腕を鷲掴みにして扉へと引っ張っていった。
先生の足音が遠のいた途端、教室の中は再び騒がしくなった。
「今の、何?」「マジかよ、あいつヤバくね?」「竹田の奴、サイコーだな、おい」「やっぱぶっとんでんなあ」────皆、今の事態を面白がっている。竹田はなぜか先生には媚びを売るタイプだと思われていたから、彼らにとっても今のはかなりの驚きだったのだろう。
(あいつ……やりやがった!)
俊一は今更ながら頭を抱えた。竹田が先生に説教をしている間はずっと呆然としていて、頭を抱えるどころではなかったのだ。
どうすればいい。追うべきか?
竹田においては、何も心配はしていない。あいつは職員室でもあの調子を崩さないだろう。
心配なのは、前原先生だった。あの様子だと、もしかしたら職員室に着く前の廊下で竹田に泣かされてしまうかも知れない。
どうしよう。と、俊一は左を向いた。
竹田がいなくなったので、彼の視線の先にいるのは藤堂美希だった。彼女はもうとっくに周章から冷めてしまったのか、頬杖をついて俊一のことを見つめ返している。
行けば。
と、彼女の目は言っているようだった。
俊一は少し恥ずかしくなって、藤堂美希から目を逸らす。そうだ。竹田のことは彼女には関係ない。あいつは俺が止めないと……。
視線を逸らした拍子に、明津怜奈がこちらを見ているのに気付いた。
「……。」
彼女も迷っている。
竹田は止めねばならない。しかし自分一人で止められるだろうか。
青ざめた顔で、彼女も俊一に助けを求めていたのだった。
止めるなら、あの二人が職員室に着く前だ。
二秒と少しで心を固め、俊一は力強く頷いてみせた。
それを見て、明津怜奈は唇を引き結ぶ。
二人とも覚悟を決めた。
ええい、どうとでもなれ!
どう転んでも竹田の責任だ。
俊一と明津怜奈は、両手で机を突いて立ち上がった。
長文を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
いかがでしょうか。文章や物語構成の問題点、「この物語はスマイルジャパンに相応しくない」などの叱責、または読んでいて不快に思った表現などがあれば報せてもらえると幸いです。
最後に。
人物どうしのやりとりや状況の描写などをなるべく愉快に書き表そうと努力した節はございますが、δは決して東日本大震災そのものを面白おかしく取り上げているわけではありませんので。そこだけは、ご理解いただけるとありがたいです。




